2003.11.01

      茂木健一郎の「意識とは何か」(ちくま新書)を読んだ。ソニーのシニアリサーチャーである。内容は所謂クオリアの話である。意識とは何かについての意識であるが、その意識の質感のことであり、個人個人で異なるが、確かにあれこれの質感についてわれわれは区別する事が出来るので、存在しているといえるであろう。しかしそれがどのような仕組みで可能なのか、ということは皆目判らない。そもそも自然科学は再現性や客観性を指標としてきたから、意識の問題は避けてきたといえる。日常的にはわれわれは意識の質感が確かにあるというようなことはあまり気にしていない。むしろそれを避けて質感というものを形式的に物事の認識と他人とのコミュニケーションの素材として使っている。かれの中間的な結論では、意識の質感というのは、絶えず生成し、変化していく脳内神経細胞の結合状態を現実に繋ぎ止める為に同一性を持ち込む必要性から質感が生じるのである、と考えている。私が私であり続けるということはむしろ社会的な要請(適応)である。そのためには私の意識内容の首尾一貫性を何とか維持しなくてはならない。本来は生成し、移り行く意識内容であるのに、それに名前をつけたり、反省したりして、今の意識は過去の意識から連続しているということを確認しなくてはならない。当然記憶作用が援用されるわけであるが、記憶で想起されるものを現在と同一視していくということがすなわち意識の質感となる。

      基本的な作用は子供時代に形成されていく。母親の慈悲に頼りきっている存在であるから、母親の態度の変化は幼児にとって大事件であり、その母親を意識するということが質感形成の大きな動機である。何かの理由で母親が不親切であれば、母親の存在は意識の中で過去の母親と繋いでおかなくてはならない。そのためには母親を見るだけでその意識の質感を維持するということが必要である。やがていろいろな他人との出会いを経験するにつれて、さまざまな質感が維持されるようになり、他人の質感を想像できるようになる。謂わば認識の首尾一貫性というか、定常性である。これがないとカテゴリーも形成されない。何かの振りをする、何とかごっこの遊びはこうして生まれる。意識は意識的に選択できるものとなる。これが自由である。

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