2000.08.13

      佐藤俊樹の「ノイマンの夢・近代の欲望」を読んだ。この間2階を片付けていて見つけた本である。情報化社会という概念の無内容さを批判したものである。メディア技術が社会を変えるというのは間違いであり、社会はその構成員の意思で変わるのである。メディア技術は利用されるに過ぎない。

      「書く」ということ一つを取っても、それは近代以前では真似ることや形式にしたがって記録することであった。それが個人の反省や意思の表現や思考の手段として成立したのは、近代が自己を制御する自己「メタ自己」という仮想的な存在を必要としたからである。個人が基本的人権を持ち自らの行動に責任を持つという考え方が近代社会を支えているからである。このメタ自己というのは仕組みであって、法律的には責任を取るべき存在として定義されている。そのときの社会状況で定義も範囲も変わるものである。例えばソフトウェア−を使用して判断を行い損害を受けた場合、使った人の責任なのかそれともソフトウェア−を製造した人の責任なのか、といった形で「メタ自己」の範囲は浮動する。

      話を少し限定して会社のような組織の中での情報技術の使われ方を取って見ても、社会によって全く異なることが分る。アメリカと日本を比較すれば、コミュニケーションや意思決定のやり方、会議のやり方が異なる。アメリカでは個人がそれぞれの責任の範囲内で専門家として自由に意見を述べて、最適なものを一人の決定者が決めてしまう。同意するしないは問題でない。決定者が責任を持つのである。日本では全員が合意するまで議論して皆が少しづつ自分の意見を修正して行く。最初から合わない意見を持つ人は排除される。それぞれ長所短所はある。実際の仕事に移ったとき、日本のやり方の方がモチベーションが高いので個人の工夫が生きる。しかし、全員がほぼ同じ方向しか向いていないので、不測の事態が生じたときに切り替えが難しい。個人の役割は固定されていないので、仕事のマニュアル化は進まない。アメリカのやり方は、役割がはっきりしているので仕事はマニュアル化され、何時でも人が変えられる。また大きな変化に対して、決定者の判断だけで全てを変えてしまうことが出来るので切り替えが容易である。このような違いがあるところにグループウェアーが持ち込まれたとき、アメリカの方が有効に活用するのは当然である。日本のやり方だとコミュニケーションの密度が濃すぎるので、単純なネットワーク技術では満足が行かないのである。この違いはメディア技術だけの問題でなく、労働市場や雇用の習慣とか、社会全体の問題でもある。

      歴史的に情報化社会という考えはオイルショック前後で大きく変わっている。それ以前は大型コンピュータに内装された人工知能によって、社会全体をシステムとして制御するという思想であった。その後はむしろ小型の端末のネットワークによって繋がれた個人が自由に異質な情報に接して創造的になるというものである。バブルがはじけるとこれがホワイトカラーの生産性向上という方向に変わる。これらはそれぞれ順に、高度成長期の大型プロジェクト、団塊世代のポスト確保(異業種参入)、リストラの別名である。絶えず欲望を刺激して需要を作り出し、新製品を出して利潤を稼ぎ、生活を豊かにして行くというのが近代産業社会の宿命であり、「情報化社会」という概念そのものがいわば新製品として絶えず衣を変えながら本や雑誌や講演会の題材として売れて続けていて、直ぐに捨てられ忘れられていく。

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