2014.02.06

      ずいぶん前に買ってあって、読んだと思っていたのだが、積読のままだったので、加藤隆の「一神教の誕生」(講談社現代新書)を読んだ。

第2章:一神教の誕生
      ユダヤ教の歴史については、出エジプトとカナンへの定着を契機にヤーヴェ崇拝が始まったということで、一般的な説を採用している。加藤氏の考え方はかなり実利的であって、そのような成功の結果としてヤーヴェが人々から信頼されたから、という解釈である。そこでダビデ王、ソロモン王の統治の元で繁栄が続く。その頃のユダヤ教はまだ一神教とは言えない。民族に恵みを与える神であった。御利益宗教といえる。実際、バアルやアスタルテという他の神々も崇められていた。ソロモン王の没後北のイスラエルと南のユダに分裂した後はこの傾向が強くなった。しかし、BC8C後半にはアッシリアによって北王国が滅亡し、BC6C前半には南王国がバビロニアによって滅亡する。この間150年程度の間に南王国ユダにおいてユダヤ教に大きな変化が起きた。南王国はダビデ王朝であり、ヤーヴェの子とされていたから、北王国が滅亡したからといってヤーヴェ信仰を捨てることは出来なかった。従ってヤーヴェが北王国を救わなかった理屈が必要となった。これが「神との契約」という概念である。北王国の民はヤーヴェに対する義務を果たしていなかったから神の加護が得られなかったという理屈である。この結果、神は絶対的な優位となって義とされたのに対して、民は罪の状態にあることになった。民は神の前で義を実現しなくてはならない。神と民の間に断絶があり、民は以前のように神に働きかけても(お願いしても)意味がないということになる。また他の神を崇拝することが禁止される。こうして「一神教」が誕生する。

      加藤氏がここで指摘しているのは、他の可能性である。ヤーヴェを国家の繁栄というような神でなくなって単なる日常的な御利益を与える神に格下げしてしまう、という方向、つまりこれはユダヤ民族としてのまとまりの喪失でもあるが、更にはその御利益というのも、もう少し精神的なものに高められることによって、御利益宗教の域を脱してしまう(仏教のように)の方向性である。しかし、ヤーヴェは国家宗教の神であったし、その南王国が150年存続したということが、そのような可能性を排除した。

第3章:神殿と律法の意義
      BC6C前半に南王国はバビロニアに滅ぼされて、残ったユダヤ人達はバビロンに半世紀程の間捕囚されてしまう。ヤーヴェはまたしても守ってくれなかったし、もはや神に生贄を捧げる神殿も無くなった。しかし、一旦唯一の神として信仰した神を捨てるわけにも行かなかった。そこで、過去の思い出、「出エジプト」で救ってくれた神の思い出を語り、未来に希望を託す。このような宗教の在り方は当時の世界では類例が無かった。

      バビロニアを滅ぼしたペルシャは諸民族の自治を認めて、ユダヤ人をパレスチナに返したが、一部は残った。やがて第2神殿の建設と聖書の編纂が始まる。これはむしろペルシャ当局の指示であった。エズラというペルシャの高級官僚が中心となって民族が従うべき掟を編纂したのである。一度提出したらそれを守らなくてはならず、訂正するには当局の許可が必要となる。こうして、絶対的な権威を持つ律法が纏められた。しかし、ペルシャ滅亡後も権威が継続したのは何故か?

      ここで加藤氏は「知恵」問題を採りあげる。これは一神教の特殊性であるが、信者が勝手に神の意図を決めたり理解したりして、人の生活の在り方を指示することは神への冒涜になる。神との契約を果たすために信者は義を果たさなくてはならないのだが、何が義なのかは聖書を読んでも判然としない。だから、ある程度自分で考えざるを得ないのだが、それで自分の流派を作ってしまうとまた神の冒涜になる。このような「神の前での自己正当化」は確かに社会秩序を乱すものである。それを避けるために、第2神殿が建設され、律法が唯一正しいとされたのであるが、儀式を永遠に繰り返しても、聖書をどういう風に解釈しても決して完成しないのである。むしろ、聖書は全体が物語りとなっているし、一意的な解釈を拒絶するために意図的に多義的に作られている、というのが加藤氏の考えである。まあ、意図というよりは、編纂の段階でいろんな立場の人が居たというのが実際かもしれない。ともかく、大澤真幸のいうところの到達できない第3者の審級としての神という概念の成立過程が説明されたことになるだろう。占領国によって押し付けられた律法化という点でも、人の恣意性をできるだけ排除しようとするために文書が最高の権威として立てられたという点でも、絶対に到達できないという点でも、日本の平和憲法と類似している。

第4章:神殿主義と律法主義
      アレキサンダー大王からローマ帝国の統治下で、イスラエル以外に居住するユダヤ人(ディアスポラ)が増えてくる。大都会での少数派として、コスモポリタンとして、つまりお互いに理解できない人々の中で理解できないことを前提として生きていく中で、普通は血縁的にも文化的にも民族が薄れていくものであるが、ユダヤ人の大きな特徴は、そのような分断状態にあってもユダヤ教を守っていて民族意識を失わなかったことである。彼らはシナゴーグに毎週集まり、聖書を朗読し、祈りや社会活動を行った。そこには見学者として異民族も参加し、やがてユダヤ教に改宗するものも出てきた。1世紀頃、ローマ帝国ではユダヤ人は人口の1割にも達していた。勿論聖書は一意的な解釈を許さないから、真面目な信者であればあるほど、律法を理解しなければならないという強迫観念と自分の理解が及ばないという劣等感と不安にとりつかれていたと思われる。それこそが、一神教を支えているのである。

      しかし、一方で、聖書の一部を解釈して自己正当化する「律法原理主義」の弊害が生じてくる。それは聖書の中でも批判的に採りあげられているくらいである。このような事が生じるのは、いつまで経っても異民族の支配が続き、神は沈黙しているからである。このような絶望から生まれてきたのが黙示思想である。そもそも神との契約はユダヤ民族の問題であり、ユダヤ民族が義を果たせば神が動く筈であったが、そうではなくて、神はユダヤ民族を超えた普遍的な神であり、世界が義を果たさなくてはならないのかもしれない。しかし、それは不可能に近い。普遍的な神であるということは天地を創造したということであり、この世が神への義を果たしていないとすれば、神の行うべき事はこの世を破壊することである。その上で義を行っている一部の人たちを救って次の天地を創造してくれる筈である。この黙示思想では律法も神殿も必要としていないし、ユダヤ民族すら問題にされない。

      BC2世紀に、急激なギリシャ化政策に反発してセレウコス朝シリアとのマカベア戦争が起こり、これに勝利してハスモン朝が成立するが、依然として弱小国であったために、シリアやエジプトとの妥協策を余儀なくされた。妥協的な体制派として、神殿勢力のサドカイ派と律法主義のファイリサイ派があり、これに反発したエッセネ派が生じた。経済的には神殿勢力が優位であったが、社会的には律法主義が徹底していたから、この頃には聖書の勝手な解釈による問題はあまり生じていなかったが、他方で律法の理解と実践の程度に応じた社会的差別が問題となる。ファイリサイ派は律法にあまりコミットしない者を「罪人」と決め付けて救われないものとして差別した。これに反発してエッセネ派は社会の外に出て自分達だけの共同生活を送り、神との直接的な関係の実現を求めた。しかし、エッセネ派の見出した結論は、人間は神に対して無力であり、神が勝手に人間を救うかもしれない、という可能性だけであった。エッセネ派は1世紀のユダヤ戦争で消滅し、黙示思想はその可能性の一つとしてしばらく残り、黙示録文学を残した。しかし、イエスの運動もエッセネ派の流れと解釈できる。神が(勝手に)新たな介入をした、というのがイエスの主張だからである。

第5章:洗礼者ヨハネとイエス
      ヨハネは洗礼という行為によって、神が人を許すとした。しかし、現実社会では律法主義であり、人は罪の状態とされている。神が動いても社会は拒絶したままである。また洗礼は人々を別ける結果となり、洗礼をうけるかどうかは個人の判断であるから、人が神の優位に立っているということにもなる。地上のイエスは「神の支配」を告知した。これは全ての人々の罪が許されたということである。勿論それを確信することは出来ない。しかし、神の支配という事を始めて告知したということが重要である。この情報としての価値と影響がある。神が果たしてユダヤ教の神であるヤーヴェなのかどうかについては明確ではない。グノーシス主義は別であるとの立場に立つ。従ってユダヤ教徒はキリスト教と距離を置く。キリスト教は神の支配に賭ける。ただ、その証拠がないと安心できない。人々は安心のためにイエスの奇蹟を信じた。勿論それは証拠にはならない。イエスは福音を伝えただけであって、律法に基づいた説教をしたわけではないし、独自の教会を作ろうともしなかったが、弟子は集めた。神殿主義も律法主義も否定したから、処刑された。

第6章:イエスの神格化と教会の成立
      イエスの生前は弟子達はあくまでも神の支配という情報を人々に伝える仕事を手伝っていただけであった。神学的には全ての人は同等であった。しかし、イエスの死後、弟子達は共同体を作り、神の支配を承認するものは共同体に入ったから、結局人間世界が2つに区分されるようになった。そうしない限り、日常生活では神との断絶を強いられるからである。このように神学的な原則を無視して宗教社会学的な現実を重視することには批判もあった(マルコ伝)。更にそれを強化するために、イエスが神格化された。神格化によって既存のユダヤ人社会との差別化が完成する。しかし、一旦神の支配が神格化されたイエスの支配に変わり、信者が増加して共同体自身が運営不可能になってくると、今度は権威あるメンバーが承認した他の共同体でも構わないという風にして広がっていく。本来は神にしか許されない、「イエスは神的な存在であり、イエスに従わねばならない」、という判断や、個々の共同体での生活スタイルが適切かどうかという判断を行っているのは指導者達である。このことを正当化するために持ち出されたのが聖霊である。彼らは神的ではないが、聖霊に満たされているから神のように振舞うとされた。一神教として始まったキリスト教ではあるが、多神教的な性格を持つ。しかし、これは神の支配が不完全であるということであるにすぎないとも言える。

      初期にはアラム語を話すユダヤ人達が中心であったが、やがてギリシャ語を話す人たちが参加し、彼ら(ヘレニスト)が神殿に対して強硬な反対姿勢をとったため、エルサレムから追い出されて、2つのグループに分裂した。使徒行伝に詳述してある。ペトロとヨハネが人々の上に手を置く(按手)すると聖霊を受けたということになる。ヘレニストの指導者もこれを受けていたので、ヘレニストの指導者は聖霊に満たされていて神と直接に結びついている。彼らは人々に神の支配についての情報を与えて、これを信じた人に神の名において洗礼を行った。しかし、どのような生活を行えばよいかについては何も指導しない。それは神の意思に任されているからである。これに対してエルサレムの教会では信者への生活指導も非信者と隔離した生活の場も与えている。聖霊を受けていない信者にとっては指導者に従うしかなく、ここでは指導者が神の代理のような形になっている。ヘレニスト的なやり方は神学的には理にかなっているが、「神の前の自己正当化」が起こりやすいということで、以後エルサレム教会のやり方が主流となり、結局のところユダヤ教における儀式と律法支配に代わって、キリスト教では指導者による支配が行われるようになった。つまり、指導者と信者という階層を認めることになった。

      指導者達の融通が利くようになって、ユダヤ人達への布教に彼らの聖書を活用したり(聖書を引用してその中にイエスが予言されているとか)、神殿に対する寛容な態度をとったりするようになると、キリスト教にも新約聖書が編纂され、シナゴーグを模した教会も作られるようになる。ただ、聖書や儀式はキリスト教においては二義的なものであり、神と繋がっている指導者による一般信者の指導こそが本来の姿である。指導者達の意見が異なる場合は会議で決定される。キリスト教においてイエスは勿論重要であり、イエスの神格化も重要な役割を果たしたが、それはキリスト教の本質ではない。本質は神の支配の現実であり、イエスはその手段にすぎない。福音書においても、イエス自身は自らが救世主と呼ばれることを拒否している。

第7章:キリスト教と近代
      エルサレム教会の頃から、キリスト教のあり方は人による人の支配となった。儀式は一般信者を支配するための手段であって、神学的に決められたものではないし、聖書もユダヤ教のような絶対的な拠り所とは見なされない。イエスや初期キリスト教では文書を作り出すことを避けていた。最初の文書はヘレニストによって書かれたマルコ福音書であり、多くの人が神と断絶した状態であることから生じる問題にやむなく律法主義的な対処をしたものである。しかし、その後書かれた福音書はそれを避けていたし、指導者達も長い間正式な正典とは認めなかった。キリスト教の教義は会議によって決められていった。つまり人間(指導者達)の都合なのである。

      西欧社会の原点であるギリシャ世界は自由な市民階級と奴隷との2層構造である。労働は奴隷の仕事であり、市民は政治や戦争といった社会全体に関わる仕事に専念している。アレキサンダー大王の帝国が生まれて市民達は征服地の奴隷を管理する仕事に忙殺されるようになる。そうなると、自由、文化、支配、富、といった要素を同時に自分のものにするのが困難になる。ディオゲネスとアレクサンダー大王の会話に現れているように、奴隷的な身分の人の方がむしろ自由と文化を享受する、ということも生じてくる。このようなジレンマがローマ時代に至るまで続いたが、それを解決したのがキリスト教における聖と俗の構造である。一番上に聖職者が居て全てを独占する。その下に俗界の全てを独占する貴族があり、一番下に一般の人たちが労働を担当する、という社会の3層構造である。聖職者達は宗教的権威で世俗の人たちを管理することで、世俗支配層を助けるし、下層の人たちの自由や文化の追求は聖職者階級に向かうことになって、貴族たちへの反抗が収まる。こうして安定した社会構造が生まれた。

      この辺りから、議論がまあどうでもよい感じになるのは否めない。宗教改革から近代、現代に至る記述は表面的である。著者は神学者だし、カトリック教会をキリスト教本来の姿と考えているのであるから、これは仕方ないというべきだろう。しかしまあ、そこに至る経緯は良く判った。

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