2020.11.22
100分で名著、カントの『純粋理性批判』−解説: 西 研

一言で要約すれば、理性の限界を明確にすることで、西洋哲学の出発点となった。その後の西洋哲学は全てカントのこの著書が前提となっている。逸脱しかけてはカントに戻る。まるで西洋音楽におけるJ.S.バッハのような存在である。・・・ということを知った。僕はカントを読んでいないし、よく知らなかったが、マルクス・ガブリエルがよく引用するので、興味を持った。以下録画を見ながらのメモである。

●カント以前の哲学の課題は
・因果法則と自由の矛盾:物心問題
・認識と客観性の矛盾:主観客観の問題
流派として
・イギリス経験論:主観性を克服できない
・大陸合理論:大前提されあれば、全ては論理的に説明できる。

●カントの方法
・人間同士が共有できる事は何か?という基準で考える。
・もの自体(決して本当の姿を認識できない) と 現象(直観するもの)の区別する(思考の為の方法として)
・現象として共有できるもの=客観 という定義をする。
・人間が共有している眼鏡=悟性と感性 を仮定する。
      感性→直観的なもの、身体的な反応
      悟性=自ら主体的に判断する能力:今日的な表現では個々の脳の低次な情報処理

●カント以前の哲学問題を解決する
1. 科学の知は何故共有できるのか
ヒュームの考えでは、因果関係は経験に過ぎない。
  しかし、カントは考えた:主観には共通規格がある→アプリオリな総合判断。
  これによって科学の知が共有可能になっている。。
  判断には二種類があると考えた。
    分析判断(富士は山である、主語に含まれているもの:単なる分類の記述)
    経験的総合判断(富士は3700mである→主語に個別情報を付加するが確実性は担保できない)
  アプリオリな総合判断の例:幾何学の公理、因果律、2+3=5
      総合判断の成り立ち
      感性の空間と時間作用+悟性のカテゴリー作用から生まれれている:単一性、数多性、総体性、原因と結果、、、
      1:空間の中に一つの塊(感性)、量のカテゴリー(悟性)で二つの塊が評価される
      空間の枠組みで蝋燭、風が吹いた、蝋燭の炎が消えた  時間(感性)の枠組みで整理して、因果関係のカテゴリー(悟性)を適用する。
  但し、この総合判断が可能になる条件がある。
  私という存在が全てをまとめている。私の認識である、という一貫性:純粋統覚である。

2. 何故答えの出ない命題(カント以前の哲学問題)を問い続けるのか?これは理性の暴走である。
  悟性から推論する能力=理性(何故なんだろう?)
  例:不死の魂はあるか?
      しかし、時間空間の枠組みを超えるものは知りえないのである。
  例:宇宙は無限か?
      これはアンチノミー。1.宇宙には始まりがある、宇宙には始まりがない、この二つはどちらも証明できる。
      他アンチノミーには、2.物質の根源物があるか?理性の二つの関心;完全性を求める、真理を追究する(疑念を持つ)。
  3.自由の原因性はあるか?
  4.神は存在するか?
  これらの答えの出ない問題は哲学の主題とすべきではない。
  しかし、理性は人間の生き方の問題に関わってくるから、そこに哲学の問題がある。『実践理性』である。

● カントの功績と実践理性批判
カントは2000年来の哲学をひっくり返した。(主要な問題にけりを付けた。)
哲学の目標は真理ではなく、生き方である、とした。コペルニクス的転換。
カントの道徳論
    理性の働きは行動に現れる。実践理性、最高の生き方。自由。
    欲動に支配される、因果律に縛られている。それは自由ではない。(中島みゆきの『それは愛ではない』と同じ)
    道徳的に生きる=正しいと考えて生きる、それが自由である。自分の成長、他者の幸福の為に判断することが『自由』である。
    因果律の考えの元では道徳的責任は問えない。
    道徳律を選ぶことが出来たと考えて初めて彼に責任が問える。
    自由は『もの自体』と同じく、人間には認識できない、『叡智界』にある、と考えた。
    例:犯人について、
        現象界に現れた人間については因果律が見えるから罪に問えない、
        行為の『主体』として考えると叡智界にある。自由がある。
    人間の二重性:感性(欲望)と理性(道徳)
        かわいそうだから親切にする:感情に支配されているから、道徳的とは言えない。
        こうすべきだと考えて親切にする:道徳的価値がある。
    カントの考えた道徳法則、
    ・自らの格律が普遍的立法であることを判断せよ。
    ・他者の自由意志を尊重する、尊厳の問題。
カントは人間性への信頼を持った人であった。。。
カントは道徳性に偏った、本能的な満足を認めないという批判がその後現れる(by ニーチェ)。

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