17.06.16
久しぶりにアステール・プラザに出かけた。細川俊夫の「Hiroshima Happy New Ear 23」である。2年に1回は「次世代の作曲家たち」として、若い作曲家に広島に関係した何かをテーマにした新曲を委嘱して広響の演奏での初演の機会を与えている。今回の2人は対照的な手法であった。

・・・川上統さんは樟木(くすのき)をテーマにした。広島には多くの被爆して生き残った樟が残っている。その生命力を音楽に表現した。根から始まって幹、そして枝葉や花に至るという解説であったが、僕の印象としては、生命を脅かす災害が次々と襲ってきていて、それをしなやかにかわして生きているという風に聞こえた。使われている音型はそれほど演奏困難ではないようなのだが、その様式が次々と変化していく処からそういう印象を受けたのだろうと、思う。演奏は随分と統制のとれたもので、それぞれの音の響きの個性がきちんと表現されていたように感じた。

・・・他方、金井勇さんは原爆資料館で何度も触った金属の溶融塊への思念を表現したものである。歴史的な惨事というのは直接体験することはできないのだが、残された小さな断片を凝視することでほのかに浮かび上がってくるものだ、ということである。そういうことで、メロディーにならない断片的な音が正規の拍位置を外れて強烈なインパクトで畳み掛けるように演奏される。指揮も演奏者も大変そうだったが、さすがに川瀬賢太郎と広響である。無秩序とも思える変拍子の断片が全体としてある種の「事件」を想像させるようにできている。後半では各パート毎に引き継がれたり、バラバラだった断片が少し繋がったりして、盛り上がっていき、歴史的記憶が垣間見られるような印象を与えている。

・・・この2曲の前にピエール・ブーレーズが彼の楽団のフルート奏者の死を悼んで作った曲「メモリアル」が演奏された。若いころ細川さんが武満徹の部屋で一緒にレコードを聴いて、武満徹が薦めた曲らしい。如何にもそれらしい音世界である。フルートは広響の森川公美。フルートの頭部管だけが白い。多分陶磁器ではないだろうか?それはともかく、フルートが中心的な音の周りにいろいろと断片的な音を積み重ねてそれに弦楽器とホルンが絡みつくように支えている、という感じの曲である。ホルンの持続音がその都度最後に残されて、それが何とも言えない情感を生む。この曲は後半の最初にもう一度演奏された。その前に森川さんの話があり、追悼という意味合いの一つとして、音域がフルートの下半分に限られていて、上がろうとしても上がらないというもどかしさを感じられるという。2回目の演奏はかなり印象が変わった。同じように演奏している筈なのだが、ずいぶん軽く流しているように思われた。こういう風に同じ曲を2回演奏してその変化を楽しむ演奏会がヨーロッパでは流行しているということであった。

・・・後半は細川俊夫の日本初演ということで、「旅IX」というギターと弦と打楽器の曲である。池(弦・打楽器)の底の泥の中で生きていた蓮(ギター)が空中(弦・打楽器)に伸びてきて花を咲かせる、というその自然の有様を描いた曲という。それはともかく、福田進一のギターの音が素晴らしかった。弦を左手でしならせてまるで琵琶のような音を出す。それと見事に調和して、いつものかすれ音を多様に重ねる弦楽器も良かったし、打楽器ではゴングを操ったり、大太鼓の上に並べた大小の銅器を叩いたりして出す音も面白かった。

・・・演奏の後、例の如く聴衆からの質問等があったのだが、最後の質問者が「コンピュータ上で作曲してそのまま音にする」というやり方についての質問をして、細川俊夫が答えたのが印象に残った。「そういうのも在りうるとは思うが、私の感じる意味での音楽ではない。音楽はそれぞれの人やその時、その場所で変化しながら生きている発音が素材であって、だからこそ現代音楽はこういう響きの良い場所で演奏者を目の前にして聴かれるべき音楽だと思っている。」今回、同じ曲を同じ人達が演奏し直しても別の印象になる、というように、音楽というのはその場その時の心の在り様であり、それを演出するのがお互いに不可分な作曲家−演奏家−演奏の場−聴衆−他多くの関係者達の複合体(Niels Bohr の言葉を借りれば「現象」)である。およそ現代音楽に興味のなかった僕が、いつの間にか「Hiroshima Happy New Ear」を毎回聴くようになったのも、その一回性の出会いが楽しいからである。
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