帰りの新幹線で梅津時比古の「セロ弾きのゴーシュの音楽論」を読んだ。

      おんぼろで穴の開いたセロ、テクニックのないセロ弾きのゴーシュが夜毎訪れる動物達に教えられて、最後に感動的なアンコールを聴かせるという話が原作であるが、宮沢賢治が示した演奏家の姿は明らかに近代思想の限界に対する一つの道筋を示している。音楽と楽器の切り離し、音楽性とテクニックの切り離し、果ては精神と身体の切り離し、、これらは近代思想の特徴であり、誰しもが自然にそう考えてしまう、という強制力がある。つまりはとりあえず切り離した上でそれらの密接な関連を論じる、ということであり、そもそもこの音楽論自身がそういう言語の網の目に絡め取られざるを得ない。しかし宮沢賢治はそこから一歩踏み出している。ゴーシュは指揮者にさんざん貶されてしょげ返るが、決して正統的な練習をしない。めったやたらと弾きまくる。そして夜毎訪れる動物達に対応している内に自分では気づかないで楽器の問題やテクニックの問題を身体で理解する。本当のところは語られる事が無い。これが大切な事である。ゴーシュは自分の演奏が人を感動させたということが理解できないままである。意識は確かにプロセスとして必要かもしれないが、演奏という行為の中では殆ど意味の無いものになる。そこでは「身」に付いたものしか出てこないし、意識はその邪魔をするだけである。

       しかし、よく反省してみれば、こういうことは真面目な演奏家であればだれでも知っている事である。近代音楽の教育体系は確かに効率的な外観をしているし、それはある意味で空疎なものであるし、平均率も人工的な仮想であって、演奏の現場では演奏家や調律師が如何に平均率から外すかということに腐心している。楽器に導かれて演奏が変わってしまうということも皆知っている。にも拘らず、近代音楽の教育体系は厳として存在し、小学校・中学校で教わるということである。楽譜もそれに沿って作られ、プロの演奏家を目指す人たちだけが楽譜どおりの演奏では音楽にならないことを教わるのである。更にはいくら表現しても表現し尽せないものが残るという事を知る。

      音楽だって、スポーツだって、学問だって、何であろうと、体系というのは一つの手続きに過ぎない。それに沿って動作を繰り返す事によって「身」に付くということに意味がある。それではそこのところを記述することが出来るかというと、それは出来ない。神秘でもないし、反近代とかいう事でもない。誰でも知っている事である。

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