2005.09.17

    河野哲也「環境に拡がる心」(勁草書房)を1/3位読んだ。我々の経験をまず第一に与えられたものとして受け止めて、それが実存していると考えること。他者は他者という概念が生じる前からそこにある、ということ。人間には無意識の模倣傾向が備わっていて、それは何やらと何やらの要素機能の組み合わせではない。勿論物理的生理的に解析すれば組み合わせということになるだろうが、どうやってその機構が生じてきているのかは遺伝子の発現順序まで遡ってみても結局判らないであろう。進化的に身についたものは偶然に選択されて残ったと考えられるからである。そういった解明努力(生理学的研究)も重要ではあるが、解明されていないからといって、奇妙な理屈をつける必要はない。他者の模倣に始まって、動物はお互いに引き返すことの出来ない働きかけによる関係性の発展を作り上げるように出来ている。そういった無意識的な社会行動を後から分析して、それが例えば「心の理論」を頭の中に作り上げる、と考えることに、どれくらいの意味があるか?

    要するに、心の中に、身体、更には環境とは独立した表象やその操作原理があって、それが身体に自由に指令を出している中央演算装置としての自己である、という考え方が問題なのである。そういう風に見えるかもしれないが、それは言語活動によって生理的・物理的現象から抽象されたモデル(創作物語)にすぎない。勿論表象やその操作原理は経験によって修正・再構成される、と考えるのであって、それはそれでよいのであるが、そういう風に考えることによって現実世界からは原理的に自由な自己という幻想が生まれるし、行動の動因は自己に帰せられる。

    第3章の「環境と心の受動性」では我々の心の働きが環境と一体化していることを具体的に述べている。他者の理解ということも、自分の心の中に心の理論が出来ていて、それに従って感覚的に得られる他者の情報を処理する、ということではなくて、そもそも他者の理解ということは他者との相互作用のあり方そのものなのである。他者との相互作用、コミュニケーションそのものを基本的なこととして認めて、それが自己発展的歴史を作り出す様子を観察しなければならない。浜田寿美男は密室での長時間にわたる取調べによって虚偽の自白が為されてしまうプロセスを研究している。対話のプロセスによって自白者は自分が思ってもいないのに取調官の提出する証拠に合わせて自分の行為を作り上げていく。この時語っているのは自白者ではなく相互作用そのものである。バフーチンはこういった対話性に注目した先駆者らしい。発話には言語体系としての側面とその場での対話の状況や自己の歴史性に刻印された側面があり、コミュニケーションでより重要な意味を持つのは後者の方である。そこでは発話は言語体系に従った客観的な意味を表している、というよりもむしろ、他人の活動の誘導と調整という行為なのである。「話者が期待するのは、受動的な理解−他人の中に作られる自分の考えの模像−なのではなく、返答、賛同、共感、反駁、遂行、、、である。」

    一人で思考しているときの内声は自分の言葉ではなく、他者の言葉である。思考とは多くの他者の言葉(多声性)が異物のままに留まり、もともとの指示内容を保持したままに自分の声と衝突することである。つまり思考とは本質的に政治的な活動である。ヴィゴツキーというソビエトの心理学者は人間の高次の精神機能は「主体−媒体(道具)−対象」とういう関係性の中で成立するという。人は道具との相互作用を通じて外部から自分の行動を制御する。道具には技術的ツールと心理的ツールがあり、技術的ツールが自然の統御を目的として生まれたのに対し、心理的ツールは他者や自己の統御を目的として生まれた。思考する能力は私達個人の能力ではなく、私たちと道具の相互作用なのである。したがって道具の出来具合で思考の内容そのものも変容する。道具の使用はそれを発明した先人と共同作業を行うことであるから、挟みで紙を切る、という行為も100%自分の行為ではない。

    さて、現代は新しいテクノロジーによる道具の世界である。テクノロジーを生み出す人は使う人と切り離されている為に、使う人の行動に大きな影響を与える。例としてニューヨーク市ロングアイランドに架かる200個の低い陸橋の例が出てくる。これは意図的に低く設計されていて、それは公共バスを締め出すためである。自家用車を持たない黒人や低所得者層はその中にある公園に集まることが出来ない。また日本の公共建築は身体障害者が利用し難いように作られている為に、われわれが身体障害者に出会う頻度は北米やヨーロッパに比べて極端に低くなっている。別の例では、北米で開発されたトマトの自動収穫機はそれに適した皮が硬く味の劣るトマトのコスト的な優位性を生み出し、市場で美味しいトマトを手にする事が出来なくなってしまった。ヨーロッパ近代において俗語(今日の各国語)での出版という技術は、国民意識という幻想を生み出した。ここまで来ると本のタイトル「環境に拡がる心」の意味が良く判る。

    第5章「心は主体だろうか」では自由と必然性の問題が論じられる。この対立概念が対立概念として見えるのは行為を心という司令塔の一方的な命令の結果として考えているからである。実際のところ、私たちは意図してから行動するわけではない。実際はそれ以前のところで、そもそも身体の方が先に動き出している。行為は、予期せぬ事態に曝されて、内在する力が自然に引き出されることから始まる。その過程で環境が知覚され我々の行為が調整される。行為というのは動物が本来的に行動している状況を環境の知覚によって調整することである、と考えれば、自由の意味も全く違ったものになる。自由とは、新たな選択肢を探索し、そこで得られる情報に基づいて自分自身のあり方(選好や価値観)を変化させる態度に存する。自由とは自分を教育することにある。行為の未来は、その行為によって次第に顕になっていく環境の変化の中にある。行為は世界を切り開き、そこに目的や目標が見出されていく。行為は、自分がこれから発見していく情報によって創造される。この意味で、行為は環境の中から探し出されてくるとさえ言いうる。この行為の開かれた性質にこそ、私たちの自由の根拠がある。

    このような観点からは、一般的な自己組織化するシステムと動物の行動の組織化が類似していることになるし、実際そのような研究もある。ジャレロ(Juarrero,A(1999) "Dynamics in Action", MA & London:MIT Press)によれば、人間は、環境に対する非平衡的で、適応的なシステムである。心的なものは、様々な身体的な諸活動が自己組織化することで生じる高次の創発的な性質である、しかし、この高次の性質が創発すると、今度はそれが下位のレベルに対して因果的な効力を発するようになる。意図とは、様々な身体的な諸活動を起動させる動力ではなくて、それらの諸活動が相互に制限しあうように一定の組織性や構造性をもたらすことである。この意味で、意図は行為の動力因ではなくて、形相因なのである。これはもともとアリストテレスが言っていたことであるが、デカルトによって否定された考えである。主体性とは行為の動力因(原因や起因)のことではなくて、環境と行為者との循環的関係の中で現れる、多声的で異質な過程を政治的に調整することである。このように考えると主体性というのは相対的な概念であることになる。どの程度環境に依存しているかによって、主体性には強弱がある。

    最後に「どういう意味において、私たちの存在は世界に必要なのか」が語られる。生態学的環境とは、動物とその周囲が因果的な相互依存関係にあるような水準のことである。従って世界が生態学的環境となるためには、有機体の存在が必要である。生物は環境に適応して進化することも確かであるが、環境も生物の働きかけによって進化する。この意味で生態学的環境は歴史性を持つ。しかし最後に触れるべきことは、知覚の役割である。知覚には環境を改変することは出来ない。行動を伴なわない知覚には意味がない。あくまでもこの四肢が必要なのである。

    ということで、無事今日図書館に本を返すことが出来た。

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