2015.02.26

      「二十歳の炎」穂高健一(日新報道)は昨年中国新聞に採りあげられたのを見て早速図書館に予約したのだが、今頃になって順番が廻ってきた。もうあまり興味も薄れたのだが、折角なので読んでまとめておこう。これは明治維新の立役者として安芸(以下、芸州とか広島とも書く)藩が活躍した、という事を訴えた本である。明治維新の原動力は、一つには勿論欧米列強に強いられた国内の結束であり、そのやり方として下級武士達の危機感が勝った、ということなのだが、もう一つには関が原の戦いでの責任と問われて広島から追いやられ萩に閉じ込められ、その後も幕府から苛められ続けた長州藩(毛利家)が恨みを晴らすという側面があった。1864年の禁門の変で逆賊となった長州への第一次長州征伐において、広島藩の池田徳次郎が毛利家と通じていて仲立ちを行った。第二次長州征伐においては、広島に集結した幕府混成部隊と広島藩はうまく行かなかった。元々広島は毛利の領地であって、その影響は残っていた。征伐軍の指揮官小笠原老中の暗殺計画が藩内で公然と討議されるに及んで、広島藩は戦いに参加しなかった。長州は米どころであるが、軍事や生活物資は幕府の交易禁止令に阻まれて不自由していた。宮島と御手洗という良港を持っていた広島藩は長州の米を米不足の薩摩に渡し、薩摩は全国から集めた生活物資を長州に渡していた。更に薩摩は綿糸を全国から集めて密輸出しその代わりに最新式の兵器を密輸入して、その一部を長州に渡していた。これらの仲介者が広島藩であった。薩摩と長州は表向き犬猿の仲であったが、経済的には広島藩を介して強固な結びつきがあった。なお、南北戦争で余った古い武器は表向きの貿易港長崎経由でその他の藩に売られていた。それで財を成したのが坂本龍馬である。彼は極めて用心深く、幕府も彼の動静がだけは掴めなかったらしい。

      大政奉還を1866年暮れ最初に提案したのは広島藩であったが、無視された。その後実質的に明治維新の原動力となったのは、御手洗港で結ばれた芸州(広島)藩、薩摩藩、長州藩、土佐藩の四藩同盟(1867年)であった。何回かの仕切り直しがあってその度に取り残された長州を宥めて最終的に11月3−7日にこれを取りまとめたのが池田徳次郎であった。その趣旨は、幕府側が京阪神に大きな武力(1万人)を要する以上政権を形式的に朝廷に委譲しても何もできないから、4藩一斉に軍を上洛させよう、というものであった。その折に海外留学者の知恵を集めて作られたのが八策としてまとめられて2通現存している。(同じ内容の坂本龍馬作と言われる船中八策は大正時代に作られた創作である。)大政奉還の建白書はその準備の上で4藩合同で提出しようということであったが、土佐藩は軍を出すことを拒否し、大政奉還の建白書だけを出してこれを幕府が受け入れたのである。四藩同盟(軍事的には薩長芸3藩)の経緯と内容は坂本龍馬の警告によって60年間当事者間で秘密とされて、一人島根の山奥に隠遁していた新谷道太郎が60年後に自費出版したが、誰も信じなかった。なお、龍馬自身は自らの警告どおり一週間後に暗殺された。(そもそも徳川を倒すというだけでなく武士の世を変えようという内容だから、恨まれるのは当然である。)翌年1月3日、岩倉具視の策略で王政復古が宣言され、長州が朝敵を免除されると、既に上洛していた芸州、薩摩に加えて待機していた百戦練磨の長州軍が上洛し、西郷の江戸での騒乱挑発に乗せられた幕府軍を朝敵として鳥羽・伏見の戦いが起こされた。ただ、広島藩(芸州)はその必要無しとして参加しなかった。

      さてこの小説の主人公穂高健一であるが、彼は第二次長州征伐の折に幕府軍の指揮官の暗殺を提案し、その後、志和という広島の山奥に軍事訓練所を作って、最新式の戦術と武器を備えた軍隊「神機隊」を作って、その砲兵隊長となった。鳥羽伏見の戦いで日和見をしたと言われてその汚名を晴らす為に、神機隊の半数(約200名余り)と共に自費で戊辰戦争に参加した。直接会津を攻めるという容易な方向ではなく、海岸沿いに仙台藩を攻めるという困難な方向を選び、最終的には浪江を攻略して、相馬藩の政府軍への寝返りを起こさせた、ということで、政府軍の勝利を決定付けているが、その場で戦死した。20歳で英雄的に死んだ彼の生き様に唯一脚色された彼の許婚とのロマンスを絡めたのがこの小説であるが、堅苦しくてあまり出来が良いとはいえない。その他の部分は史実に沿っているので、むしろ歴史書というべきかもしれない。そういう意味でいうと、戊辰戦争の悲劇は恨みのあまり暴走した長州を制御できなかったことから生じていて、その在り方が後々の昭和の戦争にまで引き継がれた、という事である。
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