2016.08.17

     「海嘯」のDVDを観た。海嘯は河を遡る大波の事だが、ここでは津波を意味するようである。多分「うそぶく」という言葉が気に入ったのではないかと思う。筋書きは復讐の物語である。夜会では、以前にも「シャングリラ」で復讐を描いたし、「2/2」も復讐ではないが、幼い頃に吹き込まれた罪の意識が自らに復讐してくる、という話であった。「問う女」ですら、転校を繰り返して級友達から疎外された事への復讐という風にも読める。中島みゆきはどうもこういう執念深い話が好きなようである。「海嘯」での復讐は、まだ母親のお腹の中に居た頃に、両親の経営する旅館を乗っ取られ、父親が事故に見せかけられて殺された、ということを成人してから聞いたというのが発端である。

      ハワイでホテルを経営して成功した主人公繭(まゆ)は乗っ取られた旅館の主人(復讐の相手)が病床に伏せていて3ヶ月位の命しかないことを知る。以前から計画していた復讐は、その付近の山を買い取り、新しい鉱泉を掘って今の鉱泉を枯渇させた後、乗っ取った旅館には供給しない、という話であったが、本当はその鉱泉のあたりには断層が見つかっていて、爆破することで山崩れを起こすという事が最後に語られる。これからロサンゼルスに行ってその計画を打ち合わせる途上、飛行機の中で倒れて、ハワイの結核療養所に入れられてしまう。そこが主たる舞台となる。

      2人の患者(妊娠した女性郷子と本当は男性のたまこ)と20年前に妻子を日本人に殺された中国人医師(張春祥がなかなか良い演技)。それぞれが過酷な過去を持つが、繭はそれらによって生じる事件(舞台としてはこれらが面白いのであるが省略する)に巻き込まれながらも、復讐の意思を捨てない。1人のヤクザが(組長の次男としての)たまこを襲い、繭はたまこと一緒に医師の車で逃げだそうとするが、そのとき津波警報があった。びっくりした郷子に子供が産まれそうになったので、たまこも中国人の医師も残るが、繭はそれでも復讐を諦めず、1人で空港まで車で行こうとする。そのとき結核で喀血して倒れ、津波がやってきて、すべてを破壊する。ただ、最後に赤ん坊の泣き声がしていたので、郷子達は無事だったのだろう。

      「シャングリラ」では誤解に気づいて復讐の相手が実の母親であった事を知るし、「2/2」ではベトナムまで追いかけてきた恋人の調査によって幼い頃に吹き込まれたことが事実でなかったことを知るし、「問う女」では言葉の暴力によって他人を傷つける度に言葉の通じないタイからのジャパユキさんとの交流で慰められる。しかし、この「海嘯」では最後まで復讐の意思を克服することなく、津波が洗い流してしまうのである。

      歌の方であるが、中盤以降の歌はいずれもなかなか良かった。張春祥とのデュエットの「白菊」が特に印象に残った。この夜会の主題は「死」なのかもしれない。彼女にとってこの筋書きは、その細部に「取り残された者達」という物語が潜んでいるのだが、それ自身が表現でありながらも、むしろ死を歌うための題材にすぎないのではないかとも思う。歌には意味が伴い、その意味は歌だけではなく、歌う人や聞く人の置かれた状況に依存するから、その状況を舞台上に新しく作り出すことによって、歌う意味を作り出し、それを歌う。それによって、通常のアルバムでは歌えないような歌が生まれることになる。歌を聞きその意味を理解したとき、我々はそれが歌う人の意味することだと思う。確かにその通りではあるのだが、それは歌う人の恒常的な意味ではなくて、歌うという演技においてそうなのである。こんなことはまあ当たり前なのだが、それでも、我々は歌の中に意味を見出し、自分の意味として受け入れることさえある。「たかが歌」に何ができるか?というのが中島みゆきの一生をかけた課題であり、その探求の一環として夜会がある、ということだろう。

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