2014.02.06

      オドン・ヴァレの「一神教の誕生」(創元社)は神の再発見双書の2巻目である。世界の宗教を醒めた眼で比較してみようというシリーズの一つである。北アフリカ−メソポタミア−ペルシャ−インドを含む地帯は農耕文明が生まれた土地である。都市が生まれ、周辺には砂漠がある。社会の基本は部族であり、部族はそれぞれの神を信じている。素朴な多神教であり、その点ではアジアと変わることはない。自然がこの上なく単純であることによって、一神教が生まれた、という説は今日では否定されている。何よりもインドネシアの例が説明できない。都市を束ねる王政が生まれることで、様々な神を信じる多くの都市を支配するために、或いは多くの神の並列がそれぞれ供物を要求する状況を打開するために、敢えて一つの神に統一しようとした最初の試みは、BC14世紀エジプトのアクエンアテン王である。しかし、これは失敗した。

      一神教への道は結局少数派の都市からの逃亡という形で始まった。ウルという都市からアブラハムが神託を受けて約束の都市パレスチナに向う。その子孫達は半遊牧民であったが、パレスチナの攻略に成功するとダビデ王がそこに都市を建設する。BC950年頃その子ソロモン王がパレスチナ神殿を建設して、それを唯一の聖地と定めたことは周囲の都市の反発を生む。都市には必ず神殿があったからである。通例、王の神は多くの都市それぞれの神と並列し、そのリーダーという位置づけをすることで妥協していたのである。イスラエルという言葉自身に戦争という意味が入っていることからも判るように、周辺の都市に神を強制するために武力統一を行ったのである。何故ここまで頑なであったのかについては不明である。他の都市に他の神が祭られる限りいずれはイスラエルを征服しようとする、という強迫観念に捉われていたのだろうか?ともあれ、イスラエルはソロモン王の時代に最盛期を迎える。周囲の国々やエジプトからも認められ、アラブの習慣に従って婚姻による外交が行われた。しかしこれは王国に多神を齎すことになって、王国が分裂する。BC597年には新バビロニアによって神殿が破壊され、バビロンに捕囚される。ユダヤ人と呼ばれるようになった。この捕囚時代にユダヤ人はバビロンの文化を吸収し自らの宗教を確立していく。週7日制、天地創造、大洪水、割礼、シナゴーグ(神殿の代替)、、それらの習慣だけでなく、守るべき領土を失った神は、実質的にはどうあれ、ユダヤ人だけの神ではなくなったのである。

      BC539年古代ペルシャによって解放されたユダヤ人はゾロアスター教に触れてその影響も受ける。善悪の神は神と悪魔という形に取り入れられた。天国とエデンの園もそうである。旧約聖書の多くがこの時代に整備された。ペルシャ王がこの地域のユダヤ人を統一して政治的安定を図ろうとしたためである。BC332年にアレクサンドロス大王によりペルシャが破れ、ヘレニズム文化が席捲すると、ユダヤ人はしばしば闘いを挑むことになる。その中で死者の復活という考え方が出てくるし、ユダヤ教が非妥協的になってくる。BC66年にローマに調停を依頼するが、それは誤っていた。以後ローマの統治下に入って過酷な税に苦しむ。反乱を試みたユダヤ人が最終的にエルサレムを追われたのはAC135年である。

      さて、どんな宗教でもそうであるが、豊かになると規律が緩む。イスラエルにおいても、富裕層や神官は律法を守ってはいなかった。そういう事態に何人もの預言者が出現していた。彼等は支配層を糾弾したが、民衆に守られ律法として正しい事を述べていたために地位を失うことはなかった。イエスが登場した頃は、ユダヤ人はローマに統治されながらも、宗教的には神官が権威を保っていた。この複雑な状況の中で預言者イエスが何故処刑されたか、本当のところは判らない。マタイ受難書によれば、ローマから派遣された総督はイエスに好意的であったが神官により群集が扇動された、とされるが、これはローマ支配下でキリスト教が生き延びる為の記述に過ぎない。実際のところイエスが何を主張していたのかは彼の布教が例え話による口述であったために今となっては良く判らない。ただ、ヴァレ氏は少なくともそれは新しい形での「愛」であったという。ユダヤ教で性愛が子孫を残すために讃えられたのに対して、イエスの愛は禁欲的であり、それは当時の社会が黙示録的(終末論的)であったことと、ヘレニズム文化の影響によると考えられる。福音書には会食が頻繁に出てくる。これは仲間と食事を共にすることが教育の方法だったからである。イエスが処刑されたことで、信者たちは食事を共にしイエスを思うと共に兄弟愛を誓い合い、イエスの復活を吹聴し、やがてイエスが自らを生贄として差し出すことで人類が原罪から救われた、という考えを生み出す。元々多言語に長けていたユダヤ人であるから、教団は教えをギリシャ語に翻訳して広めていく。信者の1人パウロはローマ人であったので、布教活動がかなり自由に行えたということもあった。

      ローマ帝国下での迫害は311年、ガレリウスによる迫害中止令で終わった。公的な宗教となったキリスト教はその後政治的な整備が進められる。皇帝の指示により何回も宗教会議が開かれ、帝国内でのキリスト教分派が統一されていく。特に、イエスやマリアの位置づけには論争が続き、最後は496年、フランク王クローヴィスの戦略的改宗によって、325年ニカイア会議で採択された三位一体説に統一された。結局は一神教のユダヤ教と距離を取り、ある程度伝統的な多神教に妥協することでローマ帝国と手を組んだのである。

      イスラム教についてはこの本ではあまり丁寧に記述していないので別な本を読むことにした。
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