2002.02.11

      「意識と脳」山本健一著(サイエンス社)はなかなか優れた解説書である。

      前半が正常な意識のメカニズムと題して、脳波の意味、睡眠と夢、という現象から解説を始めて、それらの生理学的メカニズムを、現在判っている限りではあるが、明瞭に解説している。意識という現象を、覚醒、快感、注意といった機能の側面から語っているが、これは生理学的なアプローチからすれば当然の事である。意識の内容そのものは個体史に依存するからである。

      後半には異常な意識のメカニズムとして、精神障害を意識障害として捉えて解説している。これは精神科医としての著者の経験と知見を生理学的に体系化しようとしたものである。神経症、ヒステリー、心身症、躁鬱病、分裂症等の病名は症状からきており、生理学的は対応物がそれぞれにある訳ではない。病名ではなく、意識混濁、不安、不眠、譫妄、幻覚、錯乱、操、鬱、と言ったむしろ意識の機能障害として整理すると薬物による治療法に直接繋がる。その根拠となるのは、モノアミン系神経伝達物質の作用である。基本的に覚醒水準を支配するのはアセチルコリンであり、それと連動して意識の機能を支配するのが、緊張を支配するノルアドレナリン、意欲を支配するドーパミン、気分を支配するセロトニン、という風に単純化出来る。これらの中枢は脳幹部分(古い脳)であり、動物が生きていくための基本である。人間は社会的ストレスの為に脳幹部の機能が過剰に使われて可塑的な変化を来し、意識の機能がバランスを失いやすい。これらの意識機能障害に対比して痴呆や記憶障害、失語、失認、失行等は大脳の障害として区別される。これらには薬物治療は直接的には全く効果が無いが、精神的活動を支援することによって間接的に効果を期待する事は出来る。また逆に意識の機能障害が長期にわたると大脳を巻き込んでいくことになる。

      意識そのものは脳の活動の一部であって、意識可能な部分として前意識、意識不可能な部分として無意識が定義されている。これらの内容(心)を論じようとすると、過去の活動からの学習結果が支配的であるために、生理学的アプローチは殆ど無力となる。直前の過去を未来に向けて整理した結果が記憶であるが、これを再整理するという治療が精神分析である。いわば個人の価値観の再編成であるから、人の本来持っている社会性を利用することになる。フロイト以来無意識についての仮説が引き継がれてきた訳であるが、その内容自身は必ずしも明確な科学的根拠や普遍性があるとは言えない。しかし、精神が身体とは独立した実体として仮想され、そこに個人の自由と責任の根拠を置いている近代思想や法律や経済社会に対しては(それこそが近代社会でのストレスの原因であるから)反省的な見方を与えてきた。精神はむしろ身体や更には他者を含めた個体にとっての環境と区別しがたいという見方が今日では正しいように思える。複雑な脳内神経回路をいくら解明しても、それは意味の無い記号に過ぎなくて、それらが心の内容として意味を持つ為には身体と環境が必須であるから。それでは自由とは何か?束縛からの自由という概念は理解できるとしても、絶対的な自由というのは客観的には無いと言わざるを得ない。

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