2013.02.23

      広島工業大学で借りてきた「カオス科学の基礎と展開」井上政義と秦浩起(共立出版、1999年)は多分教室で使った講義資料を纏めたものであろう。今までの理論を満遍なく判りやすく解説してあってなかなか便利そうである。丁寧に説明してあるので、後半の方は飛ばし読みになってしまった。井上氏は九州大学の森肇研出身で鹿児島大学である。秦さんは弟子である。0,1,2章はカオスの紹介のような感じで、歴史、力学系としてのカオス、写像表現としてのカオス、である。第3章は散逸力学系のカオスで、解析手段としてのポアンカレ写像や、ストレンジアトラクター、2次元写像による表現、パラメーターによる周期解からカオスへの変化とか、スペクトルの話。第4章は保存力学系のカオスで、強制振動下での振り子の例から、トーラス軌道(強制振動の位相が軸方向)に閉じ込められたカオスの海、更には、アーノルド拡散(カオス運動による拡散:位相を循環させずに引き伸ばした場合)までである。

      第5章からが、井上さんの担当になって、カオスの応用と複雑系、ということになっている。まずは、写像系のカオスが相互作用したときの同期現象の話。そこから制御の可能性について。次にシフト写像というのが出てくる。これは、数値表現において小数点をずらすことで得られる写像であり、これが解析的な写像と等価となることから、どうも数学的解析によく使われるらしい。カオスの持つ初期値鋭敏性(時間が経てば経つほど初期値に対して敏感となるために、予測ができなくなる)、というのは、小数点をずらすことで値が指数的に変化することに対応している。これに対して、一般化シフト写像というのは、シフトの前に特定の位置の数値(例えば小数点の前後とか)の値に応じてその値を置換する操作を含む。これによって、カオスは初期値の精度を如何に上げても、原理的に将来の予測ができなくなる(アルゴリズム的予測不可能性)。これはチューリング・マシンと等価であり、チューリング・マシンではその停止を予測できない、という問題に相当する。セル・オートマトンも、ニューラル・ネットワークもそうである。

      話題は更に、セル・オートマトンの結合系(相互作用系)、ニューラル・ネットワークにおける神経単位を単なる関数ではなくて、カオス結合系とした場合、という風に拡がる。この辺がどうやら井上さんのオリジナルな仕事らしい。結合定数が相互作用する別のカオス結合系の状態の影響を受ける、という形で繋がると考える。通常のニューラル・ネットワークに対して、自己と全体がお互いに隷属し合う、という関係が生じてくる。解釈学的循環である。素子を単語に、全体系を文章に対応させれば、単語の意味の確定と文章の意味の確定がお互いに依存しあいながら循環して収束する、という次第である。例として、自己想起、相互想起、最適解の探索、が挙げられている。バック・プロパゲーション、ボルツマン・マシン学習の解説が続き、最後に経済・社会への応用として、マルチ・エージェントにおけるカオスと適応進化の話が出てくる。ここではエージェントが情報を利用するにあたり、それが不完全、時間的に遅れる、ということが取り入れられ、それによってカオスが生成される。どうやら、井上氏は最後にはその辺りの仕事をしていたらしい。現在では定年後の引退生活を満喫しておられるようであるが。

      2週間という貸し出し期間では数式を追いかけることは不可能であったが、大体の様子は掴めたかと思う。最後の章では、科学哲学が語られる。カオスを研究するとどうしてもその辺との決着をつけたくなるのであろう。これまた、実に要領よく纏められてあって概観に便利である。

      物理や化学は実対象のモデル化とその帰結の精密な実験的検証作業によって成り立っているが、生物系以降ではモデルは複雑になり、精密な検証も出来なくなる。本質を掴もうとして仮想世界のモデルも必要となる。そのことを意識的に提案したのは視覚のメカニズムを解明した D.Marr であった。生物は環境に適応しているのであるから、まずは適応の為のモデル(力学)が先行する。その立場から必要な構造が定義され、最後にそれを実現する方法が研究される。つまり個々の部品から全体の意味を組み上げるのではなくて、全体の意味から個々の部品を捉える、という立場である。元々モデルは単に数学であり、それに意味を与えるのは研究者である。E=mc^2 でも、E,m,c に意味を与えなければ単なる数式に過ぎない。モデルが複雑化すれば、その解釈自身が単純ではなく、数値計算の結果を研究者が解釈する、というプロセスが表に出てくる。複雑化したモデルはもはや物質世界の観測から直接に示唆されるものではなくなる。それは生物が保持している「情報」の表現形の探索、という意味を持つ。そのような意味において、生命現象は物質的基盤だけからは演繹できない。情報をそれ自身として研究する必要がある。吉田民人流に言えば「プログラム科学」である。

      次の話題はヴィトゲンシュタインである。西洋哲学史における言語論的転回、言語写像論、「論理哲学論考」に見られる論理実証主義。要素論理の真偽は実証科学に任せて、後は論理操作によって世界が記述される。しかし、ここには時間の要素が欠落していた。後期のヴィトゲンシュタインではそれが批判され、事物と言語の対応関係は成り立たず、言語は使用されることにより意味を確定していくこと、「言語ゲーム」を提唱する。

      科学哲学としては、「反証可能性の基準」を提案したポッパーの「雲と時計」という講演を紹介している。雲のような不規則で無秩序な物理系でも時計のような予測可能な形で成り立つ力学の支配下にある、というのが現代の常識であるが、このような物理的決定論は必ずしも成り立たず、法則が決定論的であっても系は非決定的でありうる、とした。物理決定論は人間の自由意志を否定する(物理的決定論の悪夢)。井上氏の考えでは(多分多くの物理屋の考えだと思うが)、カオスによって系は予測不可能になるのであるから、自発的決定性の破れが生じうる。それが「情報」を処理する「主体」の誕生である。その予測不可能性には2段階あって、一つは初期値の精度に限界がある、というレベルで、更にアルゴリズム的複雑性のレベルがある。多分後者が主体性ということであって、吉田民人の言うプログラムなのであろう。この辺りはもう少し勉強して見る必要がある。要するに、主体性というのはいろいろな形で記述することができるだろうが、それぞれは主体性の解釈にしかならない。それらの本質は?という問いに対しては、いろいろな形で記述されたモデルにおける共通項、といった答えしかない。何しろ主体性というのはここにいる自分なのだから。その辺りで思弁の役割は終るだろう。

      クーンのパラダイム論は、論理実証主義による科学の累積的発展を否定したもので、科学者社会の中で共有された法則の範囲内での発展がある程度飽和すると、変則事項に注目が集まり、やがて今までの法則が乗り越えられていく。しかし、今日では、このような科学者社会そのものが分裂しており、様々なパラダイムを継ぎはぎすることで世界が認識されている。

      最後に、複雑系の研究において参照すべきさまざまな思想が並べられているが、やや集中が切れた感じでまとまりがない。
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