2013.12.15

      岡谷公二の「神社の起源と古代朝鮮」(平凡社新書)を読んだ。先日、散歩でアルパークのフタバ図書に出かけて偶然見つけた本である。最後の1冊だったから結構売れているものと思われる。元々は金達寿という人が、「神社も神宮も新羅から入ってきたものです」、と言っていて、その事の検証旅行記となっている。2009年には同じ平凡社新書で「原始の神社をもとめて」を書いていて、そのときは琉球と済州島を旅行している。今回は、琵琶湖の湖西の神社に始まって、東側や北側、若狭湾周辺から富山の方面まで辿り、更に出雲でしばらく考察し、更に大和の三輪、島根県まで歩き回っている。

      もともと弥生時代から古墳時代にかけて、朝鮮半島の東側で栄えた新羅からは海流に乗ればこれらの裏日本に自然に到達し、瀬戸内海経由よりは容易であったから、多くの新羅人が渡来したのである。彼らは進んだ製鉄技術(たたら)を持ち込んできて、当時の日本では大きな勢力となっていて、また、砂鉄や木材を求めて更に日本国内に散っていった。継体天皇も新羅系の血を引いている。従って神社の名前にはしばしば新羅が漢字を変えて残っているし、祭られている神も新羅系の人物が多い。ただ、出雲だけは特別で、国譲りの後意図的に新羅の痕跡を文献(出雲国風土記)から消されているようである。また、大和の地にも新羅系の神社があるのは、大和王朝にとっても神事に関しては出雲を頼りにしていた、ということを意味している。

      元々神社というのは神が降臨すると考えられる森や樹の信仰であって、建物を建てるというのは神への冒涜と考えられていたらしい。神社建築が出来たのはひとえに仏教に対抗するためであったということである。出雲だけは立派な神殿があるが、これも神の座ではなく、宮廷であった可能性が高い。本来の神社は森や樹の周りにそれと知らせるしめ縄とか石を置いたりして住民への目印としていたに過ぎない。現在でもそのような形での本来の信仰(手入れや祭り)が残っている場所もある。

      ところで、本国の新羅では、その後儒教が支配的となって、素朴な神社信仰(朝鮮では党という)は弾圧されたから、あまり残っていない。党の儀式自体が儒教化している。著者が済州島に行ったのはそこが離島であるが故に党が比較的そのままで残っていたからである。今回は偶然知り合った研究者と樹木医のグループと一緒に慶州(新羅の都)に旅行して、僅かに残っている党を訪れた。彼の関心事として、済州島に残っていた党は全て1本の樹であって、本来そうであると考えられる森が見当たらない、ということであったが、慶州近郊にはそれも見つかった。

      神道というのは日本古来の信仰だと思っていたから、こういう説は意外であった。日本民族の由来というのは大陸からの幾重にも亘る影響から出来上がっていて、大陸では廃れてしまった文化が日本には重層的に残されている。そういう文化の積層と変容こそが日本民族を作っているというべきだろう。一番古い文化ということになると、南方に由来する日本語の音構造と語彙だろうか?その音構造と語彙の上に朝鮮からの渡来人の文法が重なっているように思われる。
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