2012.09.04

      考えてみれば何故今頃イスラームの勉強をしているのだろうか?京都で通った予備校の先生の世界史の講義は大変面白かったのを思い出した。使った教科書も高校でのとは違っていて東洋が中心となっていた。中国やモンゴルの立場から西洋を見る、というような記述になっていて、新鮮だったのである。あの 4cm もあった厚い教科書は宇都宮では大事に取っておいたのだが、今は無い。捨ててしまったのだろうか?高校で習った世界史は近代ヨーロッパから見た世界史であり、アフリカ大陸もアメリカ大陸も「発見」されたというのが、如何にも奇妙に感じられたものである。特にヨーロッパにとってイスラームは常に脅威の対象でしかなかったから、外面からしか記述されていない。桑原武夫が江戸時代に日本で産業革命が始まっていた、という歴史書を書いていたのも面白かった。人間というのは経験することを一貫した物語にする、という抜けがたい傾向を持つ。これは意識そのものが自己を維持する為の基本特性である。しかし、現実というのは物語ではないから、いろいろな立場で見直さない限り判断を誤る。勿論行動というのは一つの物語に従わなければ上手く行かないのであるが。そういう意味で中華、イスラーム、ヒンズー、といった立場で世界を見ることが重要である。

      さて、その後ムハンマドは優れた戦略と政治力によって、マディーナ内の対抗勢力を融和させ、マッカとも和平条約を結んでその間に周辺の部族を連合に引き入れ、最終的にはマッカの一武将の停戦違反を口実に大軍でマッカを包囲して無血制圧してしまう。ムハンマドが632年に没した時にはアラビア半島の西半分がイスラームであった。死後、マディーナ由来の指導者とマッカ由来の指導者の分裂の危機は、当初からムハンマドを支えていたアブー・バクルの穏健な性格によって回避され、周辺の部族の反旗は遠征軍と婚姻や贈り物などの融和策で押さえ込まれた。当時シリアはササン朝ペルシャからビザンツ帝国が奪回したばかりだったが、肥沃なこの地を奪わなければ、沙漠の国家イスラームの存続はなかった。636年ヤルムークの闘いでビザンツ帝国軍を破り、さらに、エルサレムを包囲した。ここを治めていたギリシャ正教会が軍事的な抵抗を諦めて安全の保証と引き換えにエルサレムを明け渡した。2代目カリフのウマルの時代であった。キリスト教徒もユダヤ教徒も庇護民として保護された。ササン朝ペルシャは643年ニハーワンドの闘いで敗北し命運が尽きた。ウマンがペルシャ人による暗殺で倒れた後は合議によって、やはりムハンマドの信頼の厚かったウスマーンが3代目となった。口承によって伝えられていたコーランが書物となったのはウスマーンの治世であり、彼は5部複製し、マッカ、バスラ、クーファ、ダマスカス送り、他は全て焼却した。こうして、イスラーム共同体が文字として残る事になった。

      イスラームが版図を広げるということは、戦利品が大量にマディーナに集まるということで、その分配という新たな政治問題が浮上する。2代目ウマルは厳格であったが、3代目のウスマーンは老齢ということもあり、不公平感を持たれた。彼は邸宅を囲まれて暗殺された。4代目は若いアリーであったが、その原則に従ったやや拙速な政治により、イスラームが危機に陥る事になった。ムハンマドの妻たちという本来核となる人達がイラクに陣取って反乱を起こし内乱となったが、結果的には制圧され、反乱者のアーイシャはその後マディーナで教師として生涯を終え、スンニー派の教義の中核を作った。しかし、ウスマーンによってシリア総督に任命されていたウマーウィアとの戦闘は決着がつかない。アリーについたのは優遇されていた古参の信徒であり、ウマーウィアについたのは新参の信徒であった。結局アリーは和解したが、アリー側からは和解に反対してハワーリージュ派という分派が生まれた。これはだれでもカリフになれる、という過激な思想であり、目的のためには手段を選ばない。アリーが彼等の暗殺で倒れると逃れたウマーウィアは5代目カリフを名乗り、政治的な判断からアリー派もこれに従った。ウマイア朝の成立である。ウマイア朝の時代にイスラームはスペインから北アフリカ、東はインド大陸の西側までの広大な版図となった。そもそも他民族を統合した版図はもはや共同体では治めきれず、帝国としての統治が必要となっていた。その住民はもはやムスリムではなく、キリスト教、ユダヤ教、ゾロアスター教との併存が必要であった。改宗か、税か、剣か、を迫り、多くは税を選んだ。各地にアラブ人による軍を駐在させ、軍は民と交わらなかったから、まさにムスリムたるアラブ支配者によるネットワークで帝国を治めたということである。布教そのものはあまり拡がっていない。

      ムアーウィアが息子にカリフを世襲させると、アリーの次男フサインが反乱を起こし、殺害されてしまう。これは大きな過ちであった。そこからシーア派が生まれたからである。その後、マッカでイブン・ズバイルが反乱し、アブドゥルマリクによって鎮圧された。この時期イスラームの中央集権化が進んだ。公文書にアラビア語が使われ、貨幣にもアラビア語が記載された。ウマイア朝時代には2つの分派が生まれ、またネットワーク支配の必要性からアラブ人と改宗した非アラブ人が区別された。後者はマワーリと呼ばれ徴税されたのである。本来ムスリムは全て平等な筈である。これらがウマイア朝自体の正統性を脅かす事になった。

      シーア派を中心として運動が発生し、旧ペルシャのメレヴで747年に蜂起し、イラクでウマイア朝軍を壊滅させた。ウマイア朝はスペインに逃れて後ウマイア朝となる。新しいカリフにはアブー・アッバースが就任した。ムハンマドの叔父の系譜である。アッバース朝である。マワーリは廃止され本来の姿に戻った。2代目はその兄マンスールが継いで、多数派のスンニー派に付き、革命の主体となったシーア派の影響を排除した。帝都はダマスカスからバクダードに移った。交通の要衝であり、ペルシャ的な円形を基調としている。マンスールは息子のマフディーにカリフの座を譲り、シーア派との融和も行われた。しかし、政治中枢の肥大化と共に官僚が実権を握り始める。マフディーが狩の最中に事故死し、息子ハーディーがカリフになると彼と親しい地方に展開している軍人達の発言力が高くなる。官僚であったバルマク家のヤフヤーが逮捕されシーア派との融和も終わった。しかし、ハーディーはその母親の実権を奪ったために暗殺されヤフヤーの養育したハールーンを素早くカリフに任命したため、元の軌道に戻った。786年である。しかしそのハールーンは803年に突然ヤフヤーとその係累を逮捕して、官僚の天下が終わった。理由は判っていないが、おそらく最初は官僚任せだったハールーンも統治に熟練するにつれてその危険性を認識したのであろう。その後帝国は平穏となり、ハールーンは千夜一夜物語の主要な登場人物となり、理想的なカリフとして讃えられることになる。しかしハールーンが2人の息子に帝国を2分して分け与えたことが内戦を呼び、兄の勝利によって終結した。もう1人の弟は解放した奴隷を主体とする私設の軍隊を築いていた。兄の死後カリフに就任し、ムウタスティムと名乗った。アッラーの為に召集されていた軍隊は能力主義と報酬による職業軍隊に変わった。これは軍事力の強化には寄与したが、他方で男性優位の社会を齎した。そういった変化に反発する市民と軍隊の対立を避けるために、サーマッラーに遷都した。この時代軍隊だけでなく土地所有制度も変わり、私的所有が認められ、軍人や官僚が土地から徴税することを認めていて、アッバース朝衰退の起因となった。
      アッバース朝時代には改宗した他民族のムスリムも同じムスリムとして扱われるようになったことから、改宗が徐々に進み、ウマイア朝時代に対比してムスリムが多数派となっていった。それと共に、宗教と社会をコーランによって解釈する学者(ウラマー)が多数現れた。これは政治と軍事を統括するカリフが当然ではあるが共同体内部の宗教や規律に直接関われなくなったからである。7代目カリフのマアムーンはヘレニズムの影響を受けてギリシャ文化の受け入れに貢献したが、同時に信仰を論理的に考えるムウタズィラ派を擁護して、それ以外の素朴な信仰に対して異端審問(ミフナ)を行った。論理的に言えばアッラーは永遠であるが、アッラーの言葉であるコーランはその被造物に過ぎない。しかし、ウラマー達は、預言者がコーランは永遠であるというならばそれはそうなのであり、被造物というのは書く紙や文字や朗誦する声に留まる、とする。コーランと論理のどちらを上位とするかの論争である。結果的にはウンマ達が主張を通すのである。しかしかといってウラマー達は僧侶階級というわけではなく、あくまで市井の学者である。(なお、ムウタズィラ派の考えはシーア派に引き継がれ、神の正義を伝えるイマームをムハンマドに次ぐ預言者として待望するようになる。)この時代には改宗信者たちもウラマーとなり、それまで政治的な意図から偽造されていたハディース(ムハンマドの言行録)の真偽を判別するための学問(ハーディース学)を発展させ、真正のハディーズ集をまとめた。これをまとめたブハーリが被征服民のペルシャ人であったことはイスラームが既にアラブ人の宗教を超えている事を示している。
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