2013.12.08

      細川俊夫という作曲家の監督するコンサート「色彩豊かな音の世界へ」を聴いてきた。場所はアステールプラザのオーケストラ等練習場である。椅子の無い小さなホールという感じで、簡易椅子を並べただけの客席である。一応後ろに2階席もあった。客は100人ちょっとでほぼ一杯。細川俊夫は広島の人で現代音楽の作曲家としては良く知られている。このコンサートは2007年に始まった「Hiroshima Happy New Ear」という企画シリーズで、今回が16回目となる。毎回いろいろな演奏家を招聘して現代音楽を紹介している。客はどうも固定客のようで、見るからにクラシック通らしい。これだけ集まるのはなかなか異様な光景でもあった。特徴をひとつ挙げるとすれば目付きが何となくギョロリとしている、という感じであろうか?評論家タイプというべきか?実際どうも評論家も演奏家も居るのは間違いない。子供も数名居たが、勿論行儀が良い。

      演奏は児玉桃という女性で、パリで生まれ育った。当然ながらフランスの作曲家を得意とする。

最初は、武満徹の「雨の樹、素描」である。これは以前聴いたことがあるが、大江健三郎の小説に触発された、という。雨がやんだ後もずっと雫を垂らし続ける樹の描写である。まあ、なかなか美しかったが、ややピアノが強すぎる感じはした。

次はバッハの「イタリア協奏曲」であるが、僕はあまり好きではない。バッハにしてはあまりにもストレートな構造だからやや退屈なのである。

その次はドビュッシーの「ピアノの為の12の練習曲」から3曲。晩年の曲で、エチュードということでかなり実験的で演奏も難しそうだったし、一度聴いただけではなかなか掴みきれない。それにしてもこれだけ異様な和音を間違いなく(とは思うが)弾けるものである。

少しお話があって、後半はまず、メシアンによる「幼子イエスに注ぐ20の眼差し」から「喜びの精霊の眼差し」である。これには、判らないなりに惹きつけられた。判らないというのはつまりピアノの和音である。ピアノという楽器はポロポロと弾いている分にはとても美しいのであるが、和音をガンガン鳴らすと如何にも歪の多い濁った音の塊になってしまって、煩いだけというのが、僕の率直な印象なのである。勿論これは僕が正規の音楽教育を受けていないせいだろうとは思う。音楽教育を受けていれば一応ピアノの生み出す和音というものの聴き分けができるのであり、その組み合わせが物語を語るのである。他の楽器の合奏であれば、和音はもっと綺麗に聴こえる(演奏に依るのは勿論であるが)。ピアニストはそれを頭の中で無意識に想像しているのかもしれないが、素人の聴衆にそれを想像させるには相当な技術が必要ということである。さて、メシアンのこの曲ともなると、和音といっても殆どが不協和音である。しかもそれがいくつも重なって大きなうねりとなる。判らないながらもそのうねりに飲み込まれてしまったのは、正確な和音を弾いたためではなくてリズムや強弱が巧みだったからなのだろうという感じがした。

この印象はどこかで聴いたことがある。ジャズ・ピアニストの大西順子である。そういえはいくつかのフレーズが似ている。彼女も嵐のような勢いで聴衆を巻き込んでしまう。拍手も大きくてブラボーという声も飛んだ。桃さんは何だか苦笑いをしていた。ちょっとシャイなのか、それともふてぶてしいのか、自信があったのは確かだろう。メシアンという作曲家は勿論巨大な存在なのだが、僕はあまり今まで聴いていない。鳥の声に拘った人というくらいしかしらない。この曲も最後の方にアレっと思うような変な鳥の声があった。何だったんだろう?桃さんはメシアンには直接指導は受けていないそうであるが、ピアニストである奥様には指導を受けたそうである。

      さて、最後に細川俊夫氏の「エチュードI−VI ピアノのための」である。細川氏は西洋18−19世紀に興隆を見た平均律と和声構造の音楽(頂点がベートーベン)からできるだけ離れることを自覚している作曲家である。作曲にもピアノは使わないように心がけている。だから、ピアノ曲の作曲は避けているが、今回はそれに挑戦した、ということである。和声的発想や言語的発想を避けているので、曲毎に発想を変えて試みている。

エチュード I は毛筆でさらっと描いた感じの線を2つ組み合わせて陰と陽の関係として流していく。2012年に伊藤恵が演奏。

II は線香花火をイメージしていて、点がポツポツと出現してキラリと光って消えていく。2012年に小菅優が演奏。

III はピアノの残響を利用してそれを影として扱っている。その影がうねるように変化していく。ピアノのキーを抑えるだけで鳴らさないでおいて、他のキーを叩くとそれが消えた後に元々抑えていたキーの音が残響として長く響く。これはピアノ独特の音である。それを複雑に絡み合わせる。

IV はあやとりをイメージしている。2つの手であやとりをするように音を紡いていて、そこから形が現れては消える。この最後に消えるところに美しさを表現するが、あやとりをしているうちに糸が絡まりすぎて、深刻な事態に至る。

V は怒りをイメージして、人間の本質としての怒りを、つまりはこの世のどうしようもないことへの根源的な怒りを表現している。ピアノ独特の残響効果がふんだんに使われている。

VI は一転して美しい和音による 歌 である。最後のは3ヶ月前に書いたということである。これはメシアンとは別の意味でなかなか良かった。判らないことには変わらないのであるが、メシアンのような複雑な和音のうねりというよりも、それぞれが個性を持ったいろいろな楽器の音色の変遷という感じである。聴いていて祭り囃子の笛とか能の鼓とか、そういった音を想像してしまった。リズムはとても複雑で、というよりももはやリズムとは言えなくて、日本的な間に支配されていて、こういうのをどうやって楽譜に書くのだろう、と思ってしまう。というのもこの後のトークで、全てが楽譜に書いてあります、と桃さんが言ったからである。

アンコールは V を再演、これは判りやすくなっていた。2回目だからだろう。

更にドビュシーの「亜麻色の髪の乙女」を演奏した。何気なく聴いていた曲ではあったが、この曲の中には確かに現代音楽に繋がるいろんな音が詰まっていたのだなあ、と気づいた。

演奏会が終わってアフタートークがあった。40名位残っただろうか。みんな結構意見を言ったり質問したりして、ちょっと気取ってはいたが、なかなか面白かった。細川氏の6曲のエチュードは全体としてまとまった物語を構成している、という説明をして、細川氏自身が驚いていた。現代音楽もこうやって作曲者の解説付きで聴くと結構面白いものだと思った。桃さんであるが、ピアノの練習は好きなので、とにかく一日中やっているらしい。来年は広響とモーツァルトのピアノ協奏曲をやるということである。演奏以外には何も興味が無いという感じで実に清々しい。
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