広島シティーオペラ「ドン・ジョヴァンニ」を観てきた。ドン・ジョヴァンニ役は折河先生である。立派、としか言いようが無い、素晴らしかった。舞台は7つのドアを並べた白い部屋である。序曲の時に、7つのドアから7人の登場人物が出てきて、パントマイム風の仕草をする。他、バレリーナを使って女達を見せたり、コーラスや楽器演奏をする人達が舞台に登場したりして、面白い演出であった。背景が白なので、そこにドン・ジョヴァンニの女性遍歴リストが映し出される、というやり方も効果的。喜劇的な処はキチンと誇張されたりしていて、全体にストーリーが判りやすかった。最後は騎士長の石像(安東さん、岩国の歯科院長である)が出てきてドン・ジョヴァンニを地獄に引きずり込むのだが、コーラスが死神として付き添っているのが効果的であった。

     「中島みゆきの社会学」で出てきた「X軸にインサイダー−アウトサイダー、Y軸に下層階級−上層階級」という分類図で考えると、ドン・ジョヴァンニは I 象限の上層階級・アウトサイダーということになる。悪人をこれだけ生き生きと賛美しているかのように描く物語はあまり例が無い。ドン・ジョヴァンニは男の本能そのものである。この物語は普段隠されているその男の奔放さが現れたとき、社会の別の側面が顕になる、という「実験」である。何が出てきたか?男達の不甲斐なさと女達の優しさと強さである。振り回される従僕レポレッロ、ひたすらドンナ・アンナとの日常的な愛を願うだけの婚約者ドン・オッターヴィオ、短絡的に嫉妬で怒りながらも、丸め込まれてしまう農夫マゼットが全て笑いの対象であるのに対して、父を殺されたドンナ・アンナの毅然とした態度、ドン・ジョヴァンニに裏切られながらも、なお愛を捨てる事が出来ず、最後まで彼の更生を願うドンナ・エルヴィーラ、ドン・ジョヴァンニに誘惑されかけながらも、マゼットに母性愛のような慈愛を注ぐゼルリーナは、三者三様であるが、いずれもモーツァルトの抱いている理想の女性像だろうと思う。

     ところで、中島みゆきの「橋の下のアルカディア」の最後に登場する「零戦」が何となく、演出上とはいえ、このオペラで最後に登場する「騎士像」と重なるのだが、零戦が IV 象限の下層階級・アウトサイダーを天上へと救い出すのに対して、騎士像は上層階級・アウトサイダーを地獄に引きずり込むのだから対照的である。物語の全体も Y 軸を反転させたように出来ている。いずれの場合もアウトサイダーはインサイダー達から追い詰められるのである。

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