2021.10.12
『隣の国のことばですものー茨木のり子と韓国』金智英(キムジヨン)(筑摩書房)
これは茨木のり子についての博士論文である。研究というのは何も自然科学のような実証性と客観性に根拠を置くものだけでなく、こうした自らの感性と存在を掛けたアプローチもある、ということを改めて思った。まあ、文学というのは正にそういうものであって、個人から個人へと「それぞれの思い」を託す言葉を仲介として心が伝わっていく。なかなか素晴らしい内容なので、メモを残しておく。

● 第1部「終戦と詩作のはじまり」
・・・第一次世界大戦の悲惨から合理主義的科学への拒否として生まれたシュルレアリズム。それに影響された西脇順三郎によるモダニズム詩は戦後に言葉の論理性を求めて『荒地』グループを生み出し、他方、階級意識を拠り所にしたプロレタリア詩は戦後、単なるメッセージを超えた芸術性を求めて『列島』グループとなった。彼らの次の世代は、この二つの潮流に欠けていた『日本語の語感』を重視した。戦前で言えば『四季』に集った叙情派に近いのだが、一人一人の世界観はバラバラである。その創始となった『櫂』は川崎洋が茨木のり子を誘って作った詩誌である。後に谷川俊太郎、黒田三郎、金子光晴等も加わった。
・・・純真な軍国少女だった茨木のり子は、敗戦に接して、「何一つ信じてしまってはならない」と決意して真実を見透す目を持って生きることを覚悟し、戦後の社会の問題を書くために詩という方法を選択した。民族や国家を超えた視点は他の女性詩人達には見られないものだった。

● 第2部「対話から拡がる世界」
・・・茨木のり子の詩作方法としての特徴は「対話」である。批評性と言ってもよい。詩の中に二つの視点があって対話する。(中島みゆきと共通する。)モノローグではなく対話構造を持つメッセージである。

・・・『ゆきずりの黒いエトランジェへ』という詩。1995年、朝鮮戦争の最中、小倉駐留米軍から黒人兵が脱走して大騒ぎになった。警察からは警告が発せられた。このような状況で、「私」は見知らぬ黒人と出会い、彼の素朴な問いかける眼を拒絶した。このことに「私」は疑問を抱く。真実から逃げてしまった、と。私が出会った黒人兵が対話相手として登場している。

・・・『七夕』という詩は、韓国人の集落での体験である。星を見に来た人にふと恐怖心を抱いてしまう。しかし、七夕のような日本の文化も元を質せば朝鮮半島から伝来したものではなかったか?ここでも対話。

・・・差別する人と差別される人の、二人ともが哀しい思いをせざるを得ない対話を具体的に描くことで、それが不条理な世界であることを伝える。

・・・1952年『魂』という詩。「私」を主体を持つ<私>とそうでない私(国家に洗脳されていた私)に分離し、互いに他者として対話し理解を深めることで真の<私>を確かめていく、というプロセスが、彼女にとっての詩である。(そういういえば、僕も高校時代に、家族に規定されていた私と本当の私の分離と対話と探索の場として日記を書き始めた。)本当の「私」を求める旅は「メタフィジックな放浪」と表現されている。そして、その放浪には他者が組み込まれていく。

・・・『知らないことが』という詩。戦争経験の精神障害から自分の意志とは関係なく口が動いてしまう人に出会う。”あなたを知らないでいてごめんなさい”と語る「私」。他者に対して自己を開いていくことが自分自身を生かす、という方法論。

・・・1957年『ジャン・ポール・サルトルへーユダヤ人問題を読んで』。朝鮮人差別と同じ。足尾鉱毒事件も教訓が引き継がれず、「拡大再生産」された。民衆の無関心が問題である。その為に、詩人として自ら発信する、という使命。

・・・金子光晴『日本人論』-戦後の日本の繁栄が、もし自分たちの手だけで築き上げたものだったら、、つまり、朝鮮戦争によって日本が復興したということ。『絶望の精神史』では金子光晴の中国旅行経験。信義に厚い中国人気質。

● 第3部「茨木のり子とハングル」
・・・元々、金素雲(キムソウン)の『朝鮮民謡集』に親しんでいた。戦後、古代史の研究が自由に行われるようになり、朝鮮半島との深い繋がりが判ってきて興味が湧いた。朝鮮の美術を愛する以上、それを生み出した人々を理解しなくてはならない。日本人の民族的ルーツの一つが朝鮮半島、更にはパミール高原であるという自覚。韓国の女性詩人、洪允淑(ホンユンスク)との出会い。彼女は植民地での日本語教育を受けていた。それを知らず、「日本語がお上手ですね」と言った自分を恥じる。夫の死を切っ掛けに50歳でハングルを学び始めた。今まで優秀な男たちに支えられてきた彼女が「自立しなくては」と思って決断した。

・・・当時の日本での韓国観は、歴史認識が進んだとは言え、全般的には無関心で、韓国語もまだ朝鮮語と呼ばれていたくらいである。司馬遼太郎も朝鮮半島を日本人の故郷と考えていたが、茨木のり子はそれに加えて、現在の韓国に対して向き合おうとしている。『隣国語の森』という詩で、彼女は、石川啄木、尹東柱(ユンドンジュ)を引用し、ハングル固有の単語をハングル表記で使いながら、ハングルへの愛と忠誠を誓っている。『あのひとの棲む国』では、洪允淑を想っている。(荒井由実がフランソワーズ・アルディへの想いを述べた歌を思わせる。)この時期、日本での韓国の報道は、軍事政権による弾圧と在日朝鮮人への差別、といったネガティブなものだけであったが、彼女はそれに惑わされないという決意を述べている。「韓国人は怖い」といった漠然とした印象が語学学習によって払拭されて、同時代を生きる他者として自然に付き合えるようになった。

● 第4部「現代韓国との対話」
・第7章:『韓国現代詩選』を編む
・・・1989年、獄中にいた金芝河(キムジハ)について、「日本の詩人がなすべきことは、救出活動より先に、まずは彼の詩を読むべきことではないか」と言われた。当時、日本人による韓国文学の邦訳は無かった。茨木のり子は4年後『韓国現代詩選』を刊行した。「何語に翻訳しようが伝達可能と思われる、優れた詩」を目指した。(これは絶版になっている。図書館にあるので読んでみようかと思う。)

・・・姜恩喬(カンウンギョ)『つつじ』(なかなか良い)<わたしはひとしずくの涙/ひそかに流された涙のそのなかの/いちばん赤い深紅の哀しみ/土の中に深く深く浸みとおって/四月にふたたびよみがえったの・・・>

・・・趙炳華(チョウビョンファ)『無限』<私はいつも見えないものを求めてさすらってきた/あの地平線のかなたにも村があるだろうか/そこにも居酒屋があるだろうか>

・・・採り上げた詩人は12名、詩は62篇。社会の現実や時代意識を反映している。平明な言葉で書かれている。ただ、当時の韓国の過酷な政治状況を描いた詩は採り上げていない。原詩の内容を一言一句忠実に訳すのではなく、自分の詩想に合わせて詩句を省略することまでしている。意味を伝わりやすくしている。思想性の確かな詩が日本語の語感で判りやすく描かれ、読者に確かなメッセージとして伝わる事を優先したことで、韓国と日本の対話を促した。

・第8章:韓国における茨木のり子
・・・19世紀末からの韓国における翻訳は朝鮮王朝末期における開化思想の為であった。海外の知識や技術を広めるためである。その後、日本統治を経て1945年以降は西欧の文学が翻訳され、1960年代半ばから日本文学が加わった。それまで日本語を通して西欧の文化を学んできた韓国において、日本語が外国語になってしまった。この時期、翻訳の主役は日本統治時代に日本語を第一優先言語として身につけたエリート達であり、韓国を文学的に後進国として位置付けていた。1980年代まで日本文学のハングルへの翻訳が拡大したが、1990年代には縮小に転じる。東西冷戦の終結により、安保共同体意識の希薄化、ナショナリズムに伴う歴史問題の浮上してきたからである。尹東柱(ユンドンジュ)の『序詩』の日本語訳が10年も経ってから誤訳だらけであるという風に批判されたのは象徴的な出来事だった。しかし、2000年代から再び日本文学のハングル訳が増加に転じる。金大中(キムデジュン)が開放方針を出し、日本の大衆文化が開放されたからである。

・・・このような流れの中で茨木のり子の詩や評論も翻訳されたが、十分に意を伝えていないものも多い。茨木のり子という人は、詩で断言するほど強い人間ではなかった。詩においては極力単純でありたいと思い、弱さを出したくないと思い、他者よりもむしろ自分を奮い立たせる言葉を選んだ。そのあたりの言葉が、他者に向けた言葉として翻訳されてしまう。

・・・2019年に鄭修(コザト篇)允(チョンスユン)による翻訳選詩集『はじめての町』が出版された。これは彼女自身が選定に関わっていて、最初の成功例であった。『伝説』<青春が美しいというのは/伝説である・・・・・>

・・・茨木のり子が韓国で知られたのは、1995年に教科書に掲載された尹東柱についてのエッセイが切っ掛けであった。その後、2009年と2011年に発表された小説によって、『わたしが一番きれいだったとき』の作者として知られるようになった。「一番きれいだったとき」を失った主人公の想いは、韓国での青春と重なる処が多かった。1980年の光州事件、IMF通貨危機の影響下で援助交際をして殺される青春、、。詩集『わたしが一番きれいだったとき』は2017年に翻訳された。

・・・1950年代において、受動的な存在としてしか認められなかった、つまり「きれい」かどうかは男が判断するものであった、女が「わたしが一番きれいだったとき」と発語するというのは新しいことであった。茨木は「日本の詩歌の伝統はいかにも弱弱しい。もっと強くて張りのある言葉が欲しかった」と言っている。詩の言葉とは、人々に「それぞれの」思いを喚起させるものである。戦後という時代を超えて彼女の詩が韓国に受け入れられたのは詩の持つ普遍性を勝ち得たからである。

● むすび
・・・茨木のり子は、他者との対話が自己理解から他者理解へとつながる入口になることを、作品を通して呼び掛けている。その実践として自らハングルを学び、日本と韓国との架け橋になることを目指した。人々が当然すぎて忘れがちなあらゆる普遍的な真実を、暮らしを生きる女性の感受性によって改めて提示し、読者にその意味を再び反芻させる。メッセージには読者だけでなく自分にも言い聞かせるという素直さと誠実さがある。その誠実さが隣人愛となり、韓国への思いともなった。近いものを大切にし、そこから「小さな渦巻」となり、やがて「自由に飛び交う」ことを想う、という選択である。

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