2021.10.26
『感染症の数理モデル』 稲葉寿編著(培風館)
・・・第9章が面白い。

● 第7章: エイズと性感染症の数理モデル(梯正之)
・・・性感染症では一般に潜伏期間が年単位で長い。しかも潜伏期間中に二次感染が起きる。更に接触のパターンが独特である。
これらの特徴を捉えるために、数理解析手法が発達した。その成果は COVID-19 にも生かされている。

7.1 性感染症の数理モデルの基礎
・・・7.1 式は一般化された SIR モデルである。出生数 λ、死亡率 μ、感染率 βc (cは接触率)、治癒率 f、免疫喪失率 h を取り込んでいる。
集団中で感染症が存続する条件は、δ を超過死亡率として、

     R0 = (λ/μ){βc/(μ+δ+f))} > 1
となる。

(注:これは、普通の再生産数の定義ではなく、出生者が感受性人口となることの効果 λ を含んでいる。)

性感染症では、
1) 治癒後に免疫を獲得することが少ないので、SIS モデルが使われる。
2) 接触回数が感染者数にはあまり依存しないので、密度非依存型になる。
3) 男性・女性を区別する。
4) 接触頻度に個体差が大きいので、ネットワークや空間構造が考慮される。
1),2),3) を考慮したものが 7.3 式で、1),2) を考慮したものが 7.4 式である。
感染項は βc(I/(S+I))S の形をしており、マクドナルド型と言われる。
元の SIR モデルでは βcIS の形 である。

(注:こうすると、βの次元が変わってしまうことになる。)

感染者が常在する条件は

      R0 = βc/(μ+δ+f)) > 1
となる。これは (λ/μ) が無いだけ、厳しい。

(注:しかし、これは 免疫保持が難しいとした(SIR → SIS)からではないだろうか?)

有病割合 I/(I+S) の平衡値は 1-1/R0 となる。

7.2 エイズの流行分析と逆計算法

・・・エイズは潜伏期間が長い(10年位)なので、感染時点が特定出来ない。また潜伏期間中でも二次感染を起こす。
したがって、対策上発症データから感染データを推定する必要がある。
潜伏期間の分布はワイブル分布に従うことが多いので、大抵はそれを仮定する。パラメータは尺度 θ と形状 p である。

      w(τ|θ,p) = (p/θ)(τ/θ)^(p-1) exp(-(τ/θ)^p)
      平均値 m = θΓ(1+1/p)
      分散 v = θ^2{Γ(1+1/p)-Γ(1+1/p)^2}

感染者数経緯 h(t) と発症者数経緯 a(t) とは畳み込み積分で結ばれる。

      a(t) = ∫w(t-s|θ,p)h(s)ds :積分は 0 から t まで

観測されているのは、毎年のエイズ発症者数 ni である。
h(s) を最尤推定するために、

      Pi = ∫[ti-1,ti]a(τ)dτ/∫[全区間]a(τ)dτ
を h(s) から計算し、それを使って、

      対数尤度 log{ΠPi^ni} = ∑nilog(Pi)
を最大にする。

7.3 ペア形成モデル
・・・性感染症特有の事として、男女がカップルを作り長期間に亘って、性交渉が限定される、という事情がある。
この場合、年少者、独身男女、カップルと人口区分したモデルが使われる。
また CSW(性産業従事者)も追加される。このモデルからは、CSW が感染拡大の主要因として浮かび上がった。

7.4 性感染症の個人ベースモデル(マルチエージェントモデル)
・・・個体特性事に人口を区分していくことには限界があるので、個人ベースとして計算機上で確率シミュレーションする手法である。
2005年の Fukuyama et.al の例がある。いくつかのシナリオ(条件設定)で男女5000人づつを50年間計算した。
不定期の相手が選択されないときには感染が収まる。また避妊手段などによる効果も予測された。

・・・HIV に対しては 2008年頃に anti-retroviral therapy (ART)が始まって、傾向が大きく変わったため、上記のような単純な逆計算法が使えなくなった。HIV 感染症では血液中の CD4陽性細胞数が減少するので、その検査から感染時点を推測することも可能になった。

● 第8章: 季節変動と感染症動態(加茂将史)

・・・季節変動というと外的環境条件の変動によると思われがちであるが、感染のプロセスそのものにも自励振動の因子が含まれていて、環境条件の変動とその自励振動が共鳴を起こして、周期が倍化したりする。

8.2 疫学の基本モデルと季節変動
・・・死亡人口が出生によって補われる、という SIR モデルにおいては、

      R0 = β/(α+γ-β) > 1
において、定常的な感染者が存在する。α は感染による死亡率、γは治癒率、βは感染率、μは自然死亡率。
その平衡点の周りでの振動周期は

      2π/√{β-(α+γ)}
となる。季節変動による β の変動と、この自然変動との共鳴現象が起きる。

8.3 分岐図
・・・季節変動が弱い処では弱い1年周期解しか現れないが、季節変動が大きくなると、2年、4年、と倍化した周期解が現れる。
更に大きくなるとカオス的になる。

8.4 ポアンカレマップ
・・・不安定周期解はポアンカレマップで求められる。分岐の時にはそれ以前の解が不安定化している。

8.6 多抗原型モデル
・・・エコーウイルスは30種が次々と現れる。これを扱うには交差免疫を考慮した多抗原モデルが必要である。

8.7 変動環境への適応
・・・ウイルスは季節変動パターンに適応していく。季節変動に対する感受性(δ)の大きなウイルスは多年周期になる。

● 第9章: 病原体の進化と疫学挙動(佐々木顕)
・・・病原体は宿主に比べればはるかに高い頻度で突然変異を起こして進化する。その進化パターンは感染対策上も考慮すべき重要な事項である。

9.1 毒性の進化
・・・宿主の集団中での持続的な病原体の振る舞いについて考えると、宿主の自然増加率を考慮する必要がある。
環境条件にも依存するから、最適個体数を K とする。それに近づくと増加しなくなることを採り入れる。
感受性固体数 S、 感染個体数 I、 回復(免疫獲得)個体数 R、総数 N として、
感染率を β、回復率を γ、自然増加率を r、自然死亡率を u、感染による死亡率を α とすると、

      dS/dt = r(1 - N/K)N - βSI - uS
      dI/dt = βSI -(u+α+γ)I
      dR/dt = γI - uR

基本増殖率(再生産数) R0 = βK/(u+α+γ) > 1 で感染が持続して、感受性個体数は

      S* = (u+α+γ)/β
となる。

・・・新種が誕生すると、α、γ、β が変わり、平衡が崩れるが、増加するかどうかは、新しい R0 が大きくなるかどうかで決まることが第2式から判る。つまり、これが進化の方向である。従って通例では α(毒性)が大きくなることはあまり無い。毒性 α が感染性 β に対して比例関係以上の相関であれば、有限の毒性で安定化するが、それ以下だと、毒性は高い方にどんどん進化する。
これは、SIR モデルで均一且つ接触感染が想定されているからである。
(感染媒介があったり、水系を介して遠方に感染者を生じるような場合には、毒性は関係ない。)

・・・毒性(α)と感染性(β)の間には、通例正の相関があるので、
あるバランスの処で R0 が最大化されるように進化する。
(正の相関があるのは、毒性が体内でのウイルス増殖力でほぼ決まるからである。
ウイルス増殖力が高ければ、ウイルス排出量が大きくなるから感染性が高くなる。)

ただ、複数の系統の病原体が同時に感染するような場合には、
患者の体内での競合が起きて、それは通例毒性に比例するから、毒性が高い方に進化する。
(これは体内でウイルスの変異種が生まれる場合の事を言っている。
つまり、治癒が遅れると体内変異種が生まれて、その中で毒性の高い変異種が優勢となる。)

9.1.4 宿主集団構造と毒性の進化
・・・格子疫学モデルの説明。
各格子点には 感受性個体 S、感染個体 I、空白 0 のいずれかがある。ここでは回復して免疫を獲得する R は考えない。
感受性個体は隣接格子が 0 の時に確率 r で感受性個体を作る。感染個体は隣接格子が感受性個体の時に確率 β で感染個体を作る。
それぞれは死亡率 u と u+α を持つ。

(注:回復プロセス I→S については説明が無い。S の再生は S の自己増殖によるものだけということか?)

ここで、増殖・感染プロセスが隣接格子だけでなく、全ての格子に当てはまるとすれば、これは完全混合モデルになるので、
その完全混合割合を P としておいて、隣接格子に限定される割合を 1-P としておく。
こうすれば、感染距離が限定されるときに何が起きるかが解明できる。

・・・隣接格子だけが感染するモデルにおいては、
(1)流行閾値が、二次元格子だと完全混合に比べて 1.6476 倍、一次元格子だと 3.298 倍になる。つまり近接感染だと感染が拡がりにくい。
(2)感染率が十分に大きくなると、宿主集団と病原体の双方が絶滅する。感染が拡がって感受性個体数が減れば、感染は拡がらなくなるのだが、近接感染だけだと、感受性個体の密度は感染者の近傍に集中してきて、全滅に至る、という説明である。(これは元論文を見ないとよく判らない。)
(3)空間構造の効果で、内部平衡状態が不安定化し、リミットサイクルが出現するが、これは局所的である。
(これもよく判らない。空間構造とは何を意味するのだろうか? P>0 という意味か?)

・・・感染率のより高い病原体は毒性が上がりさえしなければ(α が大きくならなければ)進化的に有利な筈であるが、P=0 の場合には、ある有限の感染率が最も有利となる。
感染者が局所的に固まって発生し、宿主の増殖も局所的なので、全体がクラスター状になる。
感染率が高すぎると感受性個体のクラスターが周囲に感受性個体を生み出す前にクラスター全体を感染させてしまうために、病原体も絶滅してしまうのである。

9.1.5 ペア近似
・・・格子 SI モデルにおいて、隣接する二つのサイトの取り得る確率 pxy を考える。x と y は S,I,0 のいずれかである。
pxy についての時間微分方程式には 3体の確率(あるいは相関) pxyz が必要となる。
この3体相関を2体相関で置き換えたりすれば、解くことが出来る。図9.4 に P に対する最適進化での毒性が示されている。

9.1.6 小さな世界と強毒病原体
・・・世界はネットワークによってますます小さな世界となっている。病原体にとっては強毒性であっても新たなターゲットを容易に見つけることができる、という事であり、強毒化への進化バイアスが高まっていると考えられる。

9.2 強毒病原体の出現と宿主の集団構造
・・・獲得免疫の影響について Boots et al. (2004) のモデル研究。SIR 様式での格子モデル。回復率は γ としている。

・・・毒性と回復率のトレードオフ(逆相関)を想定する。毒性の弱い種と強い種が双安定解を作る。
トレードオフがなければ、R0 は致死率 α とは無関係で、β/(d+γ) となる(d は自然死亡率)。

・・図9.6 にシミュレーション結果が整理されている。
大域的感染(Pが大きい)においては、比較的弱毒性の種が有利であるが、局所的感染(Pが小さい)となると、高密度で相互作用の狭い範囲では弱毒性、低密度の集団では強毒性が有利になる。
強毒性の病原体の場合は回復して免疫を持つよりも先に殺すことによって、次々と感染を拡げていくから低密度になる。
弱毒性の場合は獲得免疫者に囲まれながらも、生み出される新たな感受性者をターゲットにして生き延びるから高密度になる。
この二つの集団はお互いに相容れない。

・・・弱毒系統で安定していた集団に突然強毒系統が侵入すると、疎な集団を作って急激に弱毒系統を駆逐する場合がある。
1994年に始まったウサギの出血病ウイルス(RHDV)がその例だと言われている。

9.3 宿主体内でのウイルス進化
・・・宿主の免疫から逃れるために、表面たんぱく質(表面抗原体)を次々と変えていく場合がある。
予め多くの遺伝子を備えていて、活性部位を変えていく。
睡眠病の病原体トリパノソーマ、回帰熱、淋病、サルモネラ菌やバクテリオファージμ。ウマ伝染性貧血症ウイルス(EIAV)、visnaウイルス、エイズウイルス(HIV-1)。

・・・k 番目の抗原濃度を Nk、抗体濃度を Bk、k-1 と k+1 番目の抗原へと突然変異する確率を μ、その内で有効な割合を p とする。
抗体は抗原濃度に比例した速度で生成する。
こうすると、抗原抗原は抗体によって壊されつつ突然変異によって別の抗原に変わり、それを追いかけて抗体ができる、という一次元的な進行波解が得られる。著者による1994年の論文である。

・・・このような場合、突然変異率は Eigen のカタストロフ閾値の 1/4 から 1/2 という高い率となっている。
危ない橋を渡りながらも、進化し続けないと絶滅する、という状況で生き延びている。

(以下、他にもいろいろと興味深い解析結果が書かれている。著者はどうやら世界的にもこの分野の第一人者らしい。。。)

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