2014.02.17

      夕方、散歩がてらアルパークのフタバ図書に行って昭和史関係の本をいろいろと見てきた。結局思っていたいくつかの本はとりあえず後にして、最近出たばかりの加藤陽子「戦争の日本近現代史」(講談社現代新書)を読んでみる事にした。戦争も已む無しと決意させる直接の原因は何であったか?という問題意識で、10年おきにあった日本の近現代の戦争を分析している。「あのような無謀な戦争に何故突き進んだのか?」という問いは、もしも戦争に勝っていれば存在しない問いであるから、正しい設問ではない、というところが引っかかって読むことにした。歴史は一回限りのものであるから、将来の予測にはならないだろうが、それでも、「二度目は喜劇として」再現するかもしれないのである。

第2講:軍備拡張論はいかにして受け入れられたか
      尊皇攘夷を唱えて幕府を倒しながらも、維新後は手の平を返してしまった、という負い目があったので、政府は万国公法を持ち出して外交政策を現実的なものとして説明せざるを得なかった。国際関係においても従うべき道があると、国民に諭したのであり、結果的に国民に近代的な政治意識を植え付けた。(吉野作造の分析)

      西郷の征韓論は不平士族のガス抜きが目的だったのだろうか?西郷の見るところ、幕府が倒れたのは攘夷を避けて安全策をとって士気を失ったからであり、政権が安定してしまった日本は朝鮮半島という弱い敵国を相手に戦争することで国内を引き締めることができる、と考えていたのではないか?朝鮮は幕府に対して朝貢していて天皇は無視していたから、維新後には当然天皇に朝貢すべきである、ということで、名分を作ることが可能であった。一方政府は国力の損耗を避けるために、国民の意識を朝鮮半島からできるだけ逸らそうとして、遠いヨーロッパでの普仏戦争の経験を引きながら、ロシア侵攻に備えるために軍備の重要性を説いていた。

      日本は版籍奉還を終えて、1970年に対等な日清修好条規を締結し、1975年には不平等な日朝修好条規を締結した。朝鮮側の失態である「江華島事件」を利用して砲艦外交によって認めさせたものである。

第3講:日本にとって朝鮮半島はなぜ重要だったか
      イギリス・フランスによるアフリカ分割などの植民地支配に危機感を抱かざるを得なかった当時の言論人の自由民権運動は最初から、国威発揚、軍備増強の為の民権の主張(国会開設)であった。イギリスの興隆は正に国民が自らの権利を伸長させようとして国家の自主に懸命になっているからである、とは施政者側の大久保も言っている。

      清は伝統的な朝貢関係を朝鮮との間に保持していたし、1982年朝米通商条約の仲介をしたときも、中朝の宗属関係をその中に残そうとしていた。また清とロシアは国境地域で紛争を起こしていた。また朝鮮で旧軍隊の反乱(1982)が起きると、日清が同時に出兵し、鎮圧したのが清であったためにその後干渉を続けた。1985年にはアフガニスタン領有を巡る英露の紛争の中で、ロシアが朝鮮に進出する危険に対処するために、イギリスが朝鮮海峡の巨文島を占拠したが、清国はこれを承認した。同年相互の独立不可侵を規定した日清条約が締結されたが、ロシアがシベリア鉄道を開通させ、カナダが太平洋鉄道を開通させたので、いずれ、ロシアとイギリスが東アジアで覇権を争うだろうと考えられた(1988)。そういった状況の中で、日本沿岸の守備体制を固めることが急務であると、山県有朋が訴えて、1882年から急激に軍事費が増大することになった。「朝鮮を清から独立させ、欧米諸国から守ることが日本の安全保障となる。必要とあらば日本の属国とする。」というのが山県有朋の基本方針であった。

第4講:利益線論はいかにして誕生したか
      山県有朋が朝鮮を日本の「利益線」と位置づけた1890年の演説は、伊藤博文に憲法の指導をしたローレンツ・フォン・シュタインの助言に基づいていた。前年に彼はシュタインに会っていて、「ロシアが直接日本に攻め入ることも、イギリスがカナダ経由で東アジアに兵を送ることも不可能であるが、ロシアが朝鮮を占領することは可能である、また朝鮮の独立さえあれば日本はロシアにもイギリスにも干渉する必要はないが、独立が犯される場合は反撃すべきである。」と助言されている。「中立」の国際的な意味は、1.交戦国に領海の利用を認めること、2.交戦国に援助(軍事、武器、戦時公債)をしないこと、3.交戦国に中立国の施設を利用させてはならない、であったが、3.の為には中立国が軍事力を維持する必要があり、当時朝鮮の軍事力には頼れなかった。当然ながら、朝鮮側に日朝友好条規が与えていた不利益を論ずることは日本では全くなかった。(現在でも、アメリカにとって、韓国と日本は「利益線」である。)

第5講:なぜ清は「改革を拒絶する国」とされたのか
      第1回帝国議会(1980年)で山県に説明された一般予算の26.3%は軍事であった。議会は予算の削減と租税の削減を主張するが、山県の説得を認めて妥協してしまう。第2回以降も形式的には軍事費の削減を求めるが、その理由は瑣末なもの(薩長の賛美に対する反発とか)であった。地方新聞では、朝鮮の軍事的な占拠に反対はしたものの、その替わりに日本人を朝鮮に殖民させて、朝鮮の独立性を維持しようという論調があったくらいである。「利益線」という考えには同調している。しかし、一般国民にはそのような理屈は理解できていなかった。

      1894年に甲午農民戦争が起きて、朝鮮国王が清国に鎮圧を要請し、日本も軍隊を派遣した。農民反乱は直に収まったが、日本は清国に共同で朝鮮の内政改革をやろうと提案して、それが内政干渉という正当な理由で清国に拒絶される。(清国は日清友好条項に基づいて両軍が直ちに撤退することを提案した。)しかし、これは国民に対しては有効な戦争への説得材料となった。新聞は清国に対して「朝鮮を属邦視して暴若無人の干渉性略を行い、内政改革提案を拒絶した」(千葉民法)と報じている。干渉したのは日本であるにも関わらず。。。これは更に発展して、福沢諭吉は時事新報に「文明開化の進歩を謀るものとその進歩を妨げんとするもの」と日清の関係を要約している。清国兵に罪はないが、文明の進歩のためには殺戮するのもやむをえない、と書いている。(今日のアメリカが民主主義の拡大を主張して戦争するのと同じ論理である。)もはや「利益線」という政府・軍部の本当の意図は陰に隠されてしまった。民間から続々と「義勇兵」志願が出てくるが、旧士族や侠客まで含まれていて、征韓論の復活を恐れた政府はこれを抑えにかかった。日清戦争は翌年には日本の勝利で終わったが、3国干渉を受けた。そんなことよりも政府としては「独立」を認められた朝鮮がどうなるか?が気になっていた。一方国民の側は初めての対外戦争に勝利することで、戦争が割に合う、場合によっては儲かることに目覚めてしまう。

第6講:なぜロシアは「文明の敵」とされたのか
      日清戦争に勝利した日本は朝鮮に顧問を送り、朝鮮の近代化と経済の従属化を目指して王制を崩そうとしたが、3国干渉を見て日本の威信が低下して反発され、クーデターで強行しようとして失敗。朝鮮王室はロシアに援助を求めるようになった。ロシアは朝鮮と清国に対日賠償金の借款供与を申し出て、1898年旅順・大連の租借権を得る。対抗して、イギリスやドイツも清国に対日賠償金供与をして各地に租借権を得た。ロシアを牽制するために、アメリカは門戸開放宣言を出して列強は一応了解した。しかし、1900年に義和団事件に乗じて満州に進軍したロシアはそのまま居座ってしまい、通商を独占した。日本の経済成長は、1885-90年には企業や建設投資に、1890-1900年は政府の設備投資に支えられていたが、1900年以降は満州や韓国への輸出に支えられていたから、ロシアの行為を門戸開放宣言を根拠として自由貿易の敵、文明の敵と名指しした(吉野作造「征露の目的」1904年)のは当然の成り行きであったし、国民が戦争を自然に受け入れていった理由ともなった。巧妙な反戦論を展開したのは幸徳秋水であった。彼の論点は、普仏戦争の教訓から軍備の有効性を説いて陸軍に信奉されていたプロイセンのモルトケの論点を反駁(敗戦側のフランスの方が経済的に栄えている)し、海軍に信奉されていた制海権の重要性を説くアメリカのマハンに反駁(アメリカ独立戦争を応援したフランス軍はフランス革命で洗脳されたからであり、その時パリに侵入したドイツ軍も革命思想に染まった。)した点にある。徴兵に応じる個々の農民は暖かい眼で見守った。日露戦争に対しても、ロシアの革命勢力との共闘を訴えている。しかし、レーニンは冷静であって、議会制と徴兵制を持ち、進んだ国日本が専制体制で国民軍隊を持たないロシアに勝つのは当然であり「革命的役割」を持つ、と捉えていた。吉野作造はロシアを破ることはロシアを自由民権で平和な国にするだろう、と述べている。自由民権の意味は、国家を強くするにはある程度は国民に政治参加させて一体感を持たせねばならない、ということである。

      日露戦争に関しては、政府は民意を誘導する必要がなかったが、開戦の時期を慎重に選択した。日本の軍備の拡充とロシアのシベリア鉄道開設と日英同盟の整備を睨みながら冷静に判断したのである。

第7講:第一次世界大戦が日本に与えた真の衝撃とは何か
      日露戦争ではロシアのシベリア鉄道が開通し戦力バランスが崩れる前に何とか講和に持ち込むことができたが、国民の戦争参加意識が高揚していたために、賠償金も得られない講和条件に不満が残った。政府は今後のロシアの復讐に備えるだけの国力が残っていないことへの不安があった。日本には、1.膨大な戦費負担による財政悪化と予算獲得を巡る争い、2.旅順・大連の租借と満州鉄道の使用権をどうやって固定化するか、3.辛亥革命と第二革命後の北の袁世凱と南の孫文のいずれを支持すべきか、という3つの問題が残された。これらの問題は第一次大戦を利用して解決された。

      1914年の第一次世界大戦に日本は参戦しドイツを東アジアから追い出した。この戦争の理由付けには、日英同盟があったが、イギリスは自国艦船の擁護以上の事は要求していない。青島攻略後に山東省に進軍することの理由付けとして、ドイツに対して中国に租借地を返還するように要請して拒絶させている。日本政府は英仏露伊から極秘文書で講和後の中国における日本の地位保全の約束を取り付けている。中国に対しては、山東省の租借と旅順・大連、南満州鉄道、安泰鉄道の99年間租借要求を飲ませた(1915年の21ヶ条要求)。パリ講和において、日本は各国における人種差別問題への対処を要求した。これは日本人移民排斥が実際に行われていたからであるが、実質的な意味はあまり無かった。本当の理由は日本人に対する移民差別が中国からの日本への軽蔑を引き起こすという心配からであった。ともあれ、アメリカ国内での強硬な反対論(移民の扱いは内政問題である)に押されて諦めたが、国内ではこれがアメリカを人種差別国家として非難する口実となって、対米戦争に結びつく一因となった。講和条約の場でもう一つ明らかになったことは、それまでの帝国主義的主張が時代遅れになっていて、対中国の21ヶ条要求、特に山東省の租借が国際的に認められなかったことである。

第8章:まぜ満州事変は起こされたのか
      第一次大戦は、戦争の是非を戦費調達による軍備の問題から総力戦、つまり資源や国力の問題へとシフトさせた。ドイツが負けたのは連合国側による経済封鎖によるところが大だったからである。翻って日本は封鎖されれば戦争継続ができないのは自明であったから、その点で陸軍にとって中国の資源を確保することが重要となった。海軍は自らの存在意義を東南アジアからの資源輸送路確保に見出すようになった。(それまでは、戦費が安上がりだからロシアよりは米英と戦うという気楽なことを述べていたのであるが。)当時、中国は政治的に不安定であり、債務がかさんでいて、国際共同管理下に置かれる可能性が出てきた。そうなると米英が有利になる。一方で第一次大戦後には過度な軍備の負担を嫌って軍縮が進んでいたから、日米共に長期総力戦よりは短期決戦を計画していた。

      ロンドン軍縮会議において、日本は自衛のために大型巡洋艦がアメリカの7割必要だと主張したが、6割で押し切られた。(軍縮会議の趣旨は、ウィルソンによって提唱された平和主義:国際紛争を武力で解決しない。武力は自衛と制裁に限る、であったから、多少の妥協をしても成立させようという機運もあったし、昭和天皇も賛意を示した。)ただ、国民の間にはアメリカと戦争すれば防ぎきれないという海軍の見込みによって、対外危機意識が生まれた。そもそも明治維新は対外危機から生まれたのであり、このような時にはその記憶が呼び覚まされて「昭和維新」が叫ばれることになる。陸軍の側では石原莞爾が、中国を支配することで国力的にもアメリカに対抗できる、つまり戦争は戦争によって補給する、という構想を立てていた。当時はまだ成立したばかりのソビエトの脅威は感じられなかったのである。その後の歴史はその方向に進むことになり、実際日中戦争の過程で日本は重化学工業化し、陸軍は見違えるように成長したのである。ただ、ソ連の脅威については誤算であった。

第9講:なぜ日中・太平洋戦争へと拡大したのか
      満州事変は1931年、ソ連の軍事力がまだ弱小であり、中国国内が内戦状態にあるときを狙って、関東軍参謀石原莞爾によって起こされた。国際条約違反という攻撃を避けるための口実としては、満州諸州が中国本体から自主独立したのだ、としなくてはならず、そのために邪魔になる張学良の軍隊を南方に遠ざけなくてはならない。陸軍中央の命令を無視して関東軍が満州全土に展開したのはその条件を整えるためであった。国際条約とは、国際連盟規約(1920年)、9ヶ国条約(中国の主権、独立、領土行政的保全)、不戦条約(国家政策の手段として戦争に訴えない)である。

      国民が関東軍のこじつけに納得したのは何故か?まずはその主張であるが、中国を条約を守らない国として非難した。これは過去の条約で認められた南満州鉄道の営業権を周辺鉄道敷設で侵害していること、周辺土地の借用を妨害していること(これは居住する朝鮮人の裁判権の問題と絡んでいた)、中国各地での排日ボイコットを組織的に行われていること、であった。これらの主張は条約の解釈上のグレーゾーンであって、逆にそれを利用して日本側は中国を非難していた。国民は関東軍の「巧みな」理屈(日本は条約を遵守させようとしているだけだ)に喝采した。リットン調査団の報告では、1.満州事変での関東軍の行動は自衛ではなかったが、自衛と考えて行動した可能性はある、2.満州国独立は9ヶ国条約違反である、3.日本の経済的権益侵害については中国側に責任がある、というものであった。これらの判断により、満州国の存続は認めず、中国、日本、現地の代表による直接交渉の場を提案した、という折衷的なものであった。日本の世論はこれを糾弾した。既に1920年代からの中国の動きから、国民の間に、中国は条約を遵守しない国であるという認識が広がっていて、それが、関東軍の謀略を支持した底流である、と加藤氏はまとめている。(この辺はそうなのかなあ、という感じ。)

      1933年に日本は国際連盟を脱退するが、その後は2国間外交によって満州国を維持した。アメリカは、大恐慌後の世界経済のブロック化を防ぐために、主導権をとり、各国との通商条約によって関税を下げたり、互恵国待遇を与えたりして、イギリス帝国内への浸透を図った。また孤立した国の戦争を思いとどまらせるために中立法を制定した。これは戦争に必要な武器や資金を交戦国に与えないようにするもので、明らかに日本が標的であったが、当時の日本は経済復興の機会を与えられたので、むしろ歓迎していた。

      ソ連は第一次五ヵ年計画を成功させ、1935年には軍事力が強化されて、日本全土をカバーする長距離爆撃機を極東配置する決定が為されていた。石原莞爾はアメリカを仮想敵国としていたことを悔いて、ソ連に対抗するために、それまでの陸軍の経済改革路線(満州経営)から、即効策として財閥や経済界との連携に変更し、満州を彼らに開放することで5年後の重化学工業化を目指した。(石原莞爾自身が退けられたと思っていたが。)しかし、満州国以外の中国は関税自主権とボイコット戦術によって、日本との貿易を後退させて、満州国自身との貿易の増大を打ち消してしまった。そこで、関東軍は蒋介石の全国統一に妨害工作を始めた。1937年の盧溝橋事件はその一環として起きた。アメリカは中立法によって戦争を止めようとしたが、これはアメリカに頼っていた中国にも打撃を与えることになる。日本もまた中立法の適用を避けようとして、結局宣戦布告が行われないままに戦闘が拡大した。ただし、宣戦布告をしないと、中立国の艦船の臨検もできないし、占領地の軍政も敷けないし、講和条約による戦争終結も賠償交渉もできないから、そもそも戦争を続ける目的が明確でなくなり、国民に説得できなくなる。(戦争が次々と拡大していった本当の理由、関東軍の意図、は何だったのだろうか?)

      日独伊の陣営が出来つつあり、イギリスが東アジアから太平洋で活動が出来なくなって、アメリカは中国とソ連を自己の陣営から離さないことに注力する。日本のインドシナ半島進駐と対ソ連向けの軍事演習に対して在米日本資産凍結と石油禁輸に踏み切ったのはソ連を援護するためであった。(フィリピンの米軍基地が狙われるからだと、思っていたが。)

      さて、日中戦争の理由付けには奇妙な論理が登場する(三谷太一郎)。中国は西洋的秩序に基づく民族主義に拘って英米の帝国主義を引き入れている。民族ず主義ではアジアの貧困は救えない。日本、中国、満州が運命共同体となって「東亜共同体」を形成しなくてはならず、中国人民が自覚していないのだから強制的に自覚させるべきであり、それが中国人民の為である、というのであった。三木清もその理由付けに寄与したらしい。(今日のアメリカが「自由と民主主義」を他国に強制する理屈と同型である。)

      ということで終わるのだが、どうも釈然としない。これが「戦争已む無しと国民が判断する直接の原因」だったのだろうか?こういう政府のこじつけ論理を説明されて、それで国民が納得したというのであれば、要するに国民が洗脳されていた、というに等しい。それはそうかもしれないのだが、そこのところがどうも良く判らないのである。石原莞爾のような陸軍の一部が勝手に戦争を始めて、それを正当化するために近衛文麿のような政府が勝手な理屈を作り、マスコミがそれに乗って国民を洗脳した、ということだけなのだろうか?著者のようにその勝手な理屈をいくら解析したところで、何の役に立つのだろうか?本質は理屈の内容ではないと思う。政府が一貫して世論を気にしながら戦争政策を進めていて、その時その時で理屈を考案していたということはよく判るが、満州事変のあたりからは、国民は本当にそんな理屈で丸め込まれていたのだろうか?という疑問が沸いてくるのである。ただ、一方で現在でも日中戦争が侵略戦争ではなかった、という理由付けに「東亜共同体」思想が使われているのも事実である。僕が子供の頃にはまだ大人たちは戦争経験者だった。彼らと話していていつも不思議に思っていたのは、(学校で教わることと余りにもかけ離れていたので)朝鮮人や中国人への蔑視の意識だったと思う。それは、身近に生活していたり戦争中に出会ったりした朝鮮人や中国人を見ての率直な印象に由来していた。それは勿論民族的なものではなくて、彼らの置かれた境遇に拠るものではあったのだが、そこまで想像することはなかなか難しかったのかもしれない。経済格差というのは、そういう意味で戦争や内乱への底流(敵対心理)を、下層だけではなく上層にも、作り出すものだと思う。それと、戦前の人達と話していて気づくのは、当時はそういう事だった、ということであり、これは心底納得していた訳でもなかったのではないか、と思う。そういう理屈しか流通していなかった、ということであり、そうなると頭で考える場合にそれに縋るしかない。この「情報の流通」こそが問題だったのではないかと思う。もっともその為に情報統制があったのだが。

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