2002.02.05

「身体性とコンピュータ」に採り上げられたいろいろな人たちの意見から興味を惹いた言葉。

伊藤昭
      「心を読む」ということは、同じ程度の計算能力を持った行動主体間で、相手の過去の行動履歴から、相手が可能な選択肢のうち最も合理的な行動をとるのではなく、ある種の偏った選択をする可能性があると考え、その事を期待して自分の行動を決めることである。つまり、心を読むということは、相手が心を持っているという可能性に賭けて自分の行動を選択するということであり、自分の行動の自由度を部分的に放棄することである。それによって相手にもこちらのモデル化を許し、それが相手にも行動の自由を放棄させることになる。まとめて言えばそれは共同行為である。共同行為が成立するためには状況として相互利益が予想されなくてはならないが、そのための条件として対等であることが必要である。一方的に相手の行動が予測出来るだけの情報があったのでは成立しない。一方的な読みを禁止するような仕組みが必要である。何か自分の自由度を放棄することによってはじめて相手の行動予測が出来るような「秘密の鍵」が必要である。それはお互いにその為に自由度を束縛され、行動が予測されてしまうような共有物である。それが身体なのではないか?例えば感情はその有力候補である。感情は自由に制御出来ないが、感情を共有することで相手の心が読めてしまう。心を読むという事自身自由に制御出来る事ではない。その状況に巻き込まれてしまえば否応無しに相手の心が見えてしまう。客観的な観察からは心は読めない。自分を相手に晒して、自分の心を読ませることで相手の心が読める。そのためには保証が必要であり、それが「秘密の鍵」である。これが「秘密」という意味は、コミュニケーションそのものや「心」とは直接関わらないところに在るからである。自閉症児と我々は「心を読みあう」事が出来ないが、それはコミュニケーションの基本能力の障害なのではなく、情報処理や記憶のメカニズムの基本的相違が大きすぎて、つまり身体の仕組みが異なっていて、それを共有出来ないからかもしれない。自閉症児がしばしば超能力を示すのはその現れなのではないか?

塩瀬隆之
      社会の中で自分を位置づけていくようなプロセスをモデル化している。二つの参照モデルを内部に持つモデルである。一つは自己のモデルであり、行動の基準を決める。もう一つは社会のモデルであり、環境に対して行動基準にしたがって行動するが、その評価結果を蓄積していく。ある程度の長時間平均を見て自己のモデルはその基準を変える。すなわち初期の理想とした基準が社会的に満たされなくなると、基準そのものを変えていく。基準は単純化して例えば餌を得ることと他人と接触することを二つの評価基準としておいてそれらの割合を変える。社会の状況が厳しい場合はこの二つの評価基準の作る平面内で個体は住み分けてしまう。すなわち社会階層が出来上がる。社会の状況が良くなると、住み分けるのではなくて、それぞれの個体が経時的にいろいろな基準を取り合って落着かない状況になる。結局は非線型方程式のある典型で記述される枠内に収まりそうな感じがする。この仮説というか、社会性の自己生成プロセスが正しいとか間違っているとかを判断するための基準はあるのだろうか?仮説はそれの正否を判断するだけの結論を導き出すものでないとあまり意味が無い。ある種の非線型方程式に纏まるとすれば、同じ方程式に纏まる他の仮説やプロセスもある訳で、要するにこれこれのプロセスとの比較という形で仮説を立ててそれらが区別できるような、他の状況での結果を導く事が出来ないと仮説の意味が無いのではないかと思う。

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