4月14日(金):
    朝早く、6時40分に家を出発、広島駅で朝食用のパンを買ってから新幹線に乗って、新大阪で金沢ー白川郷ー高山祭りのツアーに合流した。新大阪から特急「サンダーバード」で金沢駅に着いたのが12時20分。途中弁当が出た。

    バスで兼六園。ここは大分前に来たことがあるのだが、殆ど記憶に無い。ガイドさんが案内してくれたので、随分と勉強になった。ガイドさんはマイクを付けていて、イヤホンで聞くので近くに居なくても良い。19人が2組に分かれるのだが、他の観光客も多いので、これは助かるし、勝手にあちこちに残って写真を撮ることもできる。植木や庭がなかなか年季が入っていて、凝っている。金沢藩というのは相当なお金持ちだったようである。桜は丁度八重桜の時期であった。ガイドさんは「鬱金」がお気に入りのようであった。

    そこからバスで山の方向に走ること2時間位。雪を頂いた尾根が近づいてくる。道は混んでいない。白川郷(萩町合掌造り集落)は大きな集落で、川を隔てた駐車場にバスを止めて、「であい橋」を渡って入る。展望台までは時間がかかるので1時間の範囲ではとても行けない。和田家というのが一番有名なのだが、休館だったので、あぜ道伝いにあちこち見て回った。中に入ったのは神田家。2階、3階、4階と狭い梯子を登って養蚕の道具などを観た。明善寺や白川八幡宮の方までは入れなかった。


    宿は近くの「結の庄」というホテルだった。川沿いにあって、とても景色が良い。設備的にもゆったりしていて、会席料理も充実していた。

4月15日(土):
    天気予報通り小雨が続いた。1時間位のバスで高山市に到着し、高山別院にバスを停めて、市街に歩いた。最初に石橋台まで行って、からくり人形を観た。丁度間に合ったという感じである。天気が良ければ、他の三番叟・龍神台も一ヵ所に集まって演じるのであるが、今回は小雨で屋台が繰り出さないので、その場で演じたため、他のは観ることができなかった。前の晩にテレビで祭りの説明があったので助かった。そのあとは自由行動なので、まずは「陣屋」(江戸時代の役所)を見学した。予想外に広くて時間がかかったので、最後の蔵の中などは素通りしてしまった。その後、人力車に乗って屋台を一巡した。いろいろと名産なども説明してもらったので助かった。「とらや」の饅頭と緑色の漆喰の皿を買った。昼食を摂る人が多かったのだが、宿での食事が多かったので、食べなかった。


    お昼ごろバスで最後の訪問地、五箇山集落に行った。ここは規模が小さい。在住のガイドさんの案内を受けた。これもマイクだった。なかなか骨のある内容だった。そもそもこの飛騨の山奥では、あまり耕作地も広くないので、養蚕が盛んだった。冬場の生活も厳しかったので、縄文時代の竪穴式住居を拡張したような茅葺の家に住むようになった。萱は傍の山に生えてくるのだが、大きく育てる為に草刈りをしなくてはならない。最近は住民数も減ってきて自分達ではできなくなった。萱の年限は30-40年位だったのだが、昔のように薪を焚いて暖をとることが無くなり、煤による腐敗防止効果もなく、半分位の耐久性しかなくなった。萱は刈り取って一年間位は家の周りの防寒用として使い、乾燥したものを翌年村総出で一軒分葺き替えていたのだが、材料も足りなくなって組合でやってもらっている。大体2000万円位かかるのだが、国から9割の補助が出ている。神社仏閣とは違って私有財産なので、1割位は負担となる。世界遺産の条件というのは日常生活が行われているということなので、若い人が住まなくなれば消滅してしまう。


    現在のような合掌造りになったのは1400年前位からである。その頃、将軍吉宗は贅沢禁止令を出して、絹織物が作られなくなり、養蚕では生活できなくなってしまった、ということがあり、床下で硝石の製造を始めた。硝石は黒色火薬の原料であって、水溶性なので日本では鉱物としては産出せず、輸入に頼っていた。しかし、家の下は水が入り込まない上に、養蚕で生じる糞には K や Ca が含まれていた。それにヨモギ等の草を混ぜ、窒素成分として人糞を混ぜ合わせれば、高濃度の硝酸カリウムが出来る。幕末期になると金沢藩では飛騨の山奥の村を硝石の工場として開発するために、それまでの茅葺屋根の下に木組みの柱と壁を取り付けた。これは宮大工の工法であった。力学的バランスがうまくとられていることを指摘したのはブルーノ・タウトであった。金沢藩では硝石を食塩と偽って江戸に報告し、火薬原料として諸藩に売りさばいて巨利を得ていたし、飛騨の村も現金収入で潤った。

    ちなみに戦国時代においても、北陸地方は大名の統治が緩かったため各地の豪商が富を蓄えて、浄土真宗に帰依していたので、寺院には鉄砲も火薬もあったのだが、その火薬は飛騨の村々からの硝石が原料であった。信長が一向宗の鎮圧に苦労したのはそのことを知らなかったからである。

    明治になると、チリから安い硝石が輸入されるようになり、養蚕も成り立たなくなり、この辺りは小さな田畑を耕して自活するしかない貧乏村になってしまった。ガイドさんはその頃の惨めな生活を経験している。

    帰りの道筋はあまり渋滞もなく、1時間以上の時間の余裕が出来たので、軽く蕎麦を食べてから、駅東側の門構えを見学した。なかなかの壮大な造りになっていて感心した。


    金沢→新大阪→広島は疲れて眠ったり、Walkman で中島みゆきを聴いたりしていた。

  <目次へ>       <一つ前へ>     <次へ>