2020.04.01
        マルクス・ガブリエルの本で、「自然主義」が攻撃されていて、それは絵画や文学の潮流だと思っていたので、何だろうと思ったのだが、どうやら自然科学万能主義を意味しているらしい。wikidipedia で調べると、元々は哲学用語で、そういう意味だったらしく、むしろ絵画や文学の方がその派生語らしい。以下『「私」は脳ではない:21世紀のための精神の哲学』(講談社選書メチエ)の読書メモである。議論の仕方には反発を覚えるが、言いたいことはよく判る。哲学史の勉強にもなった。

序論:
        ベルリンの壁が崩壊した翌年1990年に、ブッシュ大統領は「脳の10年」を宣言した。脳科学の進歩がめざましく、脳に関連する難病が克服出来るかも知れない。ドイツではそれから10年遅れて同じ宣言が出された。人が考えたりしている時の脳の状態の可視化が可能になった。これは思考の可視化ではないのだが、思考や意識までもが科学的に解明できるという幻想を与えた。神経中心主義である。「私」を脳と同一視してしまうと、私達は脳が現実を基に作り上げたイメージを認識しているに過ぎず、私達の精神生活の全てが幻覚である(神経構築主義)、ということになる。脳の観測で思考内容が判るのであれば、それは監視社会の為の強力な道具となる。我々はもはや「搾取される」のではなく、「解釈される」。自由の煩わしさよりも誰かに決定を委ねる安易さに浸りたい、という欲望に囚われてはならない。

        今日の科学とテクノロジーには、陰の部分、人間が生み出した予想外のスケールの問題がある。サイバー戦争、環境破壊、人口過剰、ドローン、ネットいじめ、SNSで準備されるテロ、原子爆弾、向精神薬漬けで注意欠陥障害になっている児童生徒。それでもテクノロジーはヘーゲルの「自由という意識の進歩」と両立する限り、歓迎すべきことである。他方、自己認識という領域での著しい後退を問題にしなくてはならない。問題になるのは、イデオロギー、つまり、反抗するものが無い限り嬉々として自己増殖していく、ある種の幻想である。イデオロギー批判は、哲学が果たすべき主要な役割であり、責任である。

        神経中心主義は、ニューロマニア(脳神経の働きについて知識を増やしていけば自分自身を認識できる)と、過激ダーウィン進化論(人間が他の生物との生存競争で獲得した遺伝的素質を再現すれば、人間の典型的な行動は理解出来る)のコンビネーションである。それは社会ダーウィニズムに直結する。

        人間の精神は、自分自身のイメージを作り出し、それによって精神にとっての現実を多数生み出す。このプロセスは神経生物学ではでは把握できない。人間の精神が純粋に生物学的な現象ではないからだ。精神にとっての現実は、産物として、芸術宗教、科学において私達の一層深い理解をもたらすこともあれば、幻想ーイデオロギー、自己欺瞞、幻覚、精神疾患であったりする。意識、自己意識、思考、「私」、肉体、無意識が私達と深く関わる。人間の精神は、これらの自己イメージの根底にあるものではない。自己イメージの中にのみ存在し、常に自分のイメージするものになる。

第1章:精神哲学
        20世紀になって、伝統的な精神哲学に新しい潮流 philosophy of mind が生まれた。これは意識の哲学とでも言うべき内容である。精神の領域とされていた多くの現象が科学的に説明されるにつれて、残されたのが意識だったからである。

        自然主義的形而上学では、現実はたった一つしか無い。自然は因果的に閉じているから、自然と精神という二元論は成り立たない。ただし、この場合の自然は、せいぜいニュートンとアインシュタインのレベルである。実際には量子論が発展して、超弦理論にまで至ると、もはや実験的に実証できるものではなくなっている。哲学は、伝統的に、精神を意識的体験といった主観的現象とは考えていない。精神は言葉と結びついている。精神科学が人文科学の意味で用いられるようになると、自然科学とは対立概念になってしまった。20世紀になって、精神科学は理解出来るものだけを研究するが、自然科学は理解しようとするのではなく解釈しようとする、と推定され、精神科学が現実的でなさそうな事象にしか関わらなくなった。しかし、ドイツ観念論の復活によって、現実を解釈する学問としての精神科学=哲学が認められるようになってきた。「精神は自己イメージを通して初めて作られる。人間の精神の本質は、自分自身のイメージと自分の立ち位置を、自分を凌駕する現実の中に描くことにある。(ヘーゲル)」philosophy of mind において、メンタルな内的活動が自然科学と如何に整合するのか、を研究するだけでよいのであれば、それは哲学ではない。

        人間は歴史的動物であるという実存主義に特徴的な概念はマルクスにも見られる。人間はまず存在するものとしてそこにあり、その後は、自分は存在するという事態と関連付け、どのような自分であろうとするのかを常に考えながら行動しなければならない。本質とは自分の存在と関連付けて行動することを指す。背後にはカントの倫理学がある。行為とは、常に目的がはっきりしていて、動機によって導かれるものを言う。行為を理解するには、その人の人生構想(投企)を理解しなければならない。自然科学のブレークスルーは、目的論無しで自然法則を言い表しているということである。アリストテレスは、自然は完全性を満たすという目的を持っていると考えたが、近代科学は、自然法則を数学で表現できる相互関係として発見してきた。それは日常レベルで我々が想定するものとはかけ離れてしまった。行為の目的論的説明もこの日常レベルでの想像であるから、その幻想から解き放たれた時にどんな法則があるか、ということが課題となってしまった。行為の目的論的説明は錯覚である、という考えは構造主義から始まった。ポスト構造主義もそれを引き継いだ。

第2章:意識
        自分が行うことの殆どは無意識である。意識はそれぞれの人の内的視点でしか判らない。ダニエル・デネットのいう「デカルト劇場」を見ているのは「私」である。それを操っているのは誰か?哲学では、それをホムンクルスと呼ぶが、一度それを認めてしまうと限りない論理的後退に直面する。カントは、そもそも思考という事象の担い手を(非物質的な魂にせよ、脳にせよ)何らかのものとして同定するのは誤った推論(誤謬推論)であるとした。我々には「物自体」(我々が意識に依存しなければ認識することが出来ないもの)を認識することが出来ない。それぞれの個体が認識するというのはそれぞれの「現象」である。これを超越的観念論という。空間と時間は私達人間の意識の映画の枠組み(直観の形式)にすぎず、「外」の「物自体]の現実の一部ではない。しかし、カントは、後の神経構築主義のように、その認識を神経システムに帰属したのではない。

        ローレンス・クラウスとリチャード・ドーキンスの「経験主義」に基づく宗教批判について。いくつかの世界宗教が生まれた時代、近代的概念としての「自然」は無かったから、神なり何なりが超自然的創造主であるという考えもまた無かった。全ての知識は経験からもたらされると考えてしまうと大変に厄介なことになる。このテーゼ自身が経験主義からは得られない。数学的知識はどうだろう?物の差異性と同一性はどうだろう?哲学ではそれらをアプリオリとする。感覚的経験では自分には意識があるということも意識がないということも判らない。(注:この議論は「経験」という概念をわざと狭く解釈したことによる屁理屈である。意識のある無しは間接的経験(何らかの測定や記録)で確認出来る。)ただ、意識が在るに無しを知ることと意識とは何かを知ることは別のことである。

        消去論的唯物論:宇宙には現実には物質的な状態と事象しかないのだから、我々の精神的状態というのはすべて幻想である。ポール・チャーチランドの素朴心理学:我々は他の人々や自分自身に意識的精神状態があるとみなしているが、それは、我々には自身の経験から導き出した、ある種の意識的精神状態があるからだ、つまり「心の理論」説。チャーチランドは素朴心理学が我々の命題的態度(命題(真偽いずれかになるメッセージ)に対して判断する)を前提にしていると考え、そもそも私達には命題的態度が無いと考え、この素朴心理学を否定した。しかし、その彼の判断こそが命題的態度である。(注:こういった議論のやり方、矛盾を付くやり方は、哲学固有の屁理屈である。論理学の悪用。)実際には命題的態度を抜きに意識を想定することは出来ない。

        意識的な人生とは、ある出来事において主観的な中心でいる、つまり「私」でいるということである。自分以外の意識的人生もある、ということを知るのは、人間の意識的人生の一部であり、トマス・ネーゲルはそれを倫理の基盤と見なしている。倫理とは、我々が善にも悪にもなり得るという事実に鑑みて、我々の行動原則をどのように根拠付けるかを体系的に考えることである。主観は意識の経験に基づくが、客観は、我々が我々とは独立したネットワークの一部である、という分別にある。殆どの事実は、我々にはいかんともしがたい、ということを皆知っているからこそ、我々自身の意識を度外視するという視点が必要となる。自らの思考回路が理想的ではない、ということを理解することは倫理の重要な一部である。利己主義も利他主義も行動を倫理的に見る場合の2つの側面であり、対立するものではない。意識の存在を否定すれば、自由を主張する根拠も無いし倫理の根拠も無くなる。主観が無ければ信念も無く、信念自身もまた、自分自身を度外視して、他者が自分をどう見ているかというイメージを描くことでしか成り立たない。自然科学的客観性も、意識してそれを手に入れない限り獲得できない。主観も客観もそれら自身では成立しない。

        人間以外の動物にも意識があるが、どの程度の神経系が必要なのかは判らないし、それは生物学の課題だろう。ドナルド・デイヴィッドソンは言葉を持たない動物は意識を持たないと断言した。他の生物の意識には人間には判らない構成要素がある。人間同士でもそうである。これをクオリアと呼ぶ。意識には志向性とクオリア(現象的意識)という2つの側面がある。志向的意識をエミュレートすることは出来る。AIによるロボットがそうだ。しかし、我々はロボットに現象的意識があるとは思わない。現象的意識は進化の過程で生まれたものだ。人間はアルゴリズムに翻訳可能なルール(プログラム)に従っているわけではない。逆に現象的意識のみであると想定してみると、それは対象が無くて純粋に時間を切り取ったような印象だけが残るだろう。ヒュームは内的体験を印象と観念に分類した。近代絵画の大きなテーマは印象を完璧に表現することであった。志向的意識と現象的意識とを分けてしまうと奇妙なものになってしまう。「中身の無い思考は空虚だ。概念の無い直観は盲目だ。」とカントは言った。人間以外の動物の場合には、概念が言葉ではない、というだけである。デネットは現象的意識の存在を否定し、志向性だけで意識を説明した。

        私達の理論とは、常に目の前のあるがままの現実を事実として受け入れつつ、私達が、我々の前に観察可能な形で現れる、現象として主観的に体験する、さまざまなデータの上に構築される。私達は生活世界から逃れる事は出来ない。我々の主観的知識は、物理の言葉を用いても排除、改善、無視出来ない。時間の経過は物理的には理解できない。エントロピーを持ち出すのは、時間の意識が理解されていないことを隠蔽しようとする企てである。意識の随伴現象説の背後にあるのは宇宙が因果の一人芝居で完結していて、クオリアなどというものは実は存在しないという確信である。つまり決定論。

        人間の精神は、自分自身のイメージを描く。日常体験という内なる視点から、鳥のような上からの視線に入れ替わる。イデオロギーは自由を嫌う。誰が実質的な鳥の目を持つのか、を争う。科学か、テクノロジーか、進歩か、グーグルか、神様か?

第3章:自己意識
        人には意識がある、ということについては、実際的には反論出来ない。人間の感情世界の大きな部分は、自己意識の形を取る。その本質は、自分の内面生活を内向きの視線で探ることにあるのではなく,志向的意識と現象的意識が原則として織り合わされていることにある。どのような意識の状態であれ、私達の前に現れるときには、すでにある種の方法で評価が下されている。このような土台があって初めて、なぜ私達の倫理的な価値が感情世界と結びついているのかを理解できる。他者が意識を持っているという意識を持ち、日常的に耐えず新たに調整し直すべきシステムとしてこの仕組みを体験しているからこそ、私達は倫理観を持つことが出来る。

        精神史は意識の拡張と変化の歴史でもある。意識は我々がそれをどのように理解するかとは無関係にそこに存在するものではない。言い換えると、意識は自己意識と結びついている。ヘーゲルの『精神現象学』はさまざまな意識の形を調べてその形成について語った本である。自己意識は他者の意識とも構造的に結びついている。自分の意識を他者の意識という基準に照らして養う。神経中心主義において、このことは「心の理論」として語られ、その物質的基盤としてミラーニューロンがあると言う。私達の精神的生活は自然・生物学的な条件と結びついている。しかし、精神生活がそれらの諸条件と同一であるということでもないし、自然科学的調査によって完全に理解できるということでもない。電磁波に対する我々の理解が深まったからと言って、色の印象が消え去るものではない。我々の体験は常に独立した次元をなしていて、それなしには私達の体験と結びつく自然科学的事実や事象を理解することはできない。ジョン・サール:我々の体験は存在論的に主観的であり、認識論的に客観的である。意識は存在論的には客観的でないから「誤り」を犯すが、その意識は主観的には「存在する」。社会的に相互作用を及ぼし合う、外に向けられた意識を脳内プロセスの描写に凝縮させることは出来ない。「精神は外にあるが、内に出現する(ホグレーベ)。」(外在主義)徹底すると、ヒラリー・パトナムの映画『マトリックス』で描かれたコンピュータ機能主義。一度も「水」に触れたことのない私がマトリックスの中の脳として「水」について知っていることの全ては、私が接続されているマシンが作り出した私の幻想から知ったものである。神経中心主義ではこのマシンを、進化、遺伝子、ニューロトランスミッター、といったバイオマシンに置き換えたものである。しかし、このような可能性を考えるのは、そもそも我々の言語が我々の内部を報告するだけでなく、外の環境についてこそ語っているという事実を見逃しているからにすぎない。

        意識と自己意識の関係。意識が常に自己意識に付き添われているとは言えない。フィヒテとヘーゲルは社会的相互作用という形で、自己意識の問題を解決しようとした。自己意識を持てるのは、我々が他者の意識を知覚し、その他者が我々との相互作用の中で彼らの自己意識を我々に植え込むからであると。「良心の声」である。(注:「際限のない根拠の後退、そもそも意識が無ければ、、、と言う議論が矛盾を指摘するために度々行われる。こういう哲学者の議論にはあまり意味がないと思う。)

第4章:実のところ「私」とは誰あるいは何なのか?
        ヒューム:「私」はさまざまな意識の状態の束であって、それらの状態を抜きにして「私」は存在しない。これに対して、「私」の物質説:「私」とは一つの実体であり、さまざまな意識の状態が現れる場である。フッサールの現象学:私に現れているさまざまな印象は意識として統合されている、それが「私」である。単なる束でもなく、物質でもない。意識を持っているという幻想を抱くと意識を持ててしまう。つまり、仮象と現実という通常の区分は意識には適用できないところが、他の現象とは違う(サール)。意識は誤って判断することがあるが、それでも自分が意識して体験していること自身は誤りようもない事実である。

        神経還元主義:神経科学で説明できそうもない現象を、神経科学で説明できるものに還元する。還元するにはそれなりの理由が必要である。存在論的還元主義:自然には思えない現象は、見かけとして在るだけであって、背後には自然の事象しか無い。理論還元主義:自然科学以外の言葉で描写できる現象は自然科学の言葉でもっと適切に描写できる。存在論的神経還元主義の大きな弱点の一つは、私達が心理的・社会歴史的諸条件に適合させた言葉で描写している行動変化を、実のところそのまま無批判に借用し、脳にそれらの行動変化の理由を求めようとしている点である。不変の「本質」というものがあり、この「本質」に人間は責任を負わないが、それを変えることも出来ないとされる。

        ドイツで最初に「私」を名詞にしたのはマイスター・エックハルト(1260〜1328年)である。「私」は、勿論、私が認識している物ではない。かと言ってその物を認識している「誰」かでもない。さまざまな物を認識することができる何かである。どのようにして多くの情報の流れが私達に知覚のレベルで一つの統一性を与えることが出来るのか(統合問題)は解決していない。エックハルトは「私」の非物質性という急進的なテーマを発見したのである。「私」は結局「神と同様な存在」であることになる。近代科学が「神」を抹消する思想はここに始まった。近代の科学的世界像は、実のところ全てを一神教から取り込みながらも、徹底的に神から自然を切り離し、この世界という見世物を神のように見物する者の席に、思考し、批判的に吟味する「私」を据えている。自然は、トマス・ネーゲル「どこでもないところからの眺め」、マルクス・ガブリエル「観察者のいない世界」と見える。自然科学がこのような絶対的客観を理想とするならば、私達は自然法則に従うしか無い生物種として記述されるしかないだろう。自分たちの確信や信念が利益と結びついていることを批判的に分析する能力は、自分の立場を理論的に度外視する能力(自分の立場から目を転じて他者の立場に立つ能力)と関連していて、この能力こそが「理性」と呼ばれているものである。絶対的客観というのは理想であって、私達の立場と決して無縁にはなりえない、ということを肝に銘じておかないと、エックハルトのように、自らが神であるという信念に囚われるだろう。

        フィヒテは「私」の自律性と、他者を通してそれが承認されることに関連を見出した最初の哲学者である。知の学問:我々が知っていることは沢山あるが、それらに共通する形式はあるのか?知の形式と内容はどう関係するのか?プラトンは数学という言葉に、一つ一つのステップを踏めば誰であれ洞察に達する、という意味を与えたが、フィヒテも同様で、知の形式を踏めば誰でも知の内容に至る、つまり理性普遍説を唱えた。絶対的客観についても理解できる筈だと考えた。その極限において、「私」と「私でないもの」が切り離される。

        第一原則:「私」=「私」。「私」とは、何かを知っている誰か、知の主体である。A を知っている「私」= B を知っている「私」、つまり、知の内容に応じて異なる「私」が存在するわけではない。
        第二原則:「私」≠「私でないもの」。絶対的客観という考えが背後にある。何かを知っている誰か、ではないもの、つまり、それを「自然」と定義した。ただし、誰かがそれらを知っている場合にだけ存在するような物や事実(幻想?)はその中には含まれない。また、自然は単にそのまま存在するのではなく、「私」の形態をしていないあらゆるものの総体としての自然という概念は「私」を度外視した結果として生まれたもの、つまり抽象の産物である。こうして、「私」が「自然」から隔離された結果、どうすれば「私」が再び自然に属することになるが出来るのかが判らなくなった。

        ネーゲルとサール:客観という理想は、それ自体は絶対的に客観的ではありえないひとつの立場、「私たち」の立場から形成されている。「私」と「私でないもの」を区別する理論は、社会的関連の中で作り上げられる。しかし、絶対的客観が存在しないわけでもなく、ニュートリノが「社会的に構成されている」わけでもない。最低限、絶対的客観しかない、ということはありえないということが言える。「私」が登場しない世界像は不完全である。何が自然に属するのかについての想定は、ある一つの立場・観点からなされる、つまり、改良を重ねてきた近代科学の手法で得られた絶対的客観モードで判断されるのだが、その判断の正しさの判断にはそれらの手法は使えない。

        第三原則:私は「私」の中で、(他者と)分かち合える「私」に対して、(他者と)分かち合える「私」でないものを対立させる。知の標準定義:知とは、その正当性が証明されている(真実性の条件)確信のことである。ただし、イデオロギーのように、間違えていることもあることは認める。追加して、知の正当化の条件:何かについて疑いが生じた時、すぐにもっともな理由で弁護出来る。誰かと分かち合える、伝達できる、という内容を含む。これが満たされないものは知ではなく、イメージである。イメージは、ある人が、その人個人に特化されたあらゆる状況を基にアクセスできる情報である。イメージは伝達できるが分かち合えない。感覚器が捉えてイメージが生じることがそのまま何かを知ることなのではない。第三原則を言い換えると、何かを知っている人は、それによって(他者と)分かち合える状態に移されている、という事。「私」は普遍的な知の主体である。「分かち合える「私」」とは、何かを知っている者が多く存在しうることを表す。「分かち合える「私でないもの」とは、絶対的客観モードで知ることができる全てを意味する。

        結局、「私」とは知の主体であって、つまり、何かを知っていて、その何かを伝達し、他者と分かち合える、ということであり、私自身から独立したホムンクルスではない。

        シェリングは、「私」が自然とどういう関係にあるのかを問いかけた。ヨハネス・ミュラーはこれに刺激を受けて、特殊神経エネルギーの法則を提唱した。外部構造の客観的構造が知覚を決定するのではなく、刺激された感覚器官のほうが、どのモードで知覚となるかを決定する。これが19世紀ドイツにおける「自然哲学」に繋がった。進化の中で自然界の進化を理解できる生物が生まれたとしたら、自然とはどういう性質であるべきか?人間原理(ネーゲル『精神と宇宙』):私達が観察できる宇宙は、その宇宙を観察する生物に適している筈だ。何故ならば私達はその宇宙で進化した生物だから。進化は主体ではないし、盲目の意図をもった誰かでもない。単に、種の誕生をもっともうまく説明する学説である。19世紀の自然哲学とその後継者達(マルクスやフロイト)は、「私」は完全に自律している、という考えに異議を唱えた。フィヒテは、自然とは「私」を度外視した結果として生まれたものにすぎない、と言ったのだが、その真意に反して、その自然がいかなる明確な意図もなく意識を持った生物を生み出したという印象が生まれる。

        フロイトは心理的なものを意識的なものと無意識的なものに分けたのだが、無意識的なものは器質的なプロセスから生じるのではなく、心理的なものに属する。精神分析の基本理念:私達が日常的に行う正当化の為の釈明には自分自身と他者に対する内面的態度がはっきりと表明されるが、その釈明は常に経験に根ざしており、その中のいくつかは自分では忘れたと思っているものだ。忘れたと思っている経験に対する抵抗が展開されることによって無意識が生じ、それを通して「性格」のようなものが生まれる。「私」とは、私達が自分の内面的態度にはきわめて正当な理由があると考える、私達の社会的相互作用を描写する、そのレベルである。私達の経験の一つ一つには他者が下した判断が添えられる為に、私達がそれらの評価とセットになった経験を一つの習慣として自分のなかに引き継ぐことで「私」が個人的なものになる。「超自我」は「理想型の私」、私達がもっともな理由として何を承認するのかを確定する。「エス(それ)」は欲動で、性欲動と死の欲動が区別される。「私」は、現実原則、つまり、私達がその存在や実現に関与していない事実と接触する、という状況を象徴している。「私」は何らかの場で事実と遭遇し、その中のいくつかは「私」がまずその存在を認めておくべき難しい現実である。「エス」は欲動を象徴し、難しい現実とは無関係であり、その現実のいくつかを変えることができる。「私」は「エス」の目と耳であり、「エス」の一部である。

        フロイトの理論は体系としての一貫性に問題があるが、見当外れのことを言っている訳ではない。ただ、多くの誤解を生んできた。「私」は有機体と自然環境の相互作用によって形成される生物的実体であるとか、長い文化史の結果として「超自我」まで生まれたとか、である。そのような神話から多くの洞察が生まれ、芸術が生まれ、フェンダー論が生まれたのであるから、その功績を否定することはできない。今日ではフロイトが当時の社会の父権的常識から陥った特異的なモデルが克服されている。

        私達は利己的でもないし利他的でもない。ただ、他者にもそれぞれの立場があることを理解することによって、自分の立場から距離を置くことが出来、そのことが精神を「私」として自己描写することに関係している。脳は私が巻き込まれている人間活動が存在するための必要条件である。「私」の発見は、自己認識という<歴史的な事象>の枠内で起きている。私達は、自分を「私」として解釈し、また自分を意識を持ち自己意識を持った状態として体験し、何かを知ったり、分かち与えたりすることが出来る。そのためにはある種の身体の仕組みが必要であるが、それで完全に説明出来るものではない。必要な生物的自然的条件を、歴史的に形作ってきた自己描写の要素と取り違えてはならない。この取り違えといことこそ、イデオロギーというものの基本形である。それは、自由からの解放、不安定で他者からの挑発を受ける自己描写から解放されたいという欲望を唆す。

第5章:自由
        生物学的実体としての私達の身体の仕組みとして、情報処理プロセスと意思決定プロセスの多くが私達が気づくことなく進んでいることは確かである。チェスの名人にしても、全ての手を読んでいる訳ではない。訓練と経験によって蓄積され、無意識の内に湧き上がる直観を駆使できるからこそ、そもそも時間制限内でのゲームが可能になる。しかし、自然法則が自然の成り行きを決定しているということを証明するのは不可能である。なぜなら証明の主体たる私達が自然の一部だからである。かといって、私達には自由意志がある、と想定するのはそれほど簡単でもない。

        自由意志のハード・プロブレム:そもそも私は私の欲することを選択する事は出来ない。意志を形成することで自分の欲することに影響を与えることができるのだが、その意志が自由に形成されるならば、私の欲することを選択することになる。。。要するに、論理的に元を辿っていくと、どこかで私は自分の意志とは関係なく、何かを欲しているのだ、という結論になってしまう。(注:このような循環論法を指摘することで矛盾を言い立てるのは哲学者の悪癖であるが、このジレンマを破るにはどこかで私が欲する原因を私の外部に求めざるを得ない。その外部をどう選択するかは一種の賭け(投機)のようなものである。要するに自分の欲することを受け入れることが「自由」であるのか、それとも思い切って自分の外部に心を投じることが「自由」なのか?それが思想の在り方を決める。)だから、これは神経決定論の改良版になってしまう。このような議論は神経や脳が主役とは限らない。昔からある、神学的決定論も同じことを言う。ルターは、人間には本当は自由意志は無く、全ては神が決定している、と言った。物理的決定論では素粒子物理学が全てを決定していて、そこで許されるのは宇宙の歴史における偶然にすぎない。その展開の先に神経決定論がある。このハード・プロブレムの困難性は、それらの決定論を超えてより深刻で、自由意志という概念自身の矛盾、例えば最大自然数と言う概念が矛盾であるような、に起因するかもしれない。

        ピーター・ヴァン・インワーゲンは、自由意志については、2つの立場がある、と述べた。一つは、自由と決定論が共存する(共存論)、もう一つは共存しない(非共存論)である。重要なポイントは、マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』で述べたように、この世の始まりから、たった一つの因果の連鎖が貫いているような、すべてを包括する現実は存在しない、ということである。宇宙は、そこから逃れることの出来ない(何度でも繰り返して上映される)劇映画ではない。非共存論者を駆り立てているのは、私達が匿名の因果の連鎖に翻弄されるただの玩具かも知れない、という恐怖である。しかし、私達の行為は、常に何かの原因があってその行為が起こるわけではないから、自由である。それにもかかわらず、その行為に導く、必要で、すべて揃って充分になる諸条件をすべてリストアップすることによって、行為を完全に理解することが出来る。それは偶然ではない。原因と理由は同じではないのである。

        ライプニッツの「充足理由の原理」:何事もそれが起きる理由が充足されなくては起こらない。しかし、これは自由とは矛盾しない。匿名の固い原因:望むと望まざるに関わらず結果が生じる。これに対して、理由は誰かがそれに従う意志があるときだけ何かを引き起こす。理由は動機にはなるが原因はそうではない。ジョン・マクダウェルは、「原因の論理空間」と「理由の論理空間」を区別した。我々の行動に必要な条件の多くは固い原因ではないから我々は自由なのである。決定論は、物理、神経科学、神学、それぞれの分野において機能し、それらの分野の論理の枠内にある。形而上学はありとあらゆるものの総体、つまり世界に取り組むのであるが、そのような最大の総体は存在しない。だから唯一の巨大な因果の連鎖があると想定する理由は無い。決定論は形而上学上のテーゼとして登場しているが、世界観にまで膨れ上がるべきではない。

        はじめから何もかも具象化すると矛盾の中に嵌まり込んでしまう。性急に「私」という物を持ち出し、それを中に意志という物が収納されている脳という物と同一視する。どんな物も自由ではなく自然法則に従うのだから、自由は無い、という結論に導かれる。人間は単なる物ではない。カントは価値と尊厳を区別した。何かが目的それ自体であるものには内なる価値、つまり尊厳がある。人間に尊厳が与えられているのは、私達が「目的の王国」(我々とは無関係に自動的に進行する自然の事象を理解するための概念ではなく、人間の行為を理解しやすくする為の概念の体系的結合)に住んでいるからである。自然の出来事は目的をまったく考慮しなくても完全に理解できる点で、行為と区別できる。人間は目的の王国に生きている。文明と精神史のおかげで、我々はもはや基本的に固い原因に操られないことを目指し、積極的意識的に働いている。他の動物種もそれぞれの目的の王国に生きているのかも知れないが、それを自覚して作ろうとしている(反省的考察)とまでは思えない。

        サルトルの基本概念:アンジッヒ(即自:自分自身と同一で自分自身について考えることで変化することが無い)とフュールジッヒ(対自:自分は正しいにせよ間違いにせよこうだと見なしている存在)。神という概念はアンジッヒであり且つフュールジッヒである。人間はアンジッヒとフュールジッヒとの間に隙間があるから自由である。この隙間を隠そうとする戦術の一つが「本質主義」である。一人の人間はその本質によって束縛されているという考えで、差別的な考えの論拠となる。「上に向かう野蛮化」とは、神を「私」の理想として選ぶ時である。現在ではもはや神は選択されず、その替りにポストヒューマニズム、トランスヒューマニズム、デジタル革命、サイボーグが理想として選ばれている。「下に向かう野蛮化」とは、過激ダーウィン進化論に感染して、人間の行為はすべて進化生物学の手法で完全に説明できると信じることである。いずれにおいても自由が否定される。

        フリードリッヒ・キットラーによる「精神の追放論」:「精神」と「人間」という概念は、近代になってから出来たものである。迷信というかっての精神世界は、人間の精神というたった一つの精神に置き換えられた。しかし、この精神は、なおも迷信として克服される運命にある。なぜなら、それは新たなテクノロジーや新しい者の秩序に有利になるように、消え去ろうとする、根拠の無い構成概念だからである。人は全てが変わり、全てが過去よりはましで決定的である革命が起きることを望んでいる。何よりも自由への要求がそれによって終わることを望んでいる。我々はこの宣言に対して抵抗しなくてはならない。

        精神の追放には、前史がある。ハイデッガー『ヒューマニズムについての書簡』は、実存主義に抵抗するために、ナチズムとドイツ人の本質というイメージを支持しようとしたノートである。精神という概念(自由)を存在(土地に結びつく)という概念に取り替える。ミシェル・フーコー『言葉と物』は人間という概念がどのように成立、変化したのか、を述べている。人間をさまざまな学問的言語表現の接点(構成概念)としか見なしていない。だから、人間は16世紀以降のヨーロッパで生み出され、近い内に人間の時代は終わるという。

        現実から逃避するよりも、社会的・政治的進歩を推し進めるべきである。現代でも多くの人間が困難な条件下で暮らしている。豊かな社会で皆がベジタリアンになっても、瞑想講座に通っても、問題は何ら解決しない。人間の最大の敵は未だに人間である。ユートピアのような未来には何の意義も無い。イデオロギー批判と言う意味で、ポスト・ヒューマン時代の到来という虚しい約束に反論できる人間精神の自己イメージを描くべく努めるのは哲学の主たる仕事である。

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