2012.09.04

      講談社の興亡の世界史第6巻が小杉泰の「イスラーム帝国のジハード」になっている。

      マッカ(メッカ)というのはアレキサンダー大王もローマ帝国も支配の及ばないアラビア半島の紅海沿岸のヒジャーズ地方で、人口1万人程度の都市であった。そこには昔アブラハムが建てたとされるカアバ神殿があり、それは洪水で何度も壊れながらも再建されてきた。5世紀頃からマッカを支配していた部族がクライシュ族であり、ムハンマドはその中では名門でありながら、両親をなくしたため、貧しい叔父の家で育てられた。実直な商人として成長し年上の商人に見初められて結婚した。40歳でヒラー山において突然啓示を受けるまではその後の運命を予想させるようなものは何も無い。本人にとっても啓示の意味は不明であったが、妻が従兄弟に相談し、その人がたまたまキリスト教徒であったため、それは大天使が訪れたに違いない、ということになった。それとアブラハムの伝承が結びついてムハンマドは自分が預言者にされたということを自覚するのである。

      商業都市マッカにおいてはご都合主義的な多神教が支配していた。取引相手の神は何でも祭られた。政治的には自由で民主的な運営がなされていたが、それは力と富のある者の自由であり、性的放蕩や女性蔑視による女児殺害も公然と行われていた。(過激派ムスリムにとって現代のアメリカ合衆国はそのように見えているかもしれない。)このような部族の状況の中でムハンマドはごく親しい人達を手始めに布教を行っていた。ムハンマドの布教内容は唯一神の前の平等を説くものであったから、社会に不満を持つ若い人には支持されたが、クライシュ族の長は当然布教を許さなかった。ムハンマドの叔父は自らは信仰に同意しないものの保護だけはしてくれたのである。信者は高々200人程であった。彼等は当然迫害も受けた。ここでコーランについてであるが、ムハンマドは読み書きが出来たわけではない。神の啓示は押韻された口承文として発せられた。遊牧民というのは産品や建築によっては財産を形成できないから、家畜や天幕、装飾品などの移動可能なものが財産となる。美しい詩や言葉は持ち運び可能な貴重な財産とされた。詩人は敬意を払われていた。コーランはただならぬインパクトを持っていたが、マッカの支配層にとってそれが神の言葉であることは都合が悪かったから、ムハンマドは魔術師、詩人、などと呼ばれた。

      ムハンマドを保護していた叔父の死と妻の死によって、殺害される運命にあったムハンマドは622年に夜陰に紛れてマッカから逃亡してマディーナ(元々はヤスリブ)に入る。ここからマッカに巡礼に来た人がイスラームに入信したからである。マディーナにはハズラシュ族とアウス族が拮抗して争っていて、歯止めが効かなくなっていた。その上ユダヤ教徒が居て、やがて預言者がやってきてアラブ諸部族を滅ぼす、と言いはじめたので、ムハンマドがアラブ側の調停者として期待されたのである。ムハンマドがマディーナに迎えられたということはマッカのクライシュ族とマディーナとの戦闘状態を意味する。マディーナは外敵を得る事で統一され、それは同時にイスラームが戦闘集団として共同体(ウンマ)を形成する事を意味した。ユダヤ教徒も共同防衛に協力した。マッカの隊商を襲おうとして出発したムハンマドの部隊は行き違いとなり、バドルでマッカからの3倍の軍勢と対決するが、勝利する。これによってマディーナでの信頼を勝ち得た。コーランは戦闘状況に応じて時々刻々とムハンマドの口から神託として発せられる。勝利に伴えば神への信頼は確信に変わっただろう。マッカからの復讐戦はウフド山で行われ、今度はマディーナ側の統率不備で敗北し、ムハンマドも負傷した。

      3回目はマッカからの部族連合軍を塹壕作戦によって迎え撃って撃退した。これらの戦闘の間にユダヤ教徒はあまり積極的でなかったため放遂された。このような戦闘を通して育まれたもの、あるいはこれらの戦闘を可能にしたものが、イスラームの死生観である。アラブ人達にとって死は骨になることを意味しただけであるが、イスラームでは死の悲しみを大きな宇宙観で包み込むことによって死に意味を与えている。戦闘もアラブ人にとっては現世的な目的であったが、イスラームにおいてはアッラーの為であった。著者はムハンマドによって(しかも戦闘の現場で発生する押韻されたコーランによって)人々の心に成し遂げられたこのような変化を「魂の錬金術」と説明している。

      さて、こうしてみると一神教というのはユダヤ民族の歴史の中で形成され、キリスト教としてヨーロッパ世界で広まり、同時にムハンマドの神託経験を合理化するためのロジックとして使われた、ということになる。これが一神教としてイスラームの中で純化されていくのは周囲の多神教の部族との非妥協的な闘いにおいて、であった。およそ宗教の創始者というのは神託経験を持つが、それは脳細胞の異様な興奮であり、どう解釈されるかが問題である。そういう意味で、そのときに身近にあった諸観念に大きな影響を受け、そのときの社会情勢の中で生き残るために自らを社会的な存在として形成せざるを得ない。こうして生じた観念が宗教として生き残る。こういう風に考えると、一神教を形成するのにもっとも大きな影響を与えたのは沙漠の中での都市に住まう商人達の部族間闘争の厳しさ、というものではないだろうか?非妥協的な闘争に勝つための強さがイスラームの中にあったからこそ生き残ったということである。そういう「機能的」意味で、スパルタの社会とか、日本では東国武士の倫理観とか、に近いものがある。内部を禁欲的に鍛え上げてそこからのエネルギーを外敵に向ける、という機能である。勿論それらとイスラームとはまるで規模も生命力も違う。マディーナ時代にイスラーム共同体(ウンマ)が形成される。その原理は部族を解体し、家族に基礎を置き、共同体の団結とその存続性を目的とした合理的なものであった。団結と市場の現実に即した礼拝の細かな規定、福祉としての喜捨、貧困者の気持を汲み取る為の断食、社会的反逆防止としての酒と賭けと偶像崇拝の禁止、戦死者の寡婦と孤児救済のための一夫四妻までの許可。一切の具象を想定し得ない抽象的存在として神を置いた事で得られた徹底した合理主義がそこには見られる。勿論その時代に合わせたこれらの規律が後の世にそのまま固定されてしまったというのは不幸であったが。
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