03.13
『世界の起源』ルイス・ダートネル(河出書房新社)
Karen Barad の哲学に始まって、量子力学を深追いする内に宇宙の起源に辿り着いたので、最近はこんな本ばかり読んでいるが、この本は結構面白い。『ブラタモリ』の世界版という感じがする。判りやすい説明図や地図が魅力的で、買っておいてもよいかなあ、という気になる。

        終章の要約が見事なので、書き写す。

・地球は絶え間なく変動する場所であり、その表面にある地物と地球規模のプロセスは人類の物語を通じて決定的な役割を果たしてきた。ヒトは東アフリカ地溝帯の地殻と気候の特殊な状況のなかで出現した。僕らはこの地で、猿人から宇宙飛行士にまで発展を遂げるのを可能にした多芸さと知能を、宇宙の周期による環境変動から与えられた。さらにそれ以前にも、5550万年前のPETMの急激な温度変化が僕らの種族、つまり霊長類を、偶蹄類と奇蹄類とともに急速に拡散させ、その子孫を僕らが家畜化するようになった。過去数千年間にわたる全般的な寒冷化や乾燥化の傾向など、その他の地球規模の変化はもっと段階的に起こった。そのおかげで草本類の分布が広がり、人類が穀物として栽培化するようになった変化だ。この地球規模の寒冷化は、気候が目まぐるしく変化した最終氷期に最盛期を迎え、それが大半の景観を形づくり、人類が世界各地にまで広がるのを可能にした。

・文明の歴史全体は現在の寒氷期のほんの一瞬の出来事なのだ。安定した気候が続く、つかの間の時代だ。この過去数千年間に、人類は岩石からなる地球の地下層を掘り出し、それを地上に積み上げて建物や記念碑を建造した。僕らは金属が特定の地質作用によって集中している場所で、それらを豊富に含む鉱石を採掘してきた。そして過去数百年間には、地球の過去の奇妙な時代で、太古の森が腐るのを拒んだ時代に生成された石炭を掘り、水中に沈んで、世界の酸素のない海底に沈殿したプランクトンから生成された原油を吸い上げてきた。

・人類は今では地球の全陸地の1/3以上を農地に変えた。鉱業や採石業は、世界中の河川を合わせたよりも多くの物質を動かしている。そして、僕らの産業は火山よりも多くの二酸化炭素を吐き出し、地球全体の気候を温暖化させている。僕らは世界を根底から変えてきたのだが、自然よりもこれほど圧倒的に優位に立つようになったのは、つい最近のことだ。地球は人類の物語の土台を作ってきたのであり、その景観と資源はいまも引き続き人間の文明を方向づけている。
      地球が僕らをつくったのだ。

    以下はメモ書きである。纏まってはいない。
『世界の起源』ルイス・ダートネル(河出書房新社)

第1章:人類の成り立ち
      新生代における地球寒冷化は5000万年前からである。インド亜大陸がユーラシア大陸に衝突してヒマラヤ山脈を作り、雨水に含まれた二酸化炭素が岩石中のケイ素と反応して、大気中二酸化炭素濃度が低下した。インドと東アジアにモンスーンを作り出し、東アフリカから湿った空気を吸いだした。3000万年前から400万年前にかけて、オーストラリアとニューギニアが北に移動してインドネシア海路が閉ざされ、インド洋に暖かい水が入らなくなり、蒸散量が減った。3000万年前、アフリカ北東部に地球内部からのマントルブルームが生じて、地殻を押し広げ始めた。紅海、アデン湾、地溝帯の Y 字形を作り出し、地溝帯の東西が険しい崖になった。その間に幅広く深い谷が生じた。東アフリカは熱帯雨林からサバンナへと風景を変えた。

      ヒトとチンパンジーは1300万年前から700万年前にかけて徐々に分かれて行って、遂に別の種になった。

440万年前の化石、アルデピテクス・ラミダスが一番古い。二足歩行であるが、樹上でも暮らし、脳のサイズはチンパンジーと変わらない。

400万年前のアウストラロピテクス類は完全な二足歩行で草原に適応していた。脳容量は450cm3。

200万年前になると彼らは絶滅し、ヒト族が現れる。ホモ・ハビリスではまだ脳はそれほど大きくない(600cm3)が、ホモ・エレクトスでは身体も脳のサイズを大きくなり、長距離走、投擲能力、子供時代の長さ、社会生活等の特徴が現れる。おそらく火も使っていた。

180万年前にはアフリカ全土に広がり、更にユーラシア大陸にも拡散していった。そこから、80万年前にホモ・ハイデルベルゲンシス、25万年前にヨーロッパでホモ・ネアンデルターレンシス、アジアでデニソワ人が出現し、30〜20万年前にホモ・サピエンスが東アフリカで登場した。脳容量は 1200cm3 になった。後期のアウストラピテクス(260万年前)からホモ・エレクトスまでは、オルドワン石器を使っていたが、170万年前からアシュール石器が使われ始めた。そこから更にムスティエ石器へと進化した。こうしてホモ属は有能な狩猟者となった。

       260万年前から氷河期に入り、ミランコヴィッチサイクルにより、40回から50回ほど氷期と間氷期が交替した。火山活動は複雑な地形を産み、地溝帯に出来た湖は変動し、ほぼ80万年周期での居住空間の変動がヒト族を進化させたと考えられる。270〜250万年前、190〜170万年前、100〜90万年前、という大変動期にホモ属の新種が出現している。また、ホモ・エレクトスがユーラシアに出たのが180万年前であり、そこからネアンデルタール人が生まれた。アフリカに残ったホモ・エレクトスからは現生人類が生まれた。東アフリカの多様な地形と激しい気候変動に晒されて知能がより進化したが故に現生人類だけが生き残ったと考えられる。

      世界の初期文明を見ると、例外なくプレート境界に出来ている。地殻変動は人類にしばしば豊かな環境と資源をもたらすのである。勿論それは危険と隣り合わせである。

第2章:大陸の放浪者達
      13〜12.7万年前の前回の間氷期は気温が2℃位高くて、海面は5m位高かった。最後の氷期は11.7万年前から10万年続いた。最盛期2.5~2.2万年前には海面は120mも低かった。現在の完新世(間氷期)は1.17万年前から始まった。地球の軌道はほぼ10万年周期で、正円と楕円の間を繰り返す。4.1万年周期で地軸の傾きが22.2〜24.5度の間を振動する。2.6万年周期で地球の自転軸が歳差運動をする。冬季の北極圏の夏がどれくらい低温になるか、によって連鎖反応的な寒冷化あるいは温暖化が決まる。ミランコヴィッチサイクルである。

      しかし、地球史全体を見た時にはより大きな影響が他にある。6600万年前の隕石衝突直前(白亜紀最後)には地球は蒸し暑くて、海面は300mも高かったが、5550万年前の暁新世・始新世境界(PETM)が最も暑かった。その後は寒冷化に向かった。原因は、ヒマラヤ山脈生成による大気中二酸化炭素と岩石の反応(反応物は海底に蓄積)、オーストリアと南アフリカの北方移動による南極の孤立化(赤道下の海水が来なくなることによる寒冷化)、パナマ地峡の形成による大西洋海流の生成(これは余分な水蒸気が冬季に大量の積雪をもたらした)。氷冠が南極に、ついで北極に出現し、太陽光を反射した。10万年前から、地軸の傾斜の為に、地球楕円軌道の太陽から最も遠い点において北半球の夏が訪れるようになり、氷期が強化された。

      ミトコンドリアDNAをたどれば母系の分岐系統が得られ、Y染色体のDNAをたどれば父系の分岐系統が得られる。いずれも、15万年程度を遡ると、アフリカに居た共通祖先に行き着く。現生人類は驚くほど遺伝的に均一であり、アフリカからユーラシアに出た一度切りの数千人の集団であったことが判る。それまでにも何回も出たのであるが、全て絶滅したということである。ユーラシア大陸で既に生息していたネアンデルタール人、デニソワ人との交雑の証拠が残っている。

      中東地域でしばし溜まった現生人類は、一つはヨーロッパに、一つは海岸沿いに東南アジア、東アジアからオーストラリアまで達した。4万年前位である。もう一つは北方に広がり、2万年前位にアメリカ大陸まで達した。

      1.1万年前には、温暖化が始まりユーラシアとアメリカの間が切れた。氷河は人類を世界中に拡散させただけでなく、とりわけ北アメリカの地形を作り、人類に影響を与えた。42.5万年位前には北海は大きな湖で、その決壊が起きた跡がドーバー海峡である。20万年前にも2回目の決壊が起きて、イギリスが大陸から分離された。イギリスは大陸でのゴタゴタに巻き込まれることなく歴史を刻むことができた。国民としてのアイデンティティをいち早く確立し、民主的な政体を整えた。防衛軍が少なくて済んだ為に海軍を育成できた。

第3章:生物学上の恩恵
      2〜1.5万年前までの間に再び温暖化が始まった。北アメリカでは黒海とほぼ同じ面積の巨大な氷の湖があった(アガシー湖)がこれが溶け出して、大洪水となって北極海に流れ込んだ。レヴァント地方(地中海東岸)にナトゥーフ人が最初に定住を始めていたのだが、アガシー湖の水の流出によって、北大西洋の塩分濃度が下がり、海底への沈み込みが止まった結果、赤道付近の暖かい水がヨーロッパ沿岸に来なくなって、急激な寒冷化が起きた。一部のナトゥーフ人は狩猟採集を諦めて農耕へと舵を切った。その後この一時的な寒冷化が収まると、あちこちで農業が始まった。1.1万年前である。

      農耕の条件として最も重要なものは気候の安定である。この条件が満たされたのが、現在の間氷期である。肥沃な三日月地帯では1.1〜0.8万年前に、小麦、大麦、レンズ豆;インドでは5000〜4000年前に、稲、綿花、雑穀;中国では、1000から8000年前に雑穀、稲、大豆、ニューギニアでは、7000〜4000年前に、バナナ、タロイモ、ヤムイモ;北アメリカでは、5000〜4000年前に、カボチャ、ヒマワリ;メソアメリカでは、10000〜3000年前に、カボチャ、トウモロコシ、トウガラシ(後にインゲンマメとトマト);南アメリカでは、10000〜4000年前に、カボチャ、ジャガイモ、綿花;アフリカサヘルでは、5000〜2000年前に、モロコシ、アフリカイネ。勿論気候の条件だけでなく、石臼や鍋といった食品加工技術を持っていたということも重要であった。農業は食料を安定に供給できるから人口が増加するが、もはや後戻りは出来ない。また人口増加は社会の階層化をもたらす。

      エジプト文明は、ナイル川の恵みが周辺の砂漠化によって守られた結果である。

      犬は1.8万年前の最終氷期に狼から手懐けられた。羊とヤギは1万年前にレヴァントで、羊はトロス山脈、ヤギはザグロス山脈の麓。牛は近東とインドで、野生のオーロックスから家畜化された。豚は1〜0.9万年前、鶏は、南アジアで0.8万年前、リャマは5,000年前にアンデス地方で、七面鳥は3000年前にメキシコで、ホロホロチョウはサヘルで、、。肉、乳、獣毛の利用。輸送と牽引。遊牧民の誕生。

      植物の変化。石炭紀の植物はシダ植物。精子は湿地帯を利用してその中を泳いで卵子に到達する。その後裸子植物が出てくる。針葉樹。生殖に水を必要としなくなった。そして被子植物が出てくる。白亜紀後期には一応これらが揃っていたが、草本類はまだ無かった。草原は無かった。5500万年前に草本類が現れたが、地球が寒冷化し、2,000から1000万年の間に草本類が地表を支配するようになった。農耕時代の人類はそれを主食としたのである。イネ科、マメ科、アブラナ科、ナス科、セリ科。バラ科、ミカン科は果物である。

      哺乳類は1.5奥年前に出現し、6600年前に恐竜が絶滅したことで、地表を支配する。1000万年前にやっと、今日の哺乳類の大半を占める、偶蹄目(ウシ類)、奇蹄目(ウマ類)、霊長目(APP哺乳類)が出てきたのは1000万年前である。その起因が暁新世始新世境界の極度の温暖化(PETM)である。気温は5〜8℃高く、極地まで熱帯化し、多くの動物が進化した。急速な高温化の原因は海底のメタンハイドレートの分解であった。その後の寒冷化、乾燥化によって偶蹄目(ウシ類)、奇蹄目(ウマ類)が優勢を占めるようになった。そして、再び地球が温暖化に向かう時に、人類は農耕を始めて、これらの動物を利用するようになった。ユーラシアは東西に長い為に、農耕技術が広がりやすいが、大型哺乳類も豊富だった。ただ、馬とラクダについては元々アメリカ大陸で生まれたのだが、ベーリング海峡が陸続きになっている間にユーラシア大陸に移動し、残された動物達は、同じ海峡を逆向きに渡ってきた人類によって絶滅させられたのである。これがアメリカ大陸での文明の発展を遅らせることになった。

      初期の文明は大河の周辺に生まれた。灌漑設備の整備こそが支配者を権威付けるものであった。ユーラシア大陸の大河はいずれもチベット高原に端を発する。現在中国はこの地域の重要性を認識していて、漢民族の移住を奨励している。水だけでなく、銅と鉄も豊富である。

第4章:海の地理
      最終氷期、海面は低下していて、イギリスとデンマークの間には巨大は砂が堆積していて、狩猟場であったが、今では北海の真ん中の浅瀬となって、巨大は漁場(ドッガーバンック)こになっている。古代スカンジナビアの漁民はここで漁業を覚えて、大西洋を西へと開拓し、ニューファウンドランドに入植した。コロンブスの500年前である。

      オランダ人は海底に沈んだ土地を取り戻すために干拓事業を行い、そのために教会や議会は住民からのファンドを募ったことで、資本主義へと移行した。それは17世紀には貿易船への共同出資へと発展した。先物市場も中央銀行もオランダで発明された。

      地中海という内海は、プレート同士のせめぎあいの地である。周辺には山脈があり、航海の指標となり、潮の干満は非常に少なく、海路での交易に最適である。ただ、複雑に入り組む北側と平坦で背後に砂漠を抱える南側は対照的であり、文明は前者に偏った。カルタゴとアレクサンドリアはその例外である。

      25,000万年前は超大陸パンゲアが赤道付近にテチス海を挟んで地表を占めていた。8,000万年前、北アメリカがパンゲアから引き離され、北大西洋が形成され、南アメリカがアフリカから引き離された。インドは南極から分離して北に向かい、アフリカはヨーロッパに向かった。4500〜1500万年前の間に、アフリカ、アラビア、インドが衝突して、ユーラシアになり、ヒマラヤからアルプスに渡る山脈の帯を築いた。アフリカが北に進むに連れて、テチス海は半ば干上がり、海底堆積物が盛り上がって山になった。1500万年前には、まだテチス海の両端が開いていた。西はジブラルタル海峡、東はペルシャ湾である。その後紅海が出来て、イベリア半島がアフリカからアジアへと移動し、ザクロス山脈が形成され、東側が閉じられた。テチス海はほぼ干上がって汽水湖となり、今日は黒海、カスピ海、アラル海として痕跡が残る。更にアフリカが北上してついにジブラルタル海峡が閉じられ、地中海は干上がって塩で埋まり、時折大西洋から溢れた海水がなだれ込むようになった。世界の塩分の6%が地中海の海底に閉じ込められた。この海水のなだれ込みによって海底が削られて、ジブラルタル海峡の地形が出来た。いずれ地中海は消滅するだろう。南側と北側の沿岸地形の差異は、アフリカプレートがヨーロッパのプレートの下に潜り込むことで生じている。

      東南アジアはユーラシア大陸棚の一部であって、インド・オーストラリアプレートと太平洋プレートが潜り込んで、火山活動が盛んである。7.4万年前のトバ火山噴火はその灰が寒冷化をもたらし、ヒト族の人口を激減させたと言われている。東南アジアの諸島では大きな帝国は出来なかったが交易が盛んだった。とりわけ多様な香辛料は他では得られないものであった。

      ギリシャは陸地が山で細分され耕地も大河も無い。都市が独立しやすかった。オリーブ油やワインが出来たので、交易や植民地化によって穀物を地中海沿岸と黒海沿岸から得た。アテナイは黒海にとの海路であるヘレスポイントをスパルタに攻撃されて、食料を絶たれた結果、ペロポネソス戦争に負けた。同様の海峡は、ジブラルタル海峡、紅海のハブ・エルマンデブ海峡、ペルシャ湾のホルムズ海峡、マラッカ海峡。ヨーロッパ各国はこれらの海峡の近くに要塞を築き、交易を独占しようとした。現代ではこれらの海峡を石油が通る。

      アメリカ南部にブラックベルトという弧状の領域がある。ここには白亜紀の地層が露出している。当時は気温が高く、このあたりは海辺で、アパラチア山脈を削った土が堆積していて、頁岩となった。土壌が黒っぽくて肥沃であったために、綿花が栽培されるようになり、アフリカから連れてこられた黒人の子孫が今でも多い。かって栄えていたが、今は経済的に苦しんでいて、公民権運動の中心地でもあった。だから、この弧状帯は今でも民主党の地盤である。

第5章:何を建材とするか
      ピラミッドを構成する石は、大型有孔虫、ヌンムリテスの死骸の堆積で出来た石灰岩である。4000〜5000万年前にテチス海周辺の温かくて浅い海に堆積した。メソポタミアでは木と粘土が建材として使われた。レンガや土器も粘土を焼いて作られる。岩石には堆積岩(砂岩、石灰岩、チョーク)、火成岩(花崗岩)、変成岩(大理石、スレート)があり、これらはそれぞれの地域で使われた。

      石灰岩:ヌンステリムス、ウーライト、大理石(石灰岩がマグマの圧力で変成した)。チョークも石灰岩の一種、有孔虫と円石藻の殻。フリントはシリカ、珪藻や放散虫の殻。

      25200万年前、ペルム紀と三畳紀の境界での大絶滅は、超大陸パンゲアが出来た時であった。溶岩が大量に吹き出したため。玄武岩が残っている。大量の二酸化炭素も放出されて、極度に温暖化が起きた。その後、同様な事は何度も起きたが、パンゲア大陸が分裂し、海洋が広がったために二酸化炭素が効率的に吸収されるようになった。もう一つの緩衝作用は13000万年前からの円石藻の繁茂であった。

      花崗岩はマグマが地下で固まることで生成される。プレートが潜り込むその先の地下で生成する。その上の堆積岩が削られることで地表に出てくる。侵食を受けて白っぽい砂になる。磁器の主原料である。

      イギリスには30億年に亘る岩石層が揃っている。その地層に沿って様々な石材の建物が見られる。マンハッタンは硬い変成岩の巨大な塊の上にあって、高層ビルに耐えられるが、ロンドンは粘土質でそうはいかない。地下鉄が出来た当初は涼しかったのだが、粘土層は断熱性が高い為に、現在では持ち込まれるエネルギーが蓄積されて、極めて暑くなっている。

第6章:僕らの金属の世界
      青銅は4000年前メソポタミアで使われ始めた。銅は比較的容易に手に入るが、錫はドイツとチェコの境界あたり、イギリスのコーンウォール等で産出する。これが交易で運ばれた。花崗岩質のマグマが堆積岩の層に貫入したとき、高温の水に溶け出して多様な金属が鉱脈として析出する。プレートが生成する場所で地表に出て、プレートが入り込むばしょで再び地下に入る。この時、硫化物粒子の黒いブルームが生じる。熱水噴出口である。生命発祥の場所とされている。プレートが衝突して山脈を押し上げるとそこには鉱脈が含まれる。キプロス島のトロードス山脈には海洋地殻が押し上げられて残っている。Cu 記号の由来である。

      鉄は酸化物が装飾用に使われていたが、精錬が始まったのは1300年前のアナトリア半島であった。木炭と一緒に熱せられたものを叩いて精錬した。BC5世紀に中国で、AC11世紀にはアラビアで、ヨーロッパではAC13世紀に、高炉による製鉄が始まった。溶融を助けるために石灰が加えられ、フイゴを使った高温炉が使われた。AC3世紀に犂(からすき: plough,またはplow:ウシに引かせて畑を最初に深耕する)が発明されて、北ヨーロッパの重い粘土質土壌が耕作地へと姿を変えて、人口や文明の分布に大きな影響を与えた。

      大質量の恒星で、水素からヘリウムが生成され、更に炭素、硫黄、珪素と進み最後にニッケルと鉄になる。巨星は超新星爆発を起こし、宇宙に重量元素がばらまかれる。それ以外の重い元素、金、レアアース、ウラン等は中性子星同士の衝突で作られた。地球は宇宙屑が集まって重力で熱を発し、重い鉄が中心部に集まり、表面が冷えて地殻となった。間にには溶融マントルがある。親鉄元素、金、銀、ニッケル、タングステン、白金族元素は鉄の中に閉じ込められている。現在見つかる金は、小惑星の衝突でもたらされたものである。地球中心部の鉄は地球磁場を作り、宇宙線から地表を守っている。鉄はマントルや地殻の中にも残っている。縞状鉄鉱床である。大多数は26〜22億万年前に堆積した。そのころ地球はまだ熱く、酸素は殆ど無かった。初期のシアノバクテリアが酸素を排出した。24.2億万年大酸化事変(GOE)があった。酸素がメタンを酸化したために、温室効果が薄れて、地球は寒冷化した。23〜22億年前である。その間に、火山活動で二酸化炭素が補給されて氷河が融解した。酸素は当時の生物にとって毒素であったから殆どが絶滅した。しかし、酸素はオゾンを作り出し、紫外線から地表を守るようになった。酸素が無ければ、鉄は還元状態で水に溶存する。陸地の侵食によって海の鉄濃度が高くなっていたのだが、空気中に酸素が増えてくると、波打ち際で大量の鉄が酸化されて沈殿した。酸素は、複雑な生命をもたらしだけでなく、人間に利用可能な火をもたらした。

      鉄は今日人間に使われている金属の95%を占める。使われる金属の種類は極めて多い。アルミニュームはその中でも目立つ。最近使われるようになったのが、レアアースメタルと白金族元素である。レアアーズはほぼ中国で精錬されている。白金族元素はほぼ南アフリカで発掘されている。ブッシュフェルト・コンプレックスには20億年前に巨大なマグマが地表付近まで貫入して冷えた。白金族の一部、数種のレアアース、リチウム、インジウム、ガリウムは絶滅危惧元素とされている。ハイテク機器にはこれらの金属が含まれていて、都市鉱山と呼ばれている。

第7章:シルクロードとステップの民
      BC1000年頃からあったユーラシア大陸中央部の通商は、AC1世紀頃から急激に活発化した。東には漢王朝、西にはローマ帝国があった。黄河と長江の間の平原が中国の中心である。ここには、260年間の氷期の繰り返しと砂漠からの砂塵によって、黄土が堆積し、最深で100mに達している。東には太平洋、西にはチベット高原とヒマラヤ山脈、南には密林が自然の境界であったが、北の境界は明確ではなく、王朝の主要な防衛線であった、ローマ帝国は地中海沿岸を領域として、南は砂漠、西は大西洋、北はライン川とドナウ川、東はカルパチア山脈から黒海の沿岸までである。いずれの帝国も2世紀始めには、人口5000万人、面積400〜500万m2である。絹取引が盛んであった。その通商路は多様に分岐しているが、いずれも砂漠を通り抜ける。ヒマラヤ山脈とチベット高原は南からの湿った大気から水分を奪い取るために、その北側に砂漠が広がるのである。ラクダは数百万年前にアメリカ大陸からベーリング海峡を渡ってきた。コブには脂肪を蓄え、乾燥に適応した。体内水分を1/3失っても耐える。尿と糞は高度に濃縮され、呼気からは水分が回収される。足にはパッドが付いている。絹の他、金、食塩、胡椒、シナモン、生姜、ナツメグ、綿、真珠、絨毯、皮革、ガラス、トパーズ、産後、乳香、貴石、藍、更には、哲学、宗教、数学、医学、天文学、地図、鐙、製紙、印刷、火薬、も伝わった。16世紀の大航海時代までこれらの交易が続いた。

      ツンドラ帯と砂漠帯の中間には草原(ステップ)が拡がっている。西から、ポントス・カスピ海ステップ、カザフステップ、東部ステップ。中国東北部。狩猟採集は出来ない。ここでは馬が適応している。これもアメリカ大陸から渡来した動物である。牛とは異なり、馬は凍っていても蹄で割って草を食べることが出来る。新石器時代には馬は食料だった。BC4800年頃家畜化されたと考えられている。BC3300年にはメソポタミアから四輪貨車が導入されて、馬の草を求めてステップを動き回る遊牧民が誕生した。騎馬遊牧民は周辺の農耕文明との間で衝突を起こしてきた。BC6〜1世紀の間、アルタイ山脈近傍にスキタイ人が勃興し、アッシリア、アケメネス朝ペルシャ、アレクサンドロス大王と戦った。中国とは、匈奴、契丹、ウィグル、キルギス、モンゴルが戦った。AC5〜16世紀には、フン、アヴァール、ブルガール、マジャール、カルムイク、クマン、ペチェネグ、モンゴルがヨーロッパに侵入した。遊牧民は侵入しても馬を養うような草原が無いので、略奪して引き返すが、一部は生活様式を変えて定住した。

      AC3世紀、寒冷化によりフン族が東ヨーロッパに牧草を求めて、そこに居たゲルマン民族を追い払い、ゲルマン民族は西ローマ帝国に侵入した。4世紀後半には、フン族自身が東ローマ帝国に侵入し、戦利品を得て、更に5世紀には、西ローマ帝国を攻撃した。ペルシャも攻撃を受けて、西ローマ帝国と同盟を結んだ。しかし、移住してくる部族は西ローマ帝国に侵入した。フランスとドイツはフランク族、スペインは西ゴート族、イタリアは東ゴート族、シチリア島、サルデーニャ島、コルシカ島はヴァンダル族である。13世紀には、モンゴル帝国が広大なステップ地帯の民族を統合し、中国、ロシア、南西アジアを制覇した。パックス・モンゴリカの時代、シルクロードでの交易が盛んになった。高炉と火薬がヨーロッパに伝わり、後に戦争の本質を変えた。14世紀、ペストも高原から伝わり、ヨーロッパも中国もその犠牲になった。西ヨーロッパでは人口が減って、農奴制が崩壊した。イスラムはモンゴルの直接攻撃を受けて、ヨーロッパに比べて弱体化されてしまったが、オスマントルコが残った。16世紀半ばには、ヨーロッパのルネッサンス国家、ロシア、中国が、軍事技術を一変させて、遊牧民に対して優位に立った。火薬、大砲、銃、兵站の整備、経済力の向上により、自国を中央集権化し、遊牧民を征服した。ロシアはステップ地帯に鉱脈を見出し、農地に変えていった。ヒットラーが狙ったのはその耕地である。

第8章:地球の送風機と大航海時代
      イベリア半島からイスラム勢力が追い払われたのは1492年であった。北アフリカのグラナダを占拠し、アフリカ西岸を南下した。沖合にカナリア諸島、アゾレス諸島、マディラ諸島を発見した。この海域には旋回風が吹いていて、海流も利用すると、海岸沿いに南下し、沖合に出て風に乗ってイベリア半島に帰ることができる。また島々は海嶺につながる火山であり、ブドウとサトウキビ栽培に適していたから、アフリカから連れてきた奴隷労働が行われた。

      ボハドール岬の沖合は急激に訪れる東風で流される危険性があり、海岸線沿いに進むと砂堆が多くて座礁する可能性があった。ここを乗り越える航法が1434年に開発された。途中で何回も投錨し、海流の方向を定めて船の進む方向を計算し直すのである。ここを乗り越えて、カーヴェルデ諸島を発見し、西アフリカを超えて、ギニア湾に入ると無風になる。更に北極星が見えなくなる。しかし、ポルトガル人達は新たな指標となる南十字星を発見した。南半球アフリカの西海岸を探索し、石柱を立てていった。西海岸沿いは逆の風と潮の流れであった。

      1487年、バルトロメウ・ディアスは西海岸から離れて大洋に向かった。赤道の北側と同様な循環流を期待したのだが、その通りとなり、彼は西風に乗ってアフリカの南端に近づくことが出来た。聖書に反してアフリカには終端があった。

      中世においても、多くの知識人は地球が円いと思っていた。西からやってくる漂流物はインドのものと思われた。コロンブスの提案はカスティリアのイサベル女王に受け入れられたために、その影響下にあるカナリア諸島から出発し、ここは東風の緯度にあったため、容易に大西洋を横断出来た。帰りは北に登り、偏西風帯に乗って帰国した。1492年である。以後そこが新しい大陸であることが徐々に判って来た。

      緯度帯による東風と西風の交替という知識が蓄積していなければ、これらの発見は無かった。赤道の南北約30度の間は、赤道で熱せられた湿った空気が大きな対流(ハドレーセル)をなしている。地表では赤道へ帰る乾いた空気が地球自転の影響で東風(貿易風)となる。他方両極から約30度の緯度では極での下方気流に促された上昇気流が生じて循環(ポーラーセル)していて、これも地表では東風(極東風)となる。間の緯度30〜60度の間はこれらの気流につられて循環(フェレルセル)が起こり、地表では北に向かう空気が地球自転の影響で西風(偏西風)となる。

      インド洋と東南アジアでは、上記の緯度帯による規則正しい風がモンスーンによって乱されている。チベット高原とヒマラヤ山脈が壁を作っているために、季節によって交替する陸地と海洋の温度差が極端に大きくなり、夏は南西風、冬は東北風となる。ヴァスコ・ダ・ガマが初めてインドに到達した時にはうまく南西風に乗ったのだが、帰りを急ぎすぎて逆風となり、壊血病で多くの船員を失った。やがてポルトガル人達は武器を携えて香料の原産地を探し出し、1520年には王室の歳入の40%が香辛料貿易からもたらされるようになっていた。スペイン、オランダ、イギリス、フランスがそれに続いた。貿易船は風を最大限利用する横帆の大型船となり、風に乗ることで効率的に交易品を運んだ。

      スペイン人はアメリカ大陸を開拓し、1513年にパナマ地峡を歩いて太平洋を発見した。1520年にはマゼランが南アメリカ南端を廻った。マゼランはフィリピンに到達し、帰路をそのまま西に取り地球を一周した。太平洋を東に帰る方法の発見は40年後となった。日本近傍まで北上すれば偏西風に乗れるのである。スペイン人はアメリカ大陸で銀を採鉱して、自国に持ち帰るだけでなく、フィリピンで絹、磁器、香、麝香、香辛料を得て、大量の銀が中国に流れた。この銀はインドのタージマハール廟の建設の資金ともなった。

      1611年には、オランダによって、インド洋のモンスーンを避けて、喜望峰から南に向かい偏西風に乗ってから北上することで、素早くジャワ島に到達する航路(ブラウエル航路)が開拓された。

      1700年には、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ大陸の間で三角貿易が生まれた。ヨーロッパから安い布と武器を積みだし、西アフリカで布と交換して奴隷を積み込み、アメリカ大陸で奴隷と交換して、現地で生産された安い綿、砂糖、コーヒー、タバコがヨーロッパにもたらされた。これらの産物は元々はアフリカとインドで栽培されていたものであるが、アメリカ大陸に持ち込まれたのである。この奴隷を利用した「永久機関」は1865年に南北戦争が終結するまで続いた。

第9章:エネルギー
      長い間、人類の主要なエネルギー源は木材だった。自然林から始まり、限界に達すると萌芽更新(ひこばえによる再生)が行われた。ヨーロッパでは17世紀半ばから木材が不足し始めた。もう一つの重要なエネルギー源は筋力であるが、これは食糧を必要とするから、人口に対する農地の限界がやってくる。自然エネルギーとしては、昔から、水車や風車が使われてきた。風車を利用した機械革命は10〜13世紀に起こり、中世ヨーロッパの生産様式を特徴付けている。いずれにしても元々は太陽光のエネルギーであり、どれだけ適した土地があるか、で左右される。地下から取り出す新しいエネルギー源、石炭は2世紀頃には中国でもヨーロッパでも使われてはいたが、18世紀ヨーロッパで初めて、石炭が本格的に使われ始めた。コークス化によって、鉄の精錬が行われ、紡績業の動力として、新たな発明、蒸気機関が水車に代わって使われる。更に輸送用にも使われた。石炭、鉄、上記機関はお互いに助け合って、発展した。

      石炭紀(3.6〜3億年前)、超大陸パンゲアがあって、北アメリカ東部、ヨーロッパ西部、中部は赤道直下にあり、森林と低湿地であった。植物はトクサ類、ヒゲノカズラ類、ミズナラ類、シダ類で、石炭の主要材料となるヒゲノカズラは直径 1m、高さ30mにもなる枝の無い緑の柱であった。動物は、巨大なゴキブリ、クモ、ヤスデ(体長1m)、馬のサイズのイモリのような両生類、広げると75cmにもなるトンボ。他の昆虫は居ない。石炭が生成した理由は湿地による酸素不足とヒゲノカズラの繁茂だけではない。ヒゲノカズラを支えていたのはセルロースではなく、リグニンだった。当時の真菌はルグニンを分解する酵素をまだ用意していなかった。という説は近年疑われるようになってきた。むしろ地質学的な影響があった。パンゲア大陸が赤道付近と両極間の海流を妨げたことと、泥炭化によって二酸化炭素濃度が減少した為に、赤道付近の灼熱とは別に、両極は寒冷化し、石炭紀の中頃には氷河が出来ていた。それはミランコヴィッチサイクルによって変動し、海面の上下が繰り返されたために、堆積した泥炭は定期的に堆積物で覆われたのである。イギリスの炭鉱では、鉄鉱石の層とか石灰岩の層が積み重なって見出され、精錬の3要素が揃ってしまう。更に、パンゲア大陸が構築されていく過程において、造山運動が生じていて、アパラチア山脈、アトラス山脈、ピレネー山脈、ウラル山脈等が生じると共に、間には下方へ湾曲した地殻が、ガンジス川流域のような盆地を作り出した。そこに泥炭が集積し、さらに地殻が沈み込むことで閉じ込められる。

      産業革命がイギリスで始まったのは、木材の不足、熟練労働者の賃金上昇、といった経済的圧力が、機械開発の動機となったことと、インドからの安い綿花から織物を生産する需要である。元を辿ればインドにおける奴隷労働である。同時に地下資源にも恵まれていた。ヨーロッパ大陸ではフランスとドイツの間に同様の地下資源があり、工業の中心となった。北アメリカでは、木材が豊富だったために、19世紀後半まで木炭から石炭への移行が始まらなかった。アメリカでも同様の地域がアパラチア山脈にある。炭鉱労働者の組合から生まれた労働党の地盤は、炭鉱が閉鎖されてしまった今でも、石炭紀堆積物の地層帯にある。

      石油も昔から使われてきた。4000年前にはバビロンでアスファルトが石材の接着剤として使われていた。350年には中国で海水を加熱する燃料として使われていた。19世紀後半から急激に使われるようになった。初期には潤滑油や街灯用の灯油であるが、1867年にドイツでガソリンによる内燃機関が発明されてから急激に消費量が増えた。16%は石油化学製品の原料になっている。

      石油はジュラ紀と白亜期中期にテチス海で海洋プランクトンの死骸から作られた。捕食されないプランクトンは大陸から流されてきた鉱物の粒子等と一緒になってマリンスノーとして沈殿していくが、充分な酸素があれば細菌によって消化分解されてしまう。海洋表層でプランクトンが大発生して、海底の酸素濃度が低い場合には海底に黒い泥として蓄積し、押しつぶされて黒い頁岩となる。更に地中に沈んで、50〜100℃を通過して、分解されて長鎖炭化水素になる。更に深部で高温に晒されると、短鎖炭化水素、つまり天然ガスになる。

      白亜期にはパンゲア大陸は南北に分かれて、地球を一巡する赤道周りの海路が出来ていたから、海水温は25〜30℃まで上がり、植物は繁茂し、海水面も今より300m位高かった。プランクトンは大量に発生した上に、氷冠が無くなって、塩熱循環が止まったため、深海に酸素が循環しなくなった。死の海となった。

      地中に閉じ込められた炭素の解放により、二酸化炭素濃度が上昇し、急激な気候変動が起きている。炭素源を保存したまま太陽エネルギーを利用すべきであろう。あるいは、太陽エネルギーの根源である核融合技術を確立するか?

終章:(要約が見事なので、一番最初に書き写しておいた。)

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