2014.02.01

現代宗教意識論:大澤真幸
第2部:現代宗教論の第1章:悲劇を再演する笑劇
      ここでいう悲劇とはオーム真理教事件や宮崎勤の連続幼女殺人事件や酒鬼薔薇聖斗連続児童殺人事件であり、笑劇とはライフスペースのミイラ化遺体事件や加江田塾のミイラ化遺体事件である。18C後半のヨーロッパでは早すぎる埋葬への恐怖(埋葬した後で生き返る)が見られた。生と死の境界は曖昧である。医学的には、「死」は便宜上生き返らない為の臨床的条件が経験的に(確率的に)定義されているだけである。当時サロンでは、活人画(生きている人が固化して歴史的場面を再現する)が流行った。つまり動かないことで既に死んでいる人を表現した。その意味で写真は人物を固化するから死を意味していて恐れられた。逆な意味で、聖母マリア像が涙を流したという伝説は生きていると思えたから伝説となった。映画の意味は生きていることを表現することであった。要するに、生/死(動/静) という対立自身が 生という類の内的な対立と見なしうる。鶴見済の「完全自殺マニュアル」自殺=ハルマゲドンがむしろ個人・世界の永続性の証であるのはこのような意識による。

      エリュアーデに言わせると、伝統社会の人間においては全ての行為と体験が聖なるものと関係つけられている。聖なるものは宇宙の中心にあり、生活の場をそこからの距離において評価していた。マックス・ウェーバーによれば、近代化・世俗化・脱呪術化がヨーロッパで起きたとき、宗教が関わった。召命としての職業に打ち込むというのは世俗内での禁欲であり、修道僧に対応する、ということである。カトリックにおいて、聖なるものが現れるのは宇宙の中心であったが、カルヴァン派においては、宇宙全体が聖なるものに包括される。しかし、その予定説において、聖なるものは世俗行為の関与からは隠されている。その否定性によって、逆説的に聖なるものが信じられるのである。しかし、時代を下れば、人々の欲求に従って、彼方に想定される聖なるものはやがて彼方ではなく、経験世界への現れの中に認められるようになる。

      麻原彰晃は俗物であったが、その俗物性と信者が彼を聖なるものとしたことは矛盾しない。彼の俗物性は聖なるものが信者の届かないところにある、という事を意味していて、その事自身が麻原を聖なる者と信じさせた。麻原が最終解脱者である、とはそういうことである。その傾向はその後の新興宗教において加速された。極身近にも、カリスマ美容師、カリスマ店員、といった流行は、俗なる日常性がそのまま聖なるものに等価されてきたことを意味する。自己否定的な現れがそれ自体で超越的な聖なるものとして提示されているとき、それは、聖なるものが本当は単なる空虚であることから目を背ける遮断幕、麻薬として機能している。

第2章:父性を否定する父性
      今西錦司が挙げた人間社会の特徴は、近親相姦の禁止、外婚制、性別に沿った分業、家族が上位のコミュニティーに組み込まれていること、である。霊長類においては、母系社会が普通であるが、ゴリラ、チンパンジーなどヒトに近い霊長類においては父系社会である。ヒトにおいては、子供が2種の他者によって、自己形成する。母親(直接的な他者)と父親(第3者としての他者)である。父性はカントの力学的二律背反として定義される。つまり、「φでない x が存在する」、と「全ての x はφである」の二律背反である。これは例えば、宇宙は因果律に従うがその因果律を駆動させるためには因果律に規定されずに運動を開始する自由が存在している必要があった、ということである。このような例外の位置が父性である。

      現代において父性の復権が言われる。子供もまた父性を求めている。がそれは伝統的な父性ではない。グルとしての父性か?「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメにその寓意を見る。

      使徒と呼ばれる不思議な生物が人類を襲っている。それに対抗した組織ネルフの最高司令官ゲンドウ(父)と使徒と戦う武器である人造人間エヴァの搭乗者碇シンジ(子)の話である。エヴァは搭乗者との神経の共鳴で動くが、電源を外部から供給される必要がある。父が何を求めているのか、子には判らないが、想像して一生懸命応えようとする。それに満足を示さない父は自分を裏切ったと解釈して、子は飛び出してしまう。しかし、仲間が戦っているのを見て戻る。戦いの中で、人造人間エヴァは父を象徴する電源無しに動くようになり、こうして父が乗り越えられる。エヴァは母の子宮の象徴であるから、この物語に見られるのは父的な超越性の徹底した排除である。物語の展開のもう一つの側面は、使徒が直接搭乗者の身体に侵入してくるところである。実際5番目の搭乗者カヲルは使徒であった。シンジはカヲルに愛情を抱く。女性的な他者エヴァこそが超越的な父の真の姿である。ネルフは地下にアダムと呼ばれる生命の源(起源の父)を持つが、カヲルがそれを見て、アダムの最初の妻リリスであることに気づく。

第3章:仮想現実の顕在性
      スローターダイクの「シニカル理性批判」によれば、虚偽意識には4形態ある:嘘、迷妄、イデオロギー、シニシズムである。シニシズムだけは、啓蒙による啓発が役に立たない。彼は自覚的に虚偽に浸っているから。ワイマール時代、詐欺事件が異常に多かった。詐欺師が時代のモデルであった。1923年の破局的インフレは国家の犯した詐欺である。被害者には詐欺期待があった。最後の詐欺師はヒットラーであった。「わが闘争」には彼の詐欺の手口が明かされている。大衆はそれを知りつつ喜んで騙された。アイロニカルな没入、つまりシニシズムである。ゲルマン神話という虚構が政治的現実となった。

      1980年台以降の「新人類」は様々な規範を仮想現実と見なして距離を取る。また「オタク」は特定の虚構を現実であるかのように絶対化する。しかし、これらの両極はしばしば同一人物である。つまり、アイロニカルな没入を別の角度から捉えたものに過ぎない。現実はある意味で仮想現実によって裏打ちされている。それは現実に意味を与えるときにそうである。この場合の意味というのは仮想されるものだから。具体的には儀式や儀礼がそうである。司馬遼太郎の小説に寓意を見出すのもそうである。幕末の武士の世界と現実のサラリーマンの世界とは区別されていながらも、「意味」を共有している。しかし、この虚構と現実との距離が小さくなり、現実が虚構に飲み込まれてしまう。「コスプレ」がそうである。彼は他者に、つまり偽の自己になることによって本来の自己から疎外されるのではなくて、全く逆に、この仮想的な他者こそが、現実の自己よりも一層本来の自己である、という感覚を持つ。

     「意味」は区別或いは選択を媒介にして否定的=反照的に規定される。選択された意味を妥当として他の可能な意味から区別する操作の主体として身体を必要とする。その身体は超越論的な準位に存在しているものとして想定された他者の形態で与えられる。「意味」は超越論的で抽象的な第3者の審級に対して存在しているのである。仮想的な自己が他者としての性格を帯びるのはその役割を評価する視線が直接的な自己ではなく第3者の審級に帰属しているからである。アイロニカルな没入が生じるのは、彼がその対象を直接的に欲するのではなく、その対象が欲するに値するものとして意味づける超越的な第3者の存在が欲すると想定しているからである。たとえ第3者の審級が顕在化したとしても、例えば麻原が俗人としての醜態をさらしたとしても、その超越的な権威を保持する動機が信者側に持続している場合には、その超越的な外観が否定されているというその事自身を第3者の審級の超越性の表現として定位するという反転が生じる。俗人としての醜態は信者の従属の行為によって補償されてしまうのである。俗物性は信者の側に転移される。従って、麻原の俗物性をいくら暴いたところで信者の帰依は揺らがない。

第3部:事件からの第1章:Mの「供犠としての殺人」
     吉岡忍「M/世界の、憂鬱な先端」に拠る。事件は1988-89年。

     宮崎勤は、右手の障害による甘えることの難しさから、祖父に見守られることだけが救いであった。祖父の死によって、精神が不安定になった。多重人格。祖父は「見えなくなった」。やがて、彼には祖父が見え始める。「現れる神」、これはポスト・モダンの神である。近代社会への突破口はプロテンスタンティズムによる、神の徹底的な不可視化であった。その極限に至るとついに神という表象すらなくなる。これが世俗化である。ベケットのゴドーはいつまで待っても来ないが、だからといってゴドーから解放されるわけではなく、ゴドーは待たれる限りにおいて存在している。こうして登場人物は待つという姿勢において神に呪縛されている。これが近代である。これに対して宮崎の神は現れるからポスト・モダンの神である。

      宮崎はビデオ録画の収集をするが、見るわけではない。祖父によって齎される「甘い世界」を構築しようとしたのである。彼はおそらく右手の障害を契機にしてと思われるが、身体的な直接性に嫌悪していた。これは20世紀末以来の現代社会に顕著な特徴でもある。宮崎の家庭があった郊外という居住区はその象徴でもある。電子メディアによるコミュニケーションもそうである。身体とは他者性への媒体である。我々自身が身体であるが故に、自分の外に我々と同じような主体(他者)を想定できるからである。他者の身体に触れるということは私が他者を認知する(求心性)と同時に他者が私の身体を認知する(遠心性)ことを意味していて、それが同時に直観される。身体の直接性を嫌悪するということは他者性を否認するということである。相手として幼女を選んだのは他者性が希薄だからだ、と宮崎本人が言っている。(彼は「相手性」という言い方をするが。)希薄とは言え、幼女と遊ぶということ自身、他者性への願望によるものであったが、それは祖父のような甘い他者性でなくてはならなかった。幼女がそれを超えて真に他者性を発揮し始める(泣き始めたりする)と宮崎は怖くなって殺すのである。祖父が死んでからは、家族や友人に対しても同様の突然の暴力行為があった。彼は「そのとき相手の顔が恐ろしくなったからだ」、という。顔というのは、身体的接触無しに、見る(求心性)と見られる(遠心性)を瞬時に齎す特別の対象である。

      宮崎は祖父の死体を食べている。また殺した幼女の死体も食べている。それは祖父を蘇らせる儀式であった。身体性を嫌悪しながらも、祖父の甘い世界には他者が必要なのである。他者性(他者の能動性)は他者を操作できないという否定性によってのみ現れるのであるが、それでもその他者性を対象化しようとすれば、その皮膚に隠された内部に立ち入る、つまり解剖するしかない。それを可能にするには宮崎自身が人格を2重にするしかない。彼はそれを語っている。解剖を見ているもうひとりの自分がドキドキしている、と。しかし、死体を食べ、その頭部に蘇った祖父を見るとき、人格が統一される。

      ここまで読んできて、さすがに気分が悪くなった。気分転換に、年末に録画しておいた「オリバー・ストーンのもう一つのアメリカ史」の続きを見た。世界中で悪行を続けていたアメリカの最大の悪行がベトナム戦争である。こちらの方が更に気を滅入らせる。この頃の僕達はここまで酷い殺戮が行われていることは知らなかった。というか、やはり抽象的にしか理解していなかった。宮崎の事件に必然性があったとすれば、その必然性はこの殺戮にも働いていたということだろうか?ジョンソンやニクソンの心理は確かに、宮崎の心理にも近い。彼らの恐怖した他者とは「共産主義者」であったのだから。民族運動を共産主義の陰謀と決め付けることによって、民族運動に本物の共産主義者を呼び込んだのである。それにしても、アメリカの大統領制というのは、危なっかしいものである。

      以下の3章は「暗い森」(朝日新聞社会部、1998年)に基づく。事件は1997年。

第2章:バモイドオキ神の顔
      酒鬼薔薇聖斗と名のった少年Aは女の子を金槌で殴る前に、呼びかけてわざわざ顔と対面している。通常の殺人では顔を見れば殺しにくくなるから後ろから殴るのである。銃殺刑においても殺される者にマスクをかける。他者の顔は魂の現れる場であって、それは「殺すなかれ」という戒律を呼び覚ます。他者無しに自己もまた無いことが本能的に判っているのがヒトだからである。私の他者への志向作用は他者を捉えることが出来ない。志向作用が捉えるということはその対象化であり、対象化されたものは能動性(他者たる所以である他者自身の志向性)を持たないからである。志向作用を絶えず逃れるものとしてのみ他者が認識される。しかし、もう一つ志向作用を逃れるものとして、その志向作用の中心である私自身がある。それは私の志向作用全体の謂わば陰画としてしか認識できない。そういう意味で、他者の存在は私の存在と同等である。だから他者の視線は(顔は)「殺すなかれ」という戒律となる。少年Aがわざわざ顔を見て殺した、という事は、彼にとってこのようなメカニズムが疑われていた、つまり魂が信じられないが故に自己存在の同一性が障害されていた(自らを「透明な存在であるボク」と呼ぶ)ことを意味する。彼は、本当に他者が殺せるものかどうか、を実験したのである。バモイドオキという神の名は、バイオ・モドキの意味であり、生命(魂)を持っているようなもの、という意味である。少年Aは女の子が生きているのかどうかを実験するために、殺してみたのであった。少年Aは殺した別のB君の首を切り取り、それが魂を抜き取る作業だった、と証言している。

      志向作用によって、具体物は意味を帯びる。物は意味を帯びた状態でしか私にとっては存在できない。しかし、意味を付与されたものを現実の現象に戻そうとすれば、意味の持っていた整合的な関係(言葉と言葉の間の関係)は少しづつ剥がれ落ちる。理想的な、理念的な物は存在しないからである。それは現実の側から見れば虚構であり、欠如であるが、この虚構無しには人は秩序を持った世界の中に生きることができない。そこで、この欠如は保たれなくてはならない。比喩的にいうと、虚構は現実から離れた上の方に引っ掛けられて留めることで保たれる。その引っ掛けるためのフックを与えるものが魂を持つ他者であるが、それだけでは不安定であるから、他者そのものではなく、志向された世界から否定的に退却していく他者を積極的に実在へと転換して、一個の超越的な実体としなくてはならない。一度意味の体系を吊るすフックとして超越的な他者(神)が措定されれば、魂そのものも意味として把握され、直接に対面することのない他者達の魂に対する想像力も生まれうる。我々は死を受け入れることが出来ないが故に魂を死を超えて存在するものとして認める。この持続する魂こそが、超越的な実体へと変換された他者である。少年Aは人を2回殺すことができると証言している。これは殺した後に残された魂を殺すことであり、超越的な他者を殺すことである。しかし、それは再び神を呼び寄せることになる。神の否定を表現する神、つまり神の不可能性を表現するような神である。神であったキリストも殺されることによって、神の到達不可能性を証明したのであったが、少年Aについては、それはバモイドオキ神であった。彼がこのような信条に到達したことに多少共切っ掛けを与えた出来事はおそらく2年前の阪神淡路大震災であったと思われる。現実の世界に意味を与えてた虚構が、つまり都市の秩序が一瞬にして壊れてしまった時、彼の中で、超越的な他者の権威も、魂の自明性も、決定的なダメージを被ったのではないだろうか?勿論、その前にそれを受け入れる素地があったのではあるが。

第3章:酒鬼薔薇聖斗の童謡殺人
      金田一少年の事件簿の特徴は、童謡殺人である。つまり、昔から知られた童謡や歴史上の物語に沿って殺人が行われ、あたかもそれが犯人の意図であるかのように描かれるが、それは実はカモフラージュであり、そこを見破るのが名探偵なのである。彼は最後に犯人の本当の動機を語る。ここまで手の込んだ犯罪、それは小説としての魅力でもあるが、を犯すに足る人間的な動機は犯罪の手が込めば込むほどなかなか思いつくのが難しいものである。本当のところ、作者は動機など書きたくない。犯人は単に童謡殺人を楽しんだのだと書きたいのである。この事件簿にはそれに近いものとして「地獄の傀儡師」がある。彼は母親を殺されたという動機も持っていたが、同時に犯罪のトリックの完成に美学的な拘りを示す。傀儡師、つまり人形使いが人形を操り、人形はそれから自由になろうと試みるが成功しない。傀儡師は恨みを抱く依頼人の内的な他者を引き受けて殺人を構想して依頼人に殺人を行わせる。実のところ酒鬼薔薇聖斗(少年A)の殺人は最初から童謡殺人として成立していて、隠された人間的な動機を見出すことができない。ジジェクの言う「隠喩の反転」が起きている。彼は自己に帰すことが出来ない、非特定の他者にしか帰すことができないような快楽を自己としていた。自己は最初から他者に占有されていた。少年Aはそれを「魔物」と表現している。少年Aは少年Bの首を切断し、その首が少年Aの声で語りかけてきたと書いている。内面の他者はこうして対象化されたのだが、それはAなのかBなのか?彼はニーチェから引用して、「深淵をのぞきこむとき、その深淵も自分をのぞきこんでいるものである」と書いている。

第4章:透明な存在の聖なる名前
      名前(固有名)を与えるということは、それを生きているものとして扱うことである。少年AはAという名前については単なる記号と言い、酒鬼薔薇聖斗には自分の名前という拘りを示す。彼は自分が生きているという事自身に懐疑していた。自らの手を切って血が出るかどうかを実験していた。生きた人として認められることは社会に参加する最小限の要件であるから、彼は共同体には属していなかったということである。これは反社会性というよりも、脱社会性である(宮台真司)。少年Aは殺人を聖名(酒鬼薔薇聖斗)をいただくための儀式「アングリ」であったという。それは自らを「透明な存在」として知らしめることである。この語は流行し、若者の間で一定の共感を呼んだ。実際、オーム真理教のホーリーネームやオカルト系雑誌で使われる名前も現実世界から遠い世界での名前が意図的に使われ、それを呼ぶことで直接的な絆を齎すと信じられている。その地点から見れば、現実の社会関係(家族関係)は派生的で偶有的な関係ということになる。少年Aは母親を知らない犬についての小学校3年生の作文の最後に「ぼくもお母さんがいなかったらな。」と書いている。他方で「まかいの大ま王」の中で、「お母さんは、えんま大おうでも手が出せない、まかいの大ま王です」と書いている。酒鬼薔薇聖斗という名前を与えたバモイドオキ神は母親の変形された姿であろう。母親は少年Aを非常に厳しく育てた。彼女はAにとって自分自身を無条件に全的に肯定する存在ではなかった。このような場合、人は、否定的な視線そのものを自らにとって肯定的な意味を有すると捉え直すことによって自身の存在を肯定する。彼は、警察に対して「挑戦状」や「犯行声明」で挑発し、警察が気づかないことに苛立っていた。「早く捕まえて欲しかったのかもしれない」と供述している。犯罪者として否定されることで自分の存在が肯定されるからである。ナイフを持つ中高生も同様である。ナイフを持つ彼に恐怖という否定的感情を抱く他者の視線を求めている。黒磯市で女性教師がナイフを恐れなかったので、少年が「切れて」殺害した、という事件もあった。

      <私>はいかに述語を並べて記述しても記述しつくせない、原理的に規定できない空虚である。つまり透明な存在である。名前は正にそのような<私>を指示している。<私>がどんなに記述されどんなに変化してもその名前によって<私>が指示される。同時に、名前は空虚で透明で無である<私>に何者かとしての存在可能性を与える。<私>を規定する社会関係は多様であり、その意味で多重人格となっても不思議ではないのだが、それらを束ねて空虚な<私>が積極的に存在していると感じさせるものこそ名前である。しかし、少年Aの酒鬼薔薇聖斗という名前は通常の規範の中で否定的な意味を持つから、その名づけられた自己は日常の文脈を貫く同一性を保持することができない。自己は日常の社会的文脈の中では透明な存在にとどまるしかない。彼の多重人格性の原因はそこにある。

第5章:世界の中心で神を呼ぶ−秋葉原事件をめぐって  事件は2008年。
      ゲーム「CROSS†CHANNEL」(2003年)。引きこもりの若者の個室の隠喩としての群青学園が現実世界から隔離されている。主人公太一は殺人衝動を持つが、それを抑圧して仲間をひとりづつ現実世界に帰す。

      非典型労働者(派遣労働者)Kの事件は宮崎の事件やオーム真理教の事件や酒鬼薔薇聖斗の事件のような宗教的深みがない。自分の名前を入れた作業着(つなぎ)が見当たらないことに「切れた」のである。1990年台の不況を契機に非典型労働者は増加したが、2000年代初頭以降の好況期にも増え続けた。これはグローバル化に伴う生産拠点の海外移住、国内のサービス産業化による。多品種少量生産も短期労働者を要求した。非典型労働者は左翼勢力には寄与していない。むしろ彼らは右翼的である。これは彼らの不満が経済的地位よりもアイデンティティーや自尊心の問題だからである。

      真木悠介の疎外論。まずXへの疎外がある。例えば貨幣への疎外とは貨幣が普遍的な欲望の対象として人々を捉えているということである。その上でXからの疎外がある。つまり、貨幣からの疎外(貧困)である。(そもそも貨幣を殆ど必要としない自給自足の集団は見かけ上貧困であっても貨幣から疎外されているとは言えない。)このような2重の疎外においては疎外はそれほど深刻ではない。例えばある使命に捉われた組織において成員は使命への疎外に捉われているから、その使命に直接は携わらずに周辺的な仕事をして(使命から疎外されて)いても、彼は自己満足を得られるであろう。非典型労働者は賃金という観点からはそのような状況であるが、問題は仕事の意味づけである。彼らの仕事は断片化されていて、それらの仕事を統合する大きな使命が感じられていないのであるから、その意味ではXへの疎外からも疎外されているのである。そのような状況に対して応えているのがセカイ系的な漫画やアニメである。つまり、ごく日常的な生活が中間層を飛び越して一気に世界平和や地球の運命に直結しているという幻想である。

      本来日記は誰にも見せないものであったが、それは特定の誰でもない抽象的で超越的な他者への語りかけである。プロテスタントでは、カトリックのような司祭への懺悔の代わりに日記が普及した。インターネットのブログにもその読者としての「神」が居る。それは具体的であり匿名的である点で従来の日記とは異なる。Kも太一もそのような「神」に向かって呼びかけた。Kはなりすましに怒った。それは神から名前を呼ばれるその固有名を失うことである。その怒りは「神」の視線が集まる場所「秋葉原」での抗議、すなわち犯罪である。つまりこれは一種のテロであった。

      やっと最後まで読み終えたが、なかなか感想が思い浮かばない。論法としては大澤理論の検証のために現代のおぞましい犯罪例を挙げてその共通性を主張しているのだから、久米氏の方法論では同意法に相当する。社会的存在としての人間はその本能としての宗教性をうまく満たすような仕組みを整えておかないと暴走してしまうという風にして、これらの事件が一応説明できたという次第である。暴走させないためには整合的で安全な体系としての世界像を持たせるということになる。けれども、それはまた社会の停滞の要因でもある。さしあたり、こういった個人レベルの犯罪には根本的な対策は無いように思われるが、もっと大きな国家間の戦争に対しては、そのような共有された世界像が必要だろうと思う。歴史に学ぶこと、ここに見るような心理解析に学ぶこと、つまりは、国際政治学ということになるのだろうか?

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