2019.05.07
三浦雅士『孤独の発明~または言語の政治学』(講談社)は借りた後で宮崎旅行が入って、しかも『宮沢賢治の真実』まで重なってしまったので、とても読む時間が無い。三浦氏はなかなかの博学で、題材を変えながら15の章を重ねていて、僕には馴染みのない話題が多い。けれどもパラパラと眺めると、結局は同じ視点に立っているようである。そこで、とりあえず、『はしがき~孤独について』と第3章『言語の機能は自分を苦しめることだ』(最近のチョムスキーの言語論)を読んだ。

・・・言語はコミュニケーションを目的として生まれた機能ではなくて、ホモ・サピエンスの進化のある段階で突然生じた「他者の気持ちになる能力」である。それは母子関係の中で母と子がお互いに表情を「解釈」しあうという場面で「社会化」された。単に記号-意味の関係を使いこなすことであれば、多くの生物でもできるのだが、相手の立場に立つ、ということはおそらく人間にしかできない。それは、カンブリア紀の進化爆発を誘起した「視覚」の機能と結びついて、自分-相手の関係を超越した視点から眺める能力ともなる。それこそが、「自己」意識である。チョムスキーの主張する言語の条件たる「入れ子構造」もその第3者の視点から生じる。子供の「ままごと」や「見立て」を可能にする。言語はこれまであまりにも聴覚に結び付けられすぎてきた。これはヨーロッパ言語が表音文字を使うからであり、言語は本質的には視覚機能の延長上にある。第3者の視点とは自分自身に語りかけることであり、それこそ「孤独」現象そのものである。

・・・とまあ、こんな感じで、切れ味鋭く、文芸、文明批評が為されていて、時間をかけて読む価値がありそうである。

・・・ところで、単なる「記号-意味」の関係を超えて、相手の気持ちになる、ということは、結局、記号の背後にある種の人格を想定することであり、量子論で言えば、測定物理量の背後に実在を想定することである。つまり、素朴実在論?これは人間固有の幻想か?

・・・更に拾い読み。

●第11章:商業と宗教
・・・鳥に追われる小動物は、逃げる為に自らを鳥瞰しなければならない。その能力の対象化が言語である。その対象化は人間にだけ訪れた。視覚の領域。自己を離れて浮遊する視点が、人間に、言語と共に死という領域、死後と言う領域をもたらし、おそらくまた貨幣という領域ももたらした。宗教は貨幣をたずさえて登場する。魏晋南北朝時代、国際的な取引を日常的にこなす力、鳥瞰力の介在が必要となった。中国の王朝は当時外からやってきた仏教に目を付けた。組織力と信用である。西欧におけるユダヤ人も同様。

・・・カンブリア紀の爆発的進化をもたらした視覚の登場以来と考えられるのが、人間の言語の登場である。視覚によって、狩人と獲物の関係に空間という要素が加わり、敵あるいは餌を空間を隔てて認識するようになった。これが人間になると、突然変異で、相手の立場に立つという脳の回路が出来て、そこに空間の因子が入ってきて、私ー相手を超越的に眺める第3者の視点が生まれた。それを外在化したものが言語ということで、時間も空間も死も孤独も、そもそも自己も言語の産物である。ここでいいう言語は、ソシュール流の記号-意味の関係の恣意性という見地からではなくて、また、トマセロ等の動物進化論でもなくて、入れ子構造(階層構造)を言語の本質と考えるチョムスキーの観点による言語である。その言語がたまたまコミュニケーションの役に立っているに過ぎないのだが、人間の言語は騙し騙されるための手段でもある。いずれにしても、人間は社会的関係の産物。

●第13章:感動の構造
・・・騙し騙されることは人間の快楽である。見方を変えると対象が全く違ったものに見えてくることに驚き、感動する。人は不意を打たれて驚き、命に別状がないことが判った瞬間に笑う。信ずるとは騙されてもいいと思うことなのだ。これが宗教の基底である。だが、それは、商業の基底でもあった。

●第14章:視覚革命と言語革命
・・・視覚だけは間接的である。光とは距離の謂いである。この距離が思考を生んだ。距離とは猶予である。この猶予が生命に思考する余裕すなわち時間を与えた。思考は文字化、言語化によって、独自の領域を持つようになり、時間も空間もその後に初めて明瞭な姿となる。眼が時間を生み、空間を空間として、つまりそこに到達するまでの時間として、把握するに至る。

・・・猶予は思考をもたらし、その思考とは眼前するものを疑う事、自分は騙されているのではないかと疑うことである。言語は自分自身を脅かし続ける技術である。つまり孤独。騙す事疑う事を知り、その事を対象化することの出来た人類だけが、騙し疑うことを超えて、感動する。言語革命が人間にもたらした最大のものは、死の領域、死者たちの広大な領域である。追い追われるものはより高い視点を求める。その視点の必然として水平線の彼方、来世がある。名は生命と共に消えるものではない。この世を超えている。それが文学空間である。あの世の視点に立ってこの世を生きる事、人間の表現行為はすべて、死に関わっている。

・・・人は自分を騙しながら生きていくほか生きようがない。真実はつねに新たな騙しの端緒にすぎない。互いに騙し合いながら、あるいは演じ合いながら生きると言う次元は、「集団」という語には適さない。「仲間」の方が適切である。互いに顔を見合わせる関係。本来的に社会的なのは、組織ではなく仲間である。本来的な意味での他者性、予測不能なもう一つの主体性。社交性。農耕において美徳となった勤勉、勤労は、産業革命以後の社会において一層その価値を高めた。労働価値説。脱工業社会においては知恵と技術が価値を生む。「人間とは社交する動物である」(山崎正和)。

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