2016.02.18

      意識の統合情報理論の論文を読んでいる。2004年から2012年まで、Tononiの論文。アイデア自身は変わらないが、表現が整理されてきた感じである。ネットワーク系内部における要素間の因果関係に注目する。現在の状態を情報と見るとき、それがどういう意味での情報なのか?その状態に至っているということが1つの記号であり、それの意味は過去のネットワークの状態である。記号がなければ、それは判らないわけだから、判らない過去を記号がどれくらい限定できるか、が定量的な意味での情報であり、その過去の内容が定性的な意味での情報である。要素間の結合則が判っていれば、それは計算できるが、内容は個別的である。要素間の結合則自身が過去の来歴によって作られているし、その「客観的な」意味は少なくともその集合体の外部に由来(学習履歴)を持っている。定量的な側面は内部にしか依存していない。この内部情報はどんな集合体であろうと定義できる。

      意識を想定するためには、もう1つ、意識が1個の統一体としてあることに対応する必要がある。それが統合情報量である。やや人為的な定義であるが、集合体を人為的に分割したときの内部情報量を考えて、それが最大になるように分割する。それと元の内部情報量との差異が統合情報量である。例えば、独立した2つの集合体の単なる和であるときは、それらの間で分割しても内部情報量が変わらないから、統合情報量=0であることが判る。集合体に要素を付け加えて大きくしたとき、統合情報量が増加しなければ、それを1つの複合体と定義する。複合体の内部には複合体が含まれても構わないが、それは元の複合体よりも統合情報量が大きい(か同じ)。こうして、統合情報量が一番大きな複合体が見つかる。これが意識の座である。強制的に分割すると内部情報量が下がるから、複合体内部の全ての要素が何らかの因果関係で繋がっており、1つの意識に統合されている。他方で、全体が因果関係で繋がっていても、そこに多様性が無く、斉一性が見られるときには、内部情報量そのものが小さくなることから、統合情報量も小さくなる。

      ところで、因果関係を力学系と考えてしまうと、過去と現在は1:1で繋がっており、時間を逆行出来て、内部情報量が極めて大きいと考えるかもしれない。しかし、神経系では2値しか取れず、しかもAND回路やOR回路が普通であるから、過去に遡るときに一意的には辿れない。内部情報量は過去に遡れば遡るほど失われる。例えば、AからBに強い正の結合があったとして、現在いずれも1であるとすれば、1コマ前の状態として考えられるのは AB=10 または AB=11 である。

      クオリアについて。複合体の状態を固定して、因果関係を少しづつ入れていくと、過去の状態の期待値が少しづつ変わっていく、それぞれの期待値は状態の全空間をベクトルで結んだ形状になる。ベクトルの長さは情報量の変化であり、全ての因果関係が入ったときに最大の内的情報量になる。BIPとなる因果関係に至るルートは特別な意味を持つ。それはBIPで切断されたそれぞれの部分内部の情報である。その上に立ち上がるベクトルの集合はそれら部分間の因果関係による情報である。このベクトル形状全体がクオリアに対応する。それは現在の状態にも依存するし、過去に蓄積された因果関係の全てにも依存する。異なる系においても、この形状全体が同じであれば同じクオリアであるが、それは殆ど実現しないだろう。ということで、このクオリアによって意味論まで展開している。

      情報(information)という概念は、吉田民人とTononiとでは全く異なる。吉田民人では、物質・エネルギーの時空パターン一般として定義され、生物の登場(主体の登場)によって、一部の情報が記号と意味に分化する。つまり、物質・エネルギーの単なるパターンは主体の作用によって変換される。その変換された物質・エネルギー乃至はパターン(情報)が「意味」である。変換された内容は認知も評価も指令も含む。

      Tononiの場合、そしてこちらの方が世間の常識であるが、情報の実体が物質・エネルギーのパターンであることは同じであるが、情報が情報として際立つためには、それを受け取ったときにそれまで不明であった何かが明らかになる、ということが必要とされる。それが「意味」である。ということは、吉田用語で言えば、この情報は記号のことである。ただ、吉田用語における「意味」は主体の変化なり行為という未来の状態を意味するが、Tononiの場合、むしろ、その情報=記号によって齎された過去の状態を意味する。勿論、過去の情報とはいえ、現在に繋がり、未来に繋がるからこそ、意味がある。ただ、Tononiの「意味」はやはり吉田流で言えば、「認知」に限定されている。

      さて、受け取った記号が何かを明らかにするためには、メカニズムが必要である。つまり、情報を受け取った主体が想定しているメカニズムであり、主体が事前に可能性として想定していた状態によって、何が齎されるか、という因果関係のモデル(主体内のプログラム)である。主体は、記号によって、その齎された状態を知る。「記号=特定の状態」を齎すような過去の状態の候補を挙げておけば、過去はそれらの有限の候補状態であったことが推定できる(Bayse推定)。今まで何も判らなかったとすれば、これは状態が限定されたことになるからエントロピーが下がっている。これが情報量が正であるということの定義である。その情報(記号)の意味は、それら有限の候補状態である。以上の情報量の定義は一般的に通用するものである。

      Tononiの情報量は逆に情報を発信する側を想定している。いや、発信する必要はない。ここで問題にしているのは単に現在の状態(現在のパターン)である。単に状態(パターン)がある、ということが記号であり、その意味は内的である。そういう定義の仕方(内的情報)をしないと、意識の有無が扱えない。感覚も運動も遮断された脳内を問題にするからである。それでは、Tononiの情報の意味はどう定義するのか?メカニズムとして可能なのは内部のメカニズムでしかない。脳の内部では、状態が遷移している。そのメカニズム、すなわち、ニューロン同士の結合によって、次々と全体としての状態が遷移していくメカニズムである。現在のニューロン系全体の状態から、逆に過去のニューロン系全体が限定される。どの程度まで限定されるのか、というのが「内部情報量」である。ニューロン同士の結合が無く、外界とも結合が無ければ、過去と現在は同じなので、情報量=2のニューロン数乗となる。結合していれば、その結合元(発信側ニューロン)の過去の状態が限定されることになる。これらの計算の場合、ノイズをモデルに取り込むかどうか、で計算結果は変わって来るが、ともかく、こうして内部情報量が定義される。

      Tononiは、内部情報量が大きいだけでは意識的とは言えないと考えた。これは上述の場合に明らかであろう。カメラのCCDを構成する個々の光センサーはお互いに独立しているから、意識を持たないことは自明である。ニューロン同士の結合が役割を果たさなくてはならないのである。そこで、情報の統合ということを考える。これは、ニューロン同士の結合を仮想的に切断して、その結合をノイズに置き換えたとき、内部情報量がどれくらい減るか、という量である。具体的には、(ここはTononiの発明であるが数学的な表現の1つに過ぎないだろう。)必ず系を2つに分けるのだが、その分け方は内部情報量が一番減らないような分け方とする。こうして、分けたそれぞれの内部情報量の和から見て、分ける前の全体の内部情報量がどれくらい大きいか?という量が統合情報量である。系に枝葉をちょっと追加すると、その接合面で分けることが出来てしまうから、全体としての統合情報量が激減する。もしも枝葉ではなくて、もっと密接に結合するような部分を追加すれば、統合情報量が増えるかもしれない。そういうときにはその全体を1つの統合された「複合体」として定義する。つまり、複合体はそれがより大きな統合情報量を持つ複合体に含まれてしまえば、もはや複合体とは呼ばないことにする。こうして、境界がキチンと定義された複合体が意識の座である。(逆に言えば、この複合体を論理的に定義するために、統合情報量の数学的定義を持ち込んだと思われる。)その意識の程度は統合情報量で定義されることになる。複雑に全体が絡み合ったネットワークであるが、その複雑性の具体的言語的記述は難しい。小脳と大脳皮質は対照的である。ニューロンの数は小脳の方が多いが、小脳は独立したユニットの集合に過ぎないから意識を持たない。小脳は処理速度を優先したシステムである。

      Tononiはそこでの状態とメカニズムの全体がその複合体の「体験」であるという。現在の状態において、現存するニューロン同士の結合(因果関係、メカニズム)を様々に切断したり追加したりすると、現在の状態から関連する多数の状態が定義(確率的に推定)できる。それらの状態間の遷移はニューロン同士の結合に対応している(結合を追加すると別の状態に移動する)から、全体として1つの統合された「意味」であると解釈できる。(対応させる)。この状態全体からなるパターンが「体験」(クオリア)である。体験は現在の状態(ニューロン集団全体の状態)だけでなく、現在のニューロン同士の結合状態(因果関係)にも依存する。そして、後者は遺伝と発生と学習による大脳の全履歴を反映していると同時に、外界の因果関係を模写するような適応をしている筈でもある。

      ところで、こういった情報の統合が生じるには0.2秒程度以上の時間が必要である。つまり、それ以下の応答に対しては意識は何の役割も持たない。統合することで果たす役割は只管反省でしかない。つまり、自らのニューロンの結合状態を変化させるように、大脳皮質内外の脳に働きかけること。その反省の為には当然身体の外にある環境も利用する。他者と言語はそのための道具である。そして、それも含めて全ては物理・化学的因果関係の網の目の中である。

      再び吉田民人の用語に立ち返れば、その個体内(脳内)プログラムというのは、つまりこのニューロン同士の結合(因果関係、メカニズム)のことである。人間は高度な意識(情報の統合)能力により、外界にある他者と言語を意識に取り込み、体験を対自化することで、自らのプログラムの改変を誘導する存在である。

      自由意志があるかどうか?全てが物理・化学的因果関係の網の目にある中で、意識は自由意志という幻想を齎すが、その幻想はどの因果関係に注目するかである。何を以って自由と見なすかには2つの極限がある。ひとつは環境を束縛と見なし、大脳皮質の内部に構成されたメカニズムを自由とする立場、これは「勝手気まま」型である。もうひとつは逆に、大脳皮質内部のメカニズムを束縛とみなし、むしろ環境からの情報を自由の源泉とする立場、これは「克己・宗教」型である。文明を築いてきた自由はどちらかというと後者であるが、それはしばしば人為的な悲劇も齎してきた。

      Integrated information theory of consciousness: an updated account, G.tononi, Archives Italienne de Biologie, 150:290-326(2012)
 内的情報の定義が微妙に変化している。
今までは、

系 X 全体の現在の状態 x1 が X の過去を限定する程度、

と定義されていたのだが、ここでは、

系 X の部分 S の現在の状態 s1 が X の過去及び未来を限定する程度、

とされている。それぞれが Effective Information Past & Future であり、それらの内小さいほうを Cause-Effect Information(CEI) と定義している。おそらく、この定義の拡張は実験可能性への妥協であろう。大脳皮質の全体を測定することは不可能であり、しかも、通常は刺激を与えて、その後の脳波の推移を見守るのであるから、どちらかというと未来の内的情報が観測されることになるからである。

      統合情報の定義は同じ部分を含むがこれも拡張されているようである。系を分割してその分割面にノイズを入れる。その上でCEIを計算し、全体系としてのCEIとの差異を統合情報量とする。この分割は統合情報量を最小にするように選ぶ。しかし、もう1つの定義が追加された。つまり、系を分割するのではなく、メカニズムを分割する。ちょっとややこしそう!

      それはそうと、この理論は確かに意識という現象を客観的に把握するための網掛けのようなものだと思う。それはそれで医学的に大変意味のあることなのだが、我々が経験している意識現象はもう少し限定されたもののような気がする。フロイトが言うところの前意識と意識の全体が、夢も含めて、ここでの「意識」なんだろうと思う。つまり、我々の経験する意識にはやはり「注意」という働きが欠かせないのではないだろうか?

      元に戻ろう。メカニズムを分割する、というのは、ある意味で系を分割する場合を含んでいる。系を分割すればメカニズムが分割されざるを得ないからである。ただ、違うのは分割された系を繋ぐメカニズムがノイズに置き換えられることである。系を分割することなく、メカニズムだけを分割し、それぞれのメカニズムセット毎に内的情報量を計算し、それらの積が元々の全メカニズムによる内的情報量以下であれば、統合情報がある、ということになる。単純な例として、ニューロン A と B がお互いに相手をコピーしあうという2つのメカニズムで結合している場合を考える。(A,B)=(0,0),(0,1),(1,0),(1,1) の直近の過去は (0,0),(1,0),(0,1),(1,1) である。(A,B)として現在が指定されれば、過去は1つに決まるから、情報量は 4 (2bit)。片方が指定されていれば、過去は2つの内いずれかに決まるから、情報量は 2 (1bit)。ここで、A → B のメカニズムだけがある場合は、(A,B) が指定されると、2 。A が指定されると、 1 (0bit) 、Bが指定されると、2 である。B → A の場合は、逆になるだけである。これら両方の積を取れば、両方のメカニズムを考えたときの情報量と一致することが判るから、この場合、統合情報量は 0 となる。この定義を取り入れなければ、A と B の分割はノイズだけを残すことになり、内的情報量を失うから、統合情報量が 1bit 乃至 2bit あることになる。つまり、このように分割方法をメカニズムの分割にまで拡張したのは、見かけ上全てのニューロンが繋がっているように見えても、実は独立なメカニズム系の寄せ集めに過ぎない場合を排除する為であろう。(p.301 Exclusion の手前まで)

      「統合」された活動状態というのは、Tononiがそう定義せざるを得なかったように、統合される側、つまり統合前の分割された側からしか定義できない。定義により、統合は内的情報量を増加させる、つまりそこに至る経緯とその先に来る結果がより明確に限定される。

      大脳皮質という組織の内部での情報の「統合」というのは、統合される側の部分的情報に対する「保留」である。何かが結論づけられて運動神経系への指示となる、あるいは単にそのようなものとして認知され、評価される、ということへの「保留」であり、再考である。自然や社会関係の中で生きていくという事、つまり環境への適応というのは、それまで自らの脳の中に蓄積されてきたプログラムの指令結果が必ずしも適合していないことを脳内の他のプログラムが予想して、ひとまずはそれを保留する、という事であり、それこそが「統合」と呼ぶべき機能である。このようなプログラム同士の競合や妥協が至るところで起こっている。ある程度の時間をかけてでも最適化すべき環境があるからこそ、この「情報統合」に存在意味がある。学習された結果はまたプログラムとして蓄積され、次の情報統合まで出番を待つ。これら全ての情報統合活動が意識という現象の必要条件であることは間違いないであろうが、それが意識の充分条件だとは思われない。

      意識には明らかに程度がある。朝、目覚めてぼんやりしているとき、何か明るさだけを感じているのも意識であり、それが明瞭さを増して、右側から来る光であること、更には窓を経由した陽光であること、更には窓にカーテンがあって、、、と無数の階梯があり、というのも全て意識であり、それぞれが別々のニューロンの状態である。覚醒のプロセスにおいて、少しづつニューロン同士の結合が回復していく。回復する度に、新たなプログラムが起動して、それまでの結論に反駁し、内的情報量が増加していく。それまで陰に想定されていた多数の可能性の中から選別された可能性だけが浮上する。可能性としてあった無数の状態、例えば、光は部屋の蛍光灯の灯りであったかもしれないし、窓は左側にあったかもしれないし、外で火山が爆発したのかもしれないし、、、こういった全ての可能性は、記憶に由来する。ただ、例えば何か朝早く起きなければならないという記憶が残っていれば、最終的にカーテンのある右側の窓からの陽光を意識するよりも前に、その記憶されたプログラムが作動して、ぼんやりとした光によって起き上がるであろう。そのときの朝であるという意識は、順調に目覚めた時の朝であるという意識とは別のものである。そもそも最初から朝であるという意識すらないまま起きているのである。しかし、後でその時の記憶を辿れば、やはり右側の窓のカーテン越しにあった陽光を思い出すであろう。意識されない脳内の情報統合と意識される情報統合を区別する指標は何だろうか?

      自由意志というのは、本来は、情報の統合という脳内の事象そのものが単に記憶の断片として意識されたものである。物理・化学法則に従うという意味では必然でありながらも、個体の来歴という意味では唯一無二の意識である。あれもこれも可能であったのだが、これが選択された、という意識。しかし、更なる反省作用によって、その統合体験は言語的に因果として解釈され、自由という解釈が剥奪される場合もある。要するに、自由意志があるかないかという問いには本来何の意味もない。その人の思想信条に付随する理屈でしかない。

      Tononi の議論はまだ続くが、数学的枠組みをこれ以上完成させても、あまり意味はないように思える。
"Attenntion and consciousness: two distinct brain processes", Christof Koch and Naotsugu Tsuchiya, TRENDS in Cognitive Sciences Vol.11(1) 16-22(2006).

      意識は通常注意を伴うと考えられているが、必ずしもそうでないという心理学的な証拠がある。ここでいう「注意」は、受動的注意、つまり感覚刺激そのものによって生じる注意ではなく、能動的注意、つまり意思的な注意である。
      脳の活動は4つに区分される。

1.注意も意識も無い活動:
    残像、120msec以下での視覚、ゾンビ行動(無意識的行為)
    注意も意識も無い状況で与えられた刺激に応答することができる。

2.注意はあるが意識の無い活動:
    条件付け、適応、視覚的探索、思考
    文献を見ないとよく判らない。予め注意しておけば、意識されないように巧妙に隠された刺激が見つかる、という例らしい。

3.注意が無くて意識がある活動:
    偶発的な探索、アイコン記憶、状況認知(gist)、二重作業における動物や性の検出、部分的な意識内容の記述
    これも文献を読まないと内容が判らない。30msec程度の写真の提示でも、その写真の状況認知が出来る。その程度の時間では注意機能は起動していない筈である。感覚入力によって、意識機能がおそらく1秒程度かけて状況把握をしているのである。二重作業において、注意を集中していない領域に提示された刺激は見えていないのであるが、動物かどうか、とか性別がどうか、とかが判別できる。つまり情報の統合が注意無しに行われている。

4.注意も意識もある活動:
 working memory、予期しない新規な刺激の検出と区別、完全な意識内容の記述(言語的)


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