ディジュリデュ
      夕方、市貝町の牧場の地区に棲んでいるシロベーさんの家でアボリジニの楽器Didgeridooのコンサートがあって、聴きに行った。シロベーさんは陶芸家、奥さんは染色家で、家は自分で建てた丸太小屋である。演奏者のShozoさんは遅くなり、夜がふける。雨も降り出した。それでも皆がやがやと残っている。作品を買っている人もいる。まあこれが狙いなのであろう。雨が丁度やんだ頃Shozoさんが現れて、みんな庭に座り込んだ。ディジュリデュというのはユーカリがシロアリに食われた空洞を利用した楽器で、背の高さくらいの円筒である。唇の振動を共鳴させて音を出すが、基本的に循環呼吸を使っている様である。音が途絶える事がない。空洞の共鳴だけでなく、楽器の固体音や、身体の中の共鳴音など、いろいろな音が出るので、それを組合せる。低音というより空気の振動に近い響きが直接身体をゆするかと思えば、ピューという高い笛の音もある。西洋音楽の様な音階は勿論無いが、それでもリズムと音色で音楽になっている。

      ふとランガージュという言葉を思い出した。別に素材は音程のはっきりした音で無くたって良いわけで、世界を区分して行く行為そのものがランガージュであるとすれば、これもまた立派なランガージュである。知性の働きと言っても良い。規範的な言葉と詩の言葉は何処が違うと言って、結局聴く人の参加があって意味が見えてくるという所ではないだろうか?聴く人が意味を創って行くことの出来る多様性や重層性を持っている表現がつまり詩である。暗喩というのも言葉の字義的な意味以外の物を示すということで、何を示すかは規範的に決められないので、聴く人が努力して発見する。この発見こそが美的経験なのではないか?そしてこう言うコミュニケーションのあり方によって規範的な社会のあり方の深層にあるものが伝えられる。それを促すために良く使われる手段としてポリフォニーやアナグラムの様に、規範的な意味を持った素材を並列して呈示するというやり方がある。歌詞とメロディー等もそう言う効果を生む。それぞれの素材は意味がはっきりしているのだが、組合せると別の次元を指し示し、暗喩として働きやすくなる。

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