2016.04.14

「中島みゆきの社会学」(青弓社1988年)は5人の中島みゆき論である。

最初の山内亮史「望郷の眼差しと義への情熱」がいかにも社会学者らしく、2項×2項で整理していて、面白い。要約しておこう。

      中島みゆきの歌には3種ある。・個別体験を想起させるもの・特殊で異次元な詩・普遍的な夢や憧れ。中島の歌は60年代の「反抗期」が終わった後の「喪失感」として始まった。歌の中では滅多に政治を語らないが、1983〜85年のコンサートにおける彼女のパフォーマンスはストレートなメッセージを演出していた。差別との闘い、核兵器への抗議、政治への関わり。評論家への揶揄。彼女の詞には認識のリアリティと実践意志(主体性)の結合(方法的自意識)がある。

      X軸に地方−都会、Y軸に喪失感−積極性(出発)とすると、I象限は自立、II象限は土着、III象限は彷徨、IV象限は孤独。歌詞の内容がそれぞれに分類される。それぞれにおいて、その状況からの「望郷」は内容が異なる。I象限からは「帰郷としての望郷」、II象限からは「祈りとしての望郷」、III象限からは「無垢への回帰としての望郷」、IV象限からは「脱出としての望郷」。

      著者にとっての中島みゆきは「変革感覚の実践的蘇生」を促す思想的存在である。「正義の感覚」がある。「狼になりたい」は1970年代終り日本の階級社会の見事な描写である。共感能力に優れている。X軸にインサイダー−アウトサイダー、Y軸に下層階級−上層階級とすると、IV象限が社会的弱者と抵抗志向群(C)で、中島みゆきの歌の大部分がこの立場からに入る。III象限はマイホーム志向中間層群(B)で、II象限が新エリート志向群(A)、これらは背景として登場するのみ。中島みゆきは (C) からの展望として I象限を見ている。つまり、自立と抵抗を語る。この点が(C)を見ながらも諦めを語る日本の多くの演歌との相違である。(ユーミンは (A) を見ているということになるのだろう。)

      中島みゆきの恋歌には、娼婦や中卒の女の子といった弱い女たちへの慈愛、「やまねこ」「毒おんな」の開き直った啖呵、仕事をしてゆく自立した女、という3のイメージがある。

      中島みゆきのオリジナルアルバムは41枚。ツタヤにあるのを順に聴いてきて(置いてないのが結構あるが)38番目のアルバム「荒野より」(2011年)に到達。夜会「2/2」からの歌が大部分のようであるが、このアルバムではそれをあまり意識することもなく楽しめる。いずれも非常に面白い曲ばかりである。アレンジも多様である。「鶺鴒(せきれい)」、「彼と私と、もう1人」が特に印象的。「荒野より」、「旅人よ我に帰れ」はメッセージ。「優しすぎる弱虫は孤独だけを選び取る。真実の灯をかざして帰り道を照らそう。。。」夜会「2/2」は茉莉と梨花という姉妹が男を巡って争う物語なのか???それとも、梨花は茉莉の自意識なのか?僕は見ていないのでよく判らない。最後の「走」も良い。このアルバムは確かに名作である。顧みれば、最初のアルバム「私の声が聞こえますか」の初々しい感性から「生きていてもいいですか」の失恋リアリズム、その後の<生きること>への応援歌の数々、ロックへの傾斜、社会的なメッセージ、と歌の領域を拡大し続けて、小説から夜会にいたる大きな物語の世界、アジア的、あるいは輪廻転生、宇宙的な内容までに拡がってきた。その間に<世界性>という言葉が入らない、というところには多分意味がある。現在<世界性>という言葉は金融資本主義に汚されているから選択されていないのである。

      「歌旅2007」のDVDを観た。AMAZONの評価にあったように、挿入された演奏旅行や準備の白黒映像は折角の演奏会気分を殺ぐような気もするが、僕にとっては普段の中島みゆきやその協力者達の素顔が見れて面白かった。音がやや割れていたように思う。それだけが残念ではある。ともあれ、歌っている時の中島みゆきは歌詞の内容に合わせて表情も声色も変わる。目が怒ったかと思えば笑う。まるで歌の魂が乗り移ったみたい、というか、それでこそ歌手なんだろうと思う。あまりのめりこみすぎて歌詞を忘れるというのも何となく理解できるような気がする。その感情の籠め方はあくまでも意図的なものであるというところがプロ根性。お馴染みの曲では歌い方を変えている。「地上の星」では最初からドヤ声でスタートして、お終いの方ではコミカルな声に変わる。

相変わらず、一番動かされたのは「命の別名」*)であった。何故だろうか?サビの部分で涙が出そうになる。中島みゆきを評価することは僕には出来そうもない。他のジャパニーズ・ポップスを普段聴いていないから比較のしようがないのだが、歌詞の内容から言えば、それほど特異なものでもないと思う。他の歌手も似たような思想を歌っている。やはりその詞の洗練された迫力だろうか?旋律の付けかただろうか?歌い方の巧さだろうか?そういう分析が何だか無意味なような気もする。ただ、かれこれ2ヶ月ばかりかけて、デビュー以来の曲を殆ど聴いてみて、彼女の訴えたい事の芯にあるものは、首尾一貫していることがよく判る。<全ての生命とその連鎖(血の繋がりではなくて想いの継承とか、極端には輪廻)への徹底した畏敬>である。これは殆ど宗教的なものだと思う。そういう意味で幼い頃から家庭で馴染んだと思われる天理教の思想が影響しているのかもしれない。

調べてみると天理教は江戸時代に中山みきという女性が始めたものらしい。神道に分類されているが、一応教義を持っているらしい。神の摂理を信じて楽しく生きる、というのがその心髄らしいがよく判らない。また基本的に金銭に捉われる事を嫌い、信者はしばしば財産を教会に差し出すようである。中島みゆきの家は天理教の教会長だったし、父の墓も天理にある。本人も天理教の勉強会に参加していたらしい。現在は信者なのかどうか判らない。歌の中で宗教的なものに何となくその気配があるということらしいが、むしろ個人の主体性を鼓舞するような歌が多いように思う。これらの事については、本人の意思を憚って誰も語らない。つまりそれほど中島みゆきは彼女を知る人達から尊敬されているのである。バッハがキリスト教の神に仕える職業音楽家として徹底していたのと同じように中島みゆきは天理教の神に仕えているのだろうか?多分そうではなくて、天理教の神も含めて、もっと大きなものに仕えているように思われる。だとすればそれは何か?
*)「命の別名」については、文句のつけようのない解説があった。

http://www013.upp.so-net.ne.jp/sigeru/books/nakajima/nakajima_06.html

      中島みゆきの夜会「2/2」は 1995年、1997年、2011年と作り直されてきた。そんなに拘るにはそれなりの深い理由があるはずである。そこで、1996年に小説となった「2/2」(幻冬舎)を借りてきて読んだ。なるほどこういう話だったのか。。。双子として産まれて来る時に、姉の方が死んでしまった。姉が茉莉、主人公が梨花。2つあわせると茉莉花(ジャスミン)。子供の頃ふと聞いてしまった親戚の人の言葉、<この子は姉を殺して生れてきたのよ>というのがトラウマとなって、<それ>がもうひとつの人格として梨花の幸せを邪魔する。

そして、恋人の圭に危害を加えることを恐れて、梨花はベトナム旅行に旅立つ。直ぐに帰って圭とは二度と会わないつもりだったが、手違いで帰れなくなる。結局圭がトラウマの真相を調べて助けに来る。最後に梨花が本当の茉莉を幻覚して真相を知る。真相とは、<茉莉が臍の緒を首に絡ませていたので、梨花が助けようとした>ということであった。トラウマとなった梨花の中の<それ>、つまり偽者の茉莉、と本当の茉莉との闘いが最後にあって、梨花はついに胎内での出来事を思い出して<それ>が消える。茉莉が<梨花は几帳面で正義感に溢れているのは良いけれとも、人の証言なんていうものはその人の勝手な解釈に過ぎない。そんなことを信じて自分を責めてはいけない。そんなところに人が従っていい「正しさ」は無い。>という。茉莉はこれまで<それ>を消すために、圭を利用しようとして、梨花の2重人格障害を圭に見せようとしたのだが、圭がなかなか気づかず、梨花があまりにも真面目だったために、こういう大きな騒動になってしまった。けれども、結局は圭が出産の秘密を探り出して助けたのである。確かにドラマチックで面白い物語なのだが、それだけではないだろう。何からの意味でこの物語は中島みゆき本人の<歌でしか言えない>人生、つまり<自分の中の他者との永遠の緊張関係>を語っているように思える。

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