2015.12.28

大分前に読み始めて放置していた大貫隆「イエスという経験」(岩波現代文庫)をやっとこさ読み終えた。1人の古代人としてのイエスの言行や思想を残された記録から批判的に抽出している。そういう試みは沢山あるし、僕にはどれがどうとか言うだけの教養もないので難儀したのであるが、まあもっともらしいかなあ、と思う。

        当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあって限定的な宗教的自由のみを与えられていた。その中で神官達は戒律の網の目を張り巡らせて民族の救済を信じていたのであるが、イエスが信じたものは、「神の国は今正にこの世に出現しつつある、悪魔と神は今闘っている。」ということである。現代の我々から見ていかに荒唐無稽な幻想であるとしても、古代人としてそれは充分あり得る事であった。彼は弟子を率いて(制止されるのも聞かず)古来の言い伝えに従ってロバに乗ってエルサレムに乗り込み、神殿を「冒涜」するような発言を行った。3日後に神殿が神によって破壊再生されるという。しかし、これは実現しなかった。彼の苦悩は大きく、その後逮捕され、尋問されても終始無言であった。自らの苦悩、つまり神が何も為さなかったこと、に比べれば自らの行為がどう思われようと自らの身体がどう裁かれようと、どうでも良かったのである。彼は最も残虐な方法で殺された。

      弟子達は散り散りになり、イエスの刑死という事実をどう受け止めるべきかに苦悩した。やがて、イエスは人間の罪を背負って生贄となったのだ、という解釈が編み出された。死からの復活も信じられた。旧約聖書のいくつかの言葉もその根拠として使われた。大貫氏の要約:「生の内側に収まらない深刻な問いを抱えてしまった人間が、それまで自分がその中で育ち、教育されてきた民族の古来の伝承に立ち返り、答えを求めて、それを繰り返し読み直す。問う者が答えを発見したと思う瞬間は、その伝承に対する全く新たな読解が成立した瞬間である。その瞬間、世界全体が変貌する。自己と世界についての新しい了解が成立する。イエスの刑死は神が私達の罪をイエスに贖わせる為の死であり、神が当初から計画していたのだ、という考え方(神義論)に行き着く。このような逆転の発想は、ユダヤ人らしい。バビロン捕囚の解釈においてもそうであった。(ユダヤ民族だけでなく、全世界を支配し計画している神を信じる事で自らを救うためであり、本格的な一神教はそこから生まれたのである。)」

      イエスの死から過去に遡って、記憶の中にあった彼の言行が旧約聖書のさまざまな言葉によって解釈しなおされていき、マルコ(AC65-80年)、ルカ(AC60-80年)、マタイ(AC85年以前)、ヨハネ(AC100年以前)という福音書が成立した。時間順に書くと1.先在(生誕前); 2.受肉; 3.誕生; 4.神の国の宣教; 5.刑死; 6.冥府下り; 7.復活; 8.顕現; 9.昇天; 10.精霊の働きかけ(現在); 11.再臨と終末(神の国の実現)。こうしてイエスの思想(神の国)はイエスの信仰1.〜11.の一部分として吸収されてしまった。

      とりわけ弟子達の間ではイエスの死に方については問題とされなかった。それはイエスの死は一つの贖罪死に過ぎず、その限りでユダヤ教の枠内に留まる。しかし、元々パリサイ派であり、イエスを知らなかったパウロにとってはイエスの全生涯よりも5.の十字架を背負って刑死したことが重要な意味を持っていた。それは、モーセの律法からは「呪われた」者の死であり、その律法の外に永久に捨てられたことを意味したからである。律法によって救われない人々を受け入れたことでイエスはユダヤ教から追放されたのである。

      弟子達が編み上げた原始キリスト教の枠組み1.〜11.の中での「神の国」は未来であるが、イエス自身の信じた「神の国」は現在であった。というよりも、そこでは時間性が失われている。過去は未来によって意味を与えられて現在に復活している。大貫氏はこれを「全時的今」と名づけている。そういう時間構造を持つ、というか通例の過去→現在→未来という時間構造を持たない思想はその後も生き続けている。ヨハネの福音書、ヘブル人への手紙、アウグスティヌスの「告白」、W.ベンヤミン、である。これに対して、モーセの五書の歴史観、黙示思想、ストア哲学、ルカの福音書と使徒行伝の示す歴史観、これらの救済史観は過去から現在を介して未来へと繋がる壮大な規模の神義論(現在は不幸であってもそれは神の計画の一部であり、契約による義務を果たしていれば最後には救われる)である。イエスはあらゆる神議論から自由であったが故に、ユダヤ教の選民思想から排除されていた病人や障害者の救済を行ったのである。迫害され続けた民族の恨みと絶望と願望と正当化から生まれた一神教の偏狭性を指摘し、それを自らの行為によって克服したのがイエスである。

      最後に大貫氏が、イエスの言動の現代的意義について語る。(1)神は細部に現れる。「神の国」は何も宇宙規模の話ではないし政治の問題でもない。その時その場で目の前に居合わせた特定の個人の求めに集中すること、つまり「隣人愛」にこそ神に出会う契機がある。(2)「いのち」のかけがえのなさ。神は全ての人間の「いのち」を無条件で欲している。(3)世界はそのままの姿で神の愛の中にある。しかし、それは人の主体的な愛の行為へと転じられなくてはならない。人がエゴイズムによってそれに逆らうことに対しては審判がある。(4)イエスは神の名を持ち出してその権威に訴えはしなかった。全て、イエス自身の責任において語っている。

      ということで、この本を大貫氏が書いたのは、ブッシュ大統領が2003年に「神の名において」(十字軍として)イラクに侵攻したことに対するイエスを代弁しての反論のためであった。復讐ほどイエスの思想に反するものはない。
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