細川俊夫の現代音楽企画シリーズ Hiroshima Happy New Ear 20 を聴いてきた。中村功という現代最高の打楽器奏者のソロコンサートである。満席だったが、結構高校生が多かった。僕は打楽器についてはそれほどの関心がないのでどうしようかと思っていたのだが、まあ今までの続きというつもりでチケットを買っておいたのである。音が煩いだろうとも思ったので後ろの方の席を選んだが、これは間違っていた。何しろいろんな打楽器を使うので、見る要素が大きいのである。プログラムは現代音楽における打楽器の復権を紹介するという意味でバランスのとれたものだったようである。というのも、僕にとっては今まで経験したことのないような音楽の世界だったから、何とも表現ができないのである。

・・・最初の曲はドイツ在住の韓国の代表的女性作曲家ヨンヒ・パクパーンによる「打鈴IV」。比較的短い曲である。楽器は何というのか判らないがともかく太鼓の一種とブラジルで見つけたという金属の筒の外側に蛇腹のような発音装置を付けたものが主たるものであった。最初の雰囲気からして、いかにも朝鮮半島の伝統的農民という感じである。乾いた畑で収穫した麦の束を叩くような感じとか、大またを拡げてひょっとこ歩きをするような仕草とか、わめき声とか、。解説によると、金芝河(キム・ジハ)の「飯は天なり」という詩に触発された作曲だそうである。後で聞いた中村さんの解説では、米を研ぐ感じとか握り飯を食べる感じとか、を表してもいたらしい。打楽器というのは思いもかけない音が出せるものだなあ、というのが素直な感想である。

・・・次の曲は細川俊夫による「線VI」である。彼自身による事前の解説では、毛筆による線は空白との関係において線であり、線を引かれるということにはその前に蓄積されたエネルギーが含まれる。つまり、空白が線によって意味を与えられる。こういう音のあり方は能における鼓や笛にも典型的に見られる。発音によってその前の無音と音が消えてしまった後の無音に意味が付与される。それを打楽器で表現すると、まあ太鼓を叩く前に腕が上がる動作によって空間にエネルギーが与えられるということになる。まあ、太鼓を叩くという動作をそういう風に考えて組み合わせていくことで、聴く人々をそれぞれの「無」の世界に引き入れていくのである。最後の方は中村さんの驚くべき技術の連続で多彩な音が出てきて盛り上がって終わった。

・・・次はピーター・エトヴェッシュによるバスティンパニーの為の「雷鳴」。これはもともとは「トライアングル」というティンパニー奏者が中心となって即興で構成される管楽器アンサンブルであるが、その中のティンパニーソロが独立した曲になったものということである。これには心底驚いた。ティンパニーからこれほど多彩な音が出て来ること自体が驚きであったが、それを実に音楽的に纏め上げている。音の高さは多分ペダルで太鼓の張りを変えることで行うのであるが、目新しかったのは太鼓の表面を指で擦る音である。ヴァイオリンが弦を弓で擦ることで音を出すのと同じ原理であるが、太鼓の場合擦る場所によって音が大きく変わるので、何処をどのように擦るかによってポルタメントのような音がいろいろと出せる。勿論叩くにしても撥で叩くのとか指で叩くのとか、まあ多彩としか表現できない。

・・・後半の最初は、ヘルムート・ラッヘンマンの「インテリオールI」。音が出て来る本源的な内部という意味。前半の3曲が太鼓を中心とした楽器で現代の打楽器奏法(中村さんの奏法というべきか?でも彼はドイツで教鞭を執っていて弟子を育てている。)の深みを紹介していたのに対して、この曲は、多数の楽器を周囲に並べておいて複雑に組み合わせるという、僕達が良く目にするパーカッションの音楽である。こういうのをやって最初に成功したのはシュトックハウゼンの「ツィクルス」という曲(1959年)らしいが、これはそれに中村氏のティンパニーの技術を加えているということである。見ていると目まぐるしく動くので、それはそれで見ものなのだが、音楽としては目を閉じて聴いた方が良く判る。結局様々な打楽器の音は一繋がりになったり対比されたり歌と伴奏になったりしているから彼の動きを見ないほうが音楽らしくなる。けれども異様な音がするとつい目を開けて何が起こったのかを見たくなるものである。打楽器の中には当然マリンバもあって、それを叩くときメロディーの複雑さと速さには驚いてしまう。精密に作曲されたフリージャズという感じ。

・・・最後はマウリツィオ・カーゲルの「エキゾチカ」から彼のソロ部分であった。これは意味の無い声によるメロディーを歌いながら、非西洋的な打楽器を奏する、という殆どが即興の音楽であるが、具体的にどうするかは作曲者とのやり取りで決める。彼が選んだ声は何となくアフリカ風の叫び声やうなり声であった。ドイツでやったときは日本語も使ったらしい。楽器はタンバリン。このタンバリンの使い方がこれまた驚くべき技術であった。

・・・アンコールはタンバリンだったり太鼓だったり、いずれも歌を伴い、一部では聴衆の参加もあったりして、何だか身体がのせられた感じ。

・・・終わってから、トークの時間があって、質問に答えたりしてくれた。楽譜も回覧された。基本的には一つの楽器の時間軸が横に引かれていて、叩くタイミングが記されているが、それ以上の記号は作曲家それぞれ独自であるから、最初にその定義が書かれている。勿論これだけでは不完全なので、後は演奏者とのやり取りである。作曲家も演奏者に奏法を教えてもらわなくてはならない。何年も一緒にやっているとお互いに判りあってくるので問題ないということであった。打楽器は種類が多いので、奏法を素早く身につける必要がある。これはまあ大変な努力である。西洋の伝統的な音楽では音というものを明確な音高を持ち、少なくとも19世紀までは音階や和声に属するものとして捉えてきた。それ以外の要素は個々の音の音色として追求の対象になったり、合奏の響きとして追及されたに過ぎない。20世紀になって、それまではノイズとして排除されてきた音自身の持つ魅力が再認識され、20世紀後半以降その突破口から打楽器が復権してきた。日本においては古来からむしろ音高や和声よりも音自身の魅力を中心とした音楽があったから、今日的な打楽器の復権においては日本人の奏者が世界をリードしているというのも自然な流れである。
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