2005.09.03

    和歌山への出張の行き帰りで、苧坂(おさか)直行編「意識の科学は可能か」(新曜社)を読んだ。東京研究所の図書室で借りておいたものである。2000年の心理学会のシンポジュームの講演録である。

苧坂直行は京大の教授でどうもボス的な存在らしく、基調講演を担当している。

    意識の研究は行動主義全盛の頃には主観的であるとして心理学的研究の対象ではなかったが、最近多くの研究者が採り上げ始めた。立場としてはギブソン流に脳内過程の意味を認めない立場から神経生理学的な立場まで拡がっているが、後者の立場で見れば、大きく意識の3段階を区別すべきであるという。

・一番基本的なものは「覚醒」であり、これは脳内の特定の部分からの神経伝達物質の作用で活性化され、そのメカニズムは科学的に解明されつつある。

・その上の段階はawarenessの段階で、感覚乃至は運動に付随して何かに気づく、という事である。これは意識の志向性とも言われる。意識的な注意はしかしながらそれに使われる脳内の容量が限られているので、選択的注意という事にならざるを得ない。最近の研究でworking memory が使われていて、その知覚の分類に従って脳の特定部位が相関していることが判っている。見るということでも、色と形と運動は別々の場所で行われている。認知神経科学ではこのように脳の機能分担として意識を見るわけであるが、知覚が志向性を持つということ自身、それだけではなく、環境へのアクティブな探索行為としての意味を持っていることも示していて、この点はギブソニアンに学ぶべきであるという。従って、感覚的awarenessというのは、必ず行動的awarenessを伴なっていて、認知という意味では身体による認知(行為的認知)という概念が成り立つことになる。ギブソニアンが注目しているのはむしろこちらの方であり、組み合わせると探索的認識と行為のループが出来上がることになる。これらは繰り返されることによって自動化され、やがて意識されなくなるが、意識し続けるために使われる working memory には限りがあり、より緊急性を要する課題が生じてくるからである。

・さて、その上にあると考えられるのが recursive な意識である。これは外部環境の認知と結びついた意識ではなくて、「わたし」という内部に志向する意識であって、言語無しには存在できない。「わたし」の中に自己参照的に他者のモデルを組み込み、他者の認識や行為をシミュレートする働きであって、可能性や行為のプランニングを行う為に必要となる。 recursive な意識は awareness の意識を基盤として成り立っていて、後者が前者を導く場合が多いのであるが、逆に前者が後者を導く場合もある。単に言葉によって提示された刺激からその感覚的な照応物がイメージされ実際に脳内では対応する部分が興奮していることが確認されている。ところで、考えるに、この recursive な意識が本当の意味での「わたし」という内部についての意識なのか、それとも「言語」という新しい環境に対する探索的認識と行為という意味で、awareness の意識と同じレベルの事なのか、ということは必ずしもはっきりとは言えず、その辺は捉え方の相異と言えるのかも知れない。「言語」を環境と考えることは、「内語」や「イメージ」無しに考えを思い巡らすことが出来ないという意味である。その場合に「内語」や「イメージ」はわれわれの内部にあると言えるのか、それともそれらが感覚的刺激によって生じる脳内プロセスと何の区別もつかないのであれば、それは外部にあると言ってもいいのではないか、という意味である。そういう意味で、このようなギブソニアン的な考え方も在り得る。

下條信輔は心理学的実験の客観性について論じている。心理的内容というのは主観的な現象であり、それを実験データとして扱うことは出来ない、というのが行動心理学の考え方であったが、それはそもそも心理という現象そのものを誤解しているということである。我々にはお互いの心理状態を理解しあうという前提があるのであって、その前提が成り立つ限り、心理的な現象が客観的と言える。当然ながら全ての心理状態がそうなのではないが、かといって全ての心理現象が客観性を持たないとはいえない。異なる人間に起きることが全く同一であることは、物理的な或いは生理学的な現象にすら成り立っていないのであって、同じと看做せるという前提をおいて科学的研究が成り立っている。ただ、その基準が被験者と実験者の間の心理的共感に依存している、というところが心理学的実験の特徴であるにすぎない。最近はそれだけでなく、裏づけとして心理学的な現象に対応する神経生理学的に観察可能が現象が見つかってきており、そうなると特定の心理学的現象が実は共通した構造を持った脳を所有する人間の間では客観性を持つということになる。

佐々木正人は意識をawarenessとcontiousnessに区別していて、後者(recursiveな意識に相当すると思われる)については言及できないと正直に言う。ギブソニアンとしてははっきりと存在しないと言うべきであったのかもしれないが、ここは多分大先生を前にして遠慮したのではないかと思う。

    awarenessについては最初に、アメリカにフロイトを紹介し、ギブソンの先生でもあった心理学者ホルトの紹介をしている。ホルトはそれまでの心理学がcontiousnessの内容である感覚を対象にしてきたこと、つまり被験者の言語表現に基づいて心理現象を扱ってきたこと、を批判し、そうではなくてフロイトが提案したように「意図」を扱うべきであるという。この「意図」というのは機構としての身体が行うことの出来ることであり、これは身体の構成要素と環境とを結び対けることなのであるから、環境や身体を構成する物質系にあるのではなく、それらの物質系が組織されたときに取る「形式」の中にある、という。環境を含めて身体の「統合された反射」あるいは「反射の組織の形式」として「意図」の研究をするのが心理学である、ということになる。動物の身体の一部に刺激を与えると動物が反応するが、それを個々の感覚器官や神経や筋肉の動きに分解して分析する方向に進めば、エネルギー変換の物理と化学に行き着くだけである。そうではなくてそれらがどのように統合され組織化されているか、という方向に進めば、特定的なひとまとまりの行為として見えてくる。この特定的な反応こそ心理学の研究対象である。このような特定的な反射が二つ以上組み合わさると、また別の次元の現象となる。

    印象的な例として、二つの眼(光学エネルギーを感じる)と二つの尾ひれを持つ動物が居たとして、左側の眼に刺激を感じると右側の尾ひれを動かして左に向きを変えながら前に進むという反射が一つあるだけでは、この動物は単に光源を前にして身体を回転させるだけであるが、右側の眼に刺激を感じると左側の尾ひれを動かすという反射が組み合わさると、この動物は光源を目指して進む、という新しい次元の行動パターンを示すことになる。これがこの動物にとっての光源のawarenessである。いうまでもなくawarenessには複数の感覚と行動が対となっていて、またawarenessは環境の中にある対象や事実を対象とするまとまりを持った行為である。このような考え方は行動主義と似ているように思われるかもしれないが、行動主義では環境と動物を一旦切り離した上で、刺激を与えて反応を見るのであって、あくまで動物の受動的な特性を調べているに過ぎない。そうではなくて特定の対象と動物の反応を一体的なものとして捉えるべきであるということになる。

    ギブソンはこの考えを更に発展させて、contiousness という概念の有効性を否定する。contiousness は心理学的には随意運動と不随意運動、能動と受動を区別する為に導入された概念で、生理学者ホルストによってモデル化された。すなわち脳が身体に運動を命令するときに、その内容は脳に保存され、身体の運動結果は身体運動感覚と比較され、それらが同じであれば意識されないが異なっていれば意識される。ギブソンはまず身体運動感覚そのものによって身体運動が知覚されるのではないことを示す。それは彼の視覚光学の研究であって、動物の周囲の光学的な動き(光情報の流れ)そのものが動物にとっては自己の運動なのである、という事に端的に示される。この外界に自己が見える、ということから能動と受動の区別そのものの意味がなくなってしまう。こうしてcontiousnessという概念による区分があまり意味を持たないということを示し、その替りに「姿勢」という概念が重要であるという。これは環境への定位の為にとられる限りない運動であり、それが組織化されるプロセスこそが心理学の研究対象であるということになる。

信原幸弘は哲学の立場から、意識の存在論的特徴について述べている。意識とは何かについての意識であって、一言で言えば表象であるが、一般的な表象がその志向内容と内在的特徴を備えている(例えば犬という言葉を例にすれば、それは現実の犬を志向しており、「いぬ」という一連の物理的な音の連続という内在的特徴を持つ)のに対して、意識表象には志向内容があっても内在的特徴が無い。したがって、原理的には脳内状態そのものが意識の内在的特徴である、ということが可能である。一方で意識の志向内容そのものについてみると、これが現実とは関係のないものである、と考える必要はなくて、経験の機能という物理的なものであると考えればよい。つまりリンゴが意識されているということは、リンゴが目の前に存在するということを我々に知らせるという具体的な機能を本来持っていることと考えればよくて、それによって我々は取って食べるという行為を行うのである。現実にリンゴがあるかどうかはこの場合問題ではない。あろうがなかろうが、意識としてはリンゴがあるということなのであるからそういう機能が働いているのであり、無かったら手に取って食べるという行為が失敗するだけである。ところで、このように機能として考えてしまうと意識的な行動に伴なう知覚内容と無意識的な行動に伴なう知覚内容との区別が無くなってしまう。したがってそれらを区別する為に前者は言語化されている表象である、と考えておけばよい。ということで、ここでも言語が awareness とcontiousnessを区別する為に必要な道具となる。

●最後の山中康裕はカウンセラーと思われるが、登校拒否や精神病患者の意識変容の例を挙げて、意識されていない経験に眼を向けることで意識が突然変容したり、意識され言語化されることの中にその人が意識していない身体状況が反映されていたりすることから、意識と無意識は本来的に一体化されたものである、ということを主張している。

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