2018.12.25

最近お腹の調子がイマイチで、気分に多大な影響を与えている。そこで、心について考えをまとめてみた。

      人の心は殆どが自らは意識されないけれども、少しは意識される。だから、少しだけ分類して機能解析をすることができる。基本にあるのは、「気分」と「情動」である。気分は直接的には制御できない体内の状態である。(病気になるとその意味がよく判る。)情動は生理的本能や物語記憶と状況把握が結びついて起こる脳の深部の反応である。これも意志では制御できない。大抵は何らかの身体症状が生じる。バッファローが過去に捕食者に襲われた場所を記憶していて、情動反応を示す、というのは有名な話である。他方、行動的に見れば、「手続き記憶」が必須となる。人間の殆どの行動はこの手続き記憶による半自動的な反応の連鎖と見做される。自転車に乗るとか訓練されたスポーツだけではない。計算を始めとして、一見複雑に見える哲学的思考にいたるまで、その殆どの部分は自動的な反応であり、繰り返される訓練によって身につけられたものである。その自動的な反応からの逸脱は、大抵の場合「気分」や「情動」の気紛れによって起動され、たまたまうまく作用すれば習慣化されて、新たな手続き記憶となる。

      さて、「心」をひとりの人間を基点として考えると以上のようにしか見えないのであるが、「心」は他者の「心」と相互作用をしており、その事が自動的な反応からの、より根源的な高次の「逸脱」の契機になる。つまり、人間には「模倣」本能がある。これなしには文明というものもあり得ない。他者を真似るという行動は上記の「個人の心」というモデルでは説明できない。そして、更に、とりわけ人間においてであるが、他者の代替物として「言語」(これも手続き記憶である)を獲得してしまうと、自ら「思考」して、つまり、自分の心というモデルを自分の外部に表現して、それを真似ることで、自らを、気分や情動に支配されず、自らの言葉に従って習慣づける(新たな手続き記憶を作る)ということさえ可能となる。これが人間の「自由」である。自由は心に葛藤をもたらし、その為に前頭葉が発達した。しかし、よくよく考えてみると、その「自らの言葉」というのは元々は他者の代替物、あるいはせいぜいが言語の文法規則(これも手続き記憶)に従ったその論理展開なのである。こうしてみると、人間の自由というのは、総じて社会集団の「運命」の中に閉じ込められているのであるが、とはいえ、その範囲は一生の間にはとても辿りきれない程広大なものでもあり、人間の世代交替によってますます広大になっていく性質のものである。それを満喫するためには、まずもって「歴史」を学ばねばならない。

      ついでに言えば、「心」をひとりの人間を基点として考える、という事自身が他者との類推によって生じるモデルであり、そもそもそれが「自己意識」、つまりこうして考えている事を可能にする。
 
<目次へ>  <一つ前へ>    <次へ>