デヴィッド・ハーヴェイ「資本の謎」(作品社)を読了。まずはこの本を手にするに至った背景を説明する。

     マルクスを知ったのは高校3年生の倫理社会の授業であった。過去の思想家をクラスで分担して調べることになり、たまたま僕の担当がマルクスであった。まさか「資本論」を読む訳にもいかなかったが「共産党宣言」とエンゲルスの「科学的社会主義」位は読んだと思う。何かを調べてまとめて発表する、という初めての経験であった。意外に上手く行って多少の自信になったのを覚えているが、もとよりマルクスについて理解したとは言いがたかった。その後、受験勉強の一環として英語の小説を読んでみようと思い、いろいろと雑誌の付録などであたりをつけて見つけたのが平明な文章で知られるジョージ・オーウェルであった。1年間の浪人生活を通して、ソビエト社会主義の諷刺である Animal Farm を始めとして、ロンドンでの彼の貧乏物語やらを読み進み、スペイン戦争におけるソビエト連邦の人民戦線への裏切りを扱った Homage to Catalonia、更には全体主義社会の恐怖を描いた 1984 と読み進み、平行して耽読していた小林秀雄の著作と共に、大いに入試の役に立ったのであるが、これらは党派的運動や組織や権力に対する批判的精神を涵養することにもなったのである。

     大学に入ると内部は左翼一色であった。政治学の教授はソビエト連邦と中国共産党と北朝鮮を賛美していて、特にその計画経済の大成功を解説してくれた。憲法学の教授は日本共産党の宣伝に終始していた。ベトナム戦争の最盛期であり、大学も授業料値上げに揺れていて、1970年の安保改定に向けた学生運動の盛り上がりの時だったのである。その中で、新左翼である社学同(社会主義学生同盟:俗称赤ヘル、ブント)や中核(マルクス主義同盟中核派:俗称白ヘル)の人たちと付き合うようになった。京都では東京のような派閥間の陰惨な争いはあまりなくて、自由闊達な論争と共同戦線がもっぱらであった。これは対抗勢力たる民青(日本民主青年同盟:日本共産党の仲間)の勢力があまりに強かったからでもある。何しろロボットのように同じ事を喋る民青の活動家には気味が悪くて近寄れなかった。

    新左翼はソビエト連邦でスターリンの国内社会主義革命に対抗して世界同時革命の必然性を唱えていたトロツキーの系譜である。理念的には正しいように思われたし、ソビエト連邦の腐敗ぶりを見るにつけても、新左翼の歴史観は概ね本質を捉えていたように思えたのである。しかし、意見が合うのはここまでであった。勉強会やら合宿やらデモやら喫茶店での対話(オルグ)においては、いつも革命の必要性について対立していた。後に赤軍を設立した人に至っては、世界を手に入れるなんて面白いと思わないか?、とまで言われたが、それが目的なんだろうか?と疑問が募ったのである。佐藤首相のベトナム訪問に反対するためにバスに乗って羽田まで行ったのだが、東京での激しい党派争いを目撃し、仲間が一人装甲車に轢き殺された(機動隊員に殴り殺されたという証言もある)事件を巡っての党派的対応(死を党派的宣伝としてしか考えない)を目撃し、その後の全共闘運動の中で、僕は沈黙してしまった。何かにすがるようにしてベルグソンの著作を読み始めた。アルチュール・ランボーの詩を読むためにフランス語の勉強を始めた。これらは小林秀雄の影響である。そして、それらの読書によって小林秀雄が修辞家に過ぎないことを発見して失望した。僕に必要なのは修辞技術ではなくてより正確な自己の点検であったから、その後関心はむしろ脳科学や言語学に向ったが、とりあえず、後に残った確実な道は当初からの道−理論化学−のみであった。

     カナダでしばらくポスドクとして働いた他は大学に職を得る事は出来ず、企業に入って「資本」の論理が貫徹される最中に飛び込む事になったのである。幸いな事に研究所であったが故に資本の論理との深刻な対立を起こさずに済んだのであるが、自分の仕事の意義についてはやはり思い悩むことが多かったのも事実である。日本はバブル景気の真最中で化学会社はこぞって情報産業に参入していて、僕は化学屋というよりは物理屋として雇用されたのである。それは勿論先端技術ではあったが、僕の感じたのは資源の無駄遣いという側面であった。コンピュータが発達し仕事や生活が効率化するのであるが、その裏では膨大なエネルギーや資源が消費されているということである。磁気塗料塗工後の乾燥機から出てくる大量の溶剤は燃やされ、膨大な電気代を要するクリーンルームで精密に加工されたものもちょっとでも不良が見つかると容赦なく廃棄された。しかし、そんな心配とは無関係に事業規模は海外に拡大していった。そもそも事業というのは人々の生活の糧となる商品の提供を通して自らの生活の糧も得るという行為である。しかし、そのことに自足していては事業が成り立たない。事業の持続性は利潤の確保にあるが、絶えざる競争に曝されるために投資を迫られる。それは研究開発でもあり設備の増強でもある。ある場合には新規な分野の開拓も必要となる。思い悩む事よりもこのような闘いに明け暮れたのである。しかし、やがて技術の陳腐化によって中国企業が参入し価格がジェットコースターのように落下した。ついには海外での事業運営がうまくいかず、赤字を蓄積するだけとなり撤退したのである。多くの専門の人材が他の部門に移動して苦労をし、一部は他の会社に移り、残された者は新規事業の探索である。僕は本来の専門−理論化学−に近い仕事を開拓して何とか定年まで生き延びた。

    これらほぼ25年に亘る会社生活の間に世界と日本の経済情勢が大きく変化し、会社の中もその影響を受けていた。年功序列制に支えられた自由闊達な研究所はアメリカ流の成果主義賃金と時間と効率を重視する方向に変化していった。特に新規事業の失敗の後は投資に慎重になった。アメリカ流の人事制度や経営指標が取り入れられていき、海外の株主に対する説明責任が問われ始めた。会社は誰のためのものか?1に顧客、2に従業員、3に株主、であり、そのために会社の理念や理想(顧客に何を提供するのか?)がもっとも重要なものである。しかし、これらが逆転していて、会社が投資対象になっているのがアメリカ流である。このような大きな流れを生み出している背景には何があるのか?という疑問がずっと頭の中にあった。

     さて、デヴィッド・ハーヴェイの「資本の謎」(作品社)である。構成的には判りやすい。日本語版解説も要点をよくまとめてあるので、今更書く必要も無いくらいである。2008年にアメリカ発の世界金融恐慌を目にした著者がまずはその概説を第一章にまとめている。1929年の大恐慌とその後の第二次世界大戦を経て1972年頃までは金融恐慌はごく稀であったが、1973年以降繰り返し起きていて、そのパターンは同じである。原因は全て不動産と都市開発投資の破綻であった。2008年のは規模が最大ということに過ぎない。1960年代は労働力不足と賃金の上昇が基調であり、それは資本の蓄積を妨げていた。対策としては移民の促進と自動化技術であったが、部分的な抵抗と企業側での独占の進行による価格上昇がその進展を阻害していた。日本とドイツがアメリカの自動車市場に参入してくると独占も阻害される。

    この行き詰まり状況を打開する考え方が、レーガンとサッチャーの「新自由主義」であった。組織労働者は直接的(武力ないしは法律)、間接的(インフレ抑制政策)に押しつぶされ、産業予備軍を作り出し、南米や中国での農村の破壊、さらには生産の海外移転による国際労働力の利用(これには国際的な輸送システムの整備が寄与した)、関税や輸入制限の撤廃が進められて、最後に登場したのがグローバル金融である。労働力不足は解消されたが、賃金の低下により国内市場が不足してきた。この問題の解決にはクレジットカードと個人債務の促進、最後には金融機関の貸付制限の緩和により、貧困層に住宅を購入させる方策が作られたのである。生産と消費を経由したこの方法よりも直接的な方法は資本そのものの輸出である。発展途上国への大規模な貸付であり、これはその国での市場拡大にも繋がる。しかしそれは途上国の債務危機を誘導し、貸し付けたお金が返ってこないというリスクが生じた。これを解決するためにIMFの構造調整プログラムが作られて、債務危機に陥った国の政治をコントロールすることが可能となった。その国の国民は債務から逃れられなくなった。IMFに保障された銀行はリスクを気にすることなく貸付を行う。このような超国家的な銀行救済システムを機能させるためにグローバルな資本移動が瞬時に行われるような規制の撤廃が行われ、今や銀行は国際的な競争に曝される。競争を優位に進めるためには銀行業務への規制撤廃が必要となり、銀行はリスクの高い貸付を行えるようになった。

    さて、こうしてますます蓄積された資本が生産へと投資されれば、それは正常な資本主義による経済発展となる。消費に向えばインフレとなる。生産への投資先は勿論中国を始めとする発展途上国であった。インフレは一部の高額商品に限られた。何故ならば、お金を得たのは一部の富裕層に過ぎないからである。それらの何十倍もの資本を吸収したのがデリバティブと呼ばれる金融商品である。本来は取引価格の変動に対するリスク回避のために、未来の価格を決めてしまう方法である。未来の価格に対する評価が変化した時点で未来の売り買い(売り買いの約束)をすれば、その差額が損益となる。未来の価格を決めるためには取引量を決める必要があり、その保障のために保証金を預けることが必要となる。これは実物の価格のほんの一部である。つまり、取引価格のほんの一部の保証金を預けることで、取引価格の変動分の損益が得られる。1990年まではそのような取引は商品先物取引のみであり、特定の認可を受けた当局の監視下の業者だけに許されていたのであるが、もはや過剰に蓄積された資本の行き先がなくなってしまうと、規制が撤廃され、あらゆる商品や資産や債権や取引の権利がデリバティブとして金融商品化されたのである。通貨の先物市場は1990年には売り買いを同時に行える事(相対取引)が可能となり、「影の銀行」システムと呼ばれている。新たに発生したデリバティブ商品は2005年には世界の総生産額の5倍に達した。銀行の手持ち資金に対する貸付資金の比率(レバレッジ比率)は3倍から30倍に急増している。本来は生産と販売によって利益を確保するはずの製造業までもがその何倍もの利益を金融取引から生み出すようになった。企業の存在価値の何倍ものお金を手にして博打をしているようなものであるから、当然破綻が起きる。破綻の結果は大量の失業となるから、銀行が救済し、銀行を政府が救済し、最終的には税金が使われる。これも敵わないとなると国家の破産であるが、その前に国民がIMFの指導の元で窮乏生活を強いられることになる。資本が国家の規模を超える事によって、国際的な規模でマルクスの分析が妥当性を増しているということである。

     このような状況に至った歴史を振り返ってみれば、第二次世界大戦後の自由主義陣営の盟主となったアメリカが、初期には固定相場制によるドル支配、やがてベトナム戦争の負担によるドルの信用失墜回避のための変動相場制移行と日本やドイツの経済力台頭を契機として、アメリカ資本の世界展開を進めざるを得ない、という事がある。その最中でのソビエト連邦の崩壊や中国の自由主義経済圏への参加があり、それらの好要因にも関わらず過剰資本の破綻が起きているということを総合的に眺めてみると、これは結局世界の盟主がアメリカから中国へとシフトする途中なのだということである。近代の始まりから言うと、ヴェネチア→ポルトガル→スペイン→オランダ→イギリス→アメリカ→中国、となる。ヘゲモニー移動の前には必ず資本の過剰蓄積とその金融化が見られる。

     以下の章では、まずは資本の蓄積過程(第2章)、生産過程(第3章)、市場での資本回収過程(第4章)、という資本循環のステージを説明し、次にこれらの過程において資本の流れが阻害される主要な7つの要因を説明してそれらがお互いに絡み合っていることから資本主義の共進化を説明する(第5章)。次には資本の流れにとっての地理学(第6章)から、資本主義共進化が不均等発展することを説明する(第7章)。最後の第8章が何をなすべきか?である。

<その2へ>  <一つ前へ>  <目次>