2019.04.10
佐藤文隆の『佐藤文隆先生の量子論』(ブルーバックス、2017年)を図書館で借りた。これはなかなか良く纏まっている。量子論の観測問題に絡む実験をこれだけ判りやすく全体的に纏めた和書は無いかもしれない。最初にこれを読めばよかった!数式的な部分を本文と分離している処も良い。ただ、表現にやや独りよがりの感じがあり、その分彼の心に分け入って良く考えないと先に進めない。一通り教科書的に量子力学を勉強した人向けかもしれない。第3章までは、歴史と物理の話なので、ここでは纏めない。第4章『物理的実在と解釈問題』に絞る。

●判りにくい Einstein、Podolsky、Rosen の論文の趣旨については、
    系を乱すことなく値を決定できるならば、その物理量は実在している。
    完全な理論は実在している物理量を予言できなければならない。
    量子力学によれば、
    相互作用していて、分離した粒子の片方 A を測定することで他方の値 B が決まる。
    値 B は A とは独立しており、B の系を乱すことなく決定されるから実在している。
    決まった値 B は、A の測定時に瞬時に決まった筈がない(局所性・分離性から)。
    ということは、相互作用の時に決まっている筈である(隠れた変数がある)。
    しかるに、A を測定するまでは B を予言できない(確率的にしか決まっていない)。
    だから、量子力学は不完全である。

●この主張の裏に隠れているのが以下の素朴実在論であり、今日では破綻している。
    1.観測とは無関係に実在がある
    2.観測の概念は理論において役割を持たない
    3.理論は、集団だけでなく、個々の系を記述できる
    4.周辺から孤立した存在を想定できる
    5.孤立した系に作用しても、離れた系に影響しない
    6.客観的確率が存在する。
    1,2,4,5 は量子力学によって破綻した。
    3.はコヒーレント状態制御によって可能かもしれない。
    6.は主観的確率の導入によって変わりつつある。

●物理と情報のところが面白い。
    種々の干渉−非干渉制御実験は、干渉や非干渉が検出器で起こる現象そのものではなく、それらの間に見られる相関の捉え方(統計処理)の問題であることを示している。これは物理というよりも情報処理に近い。各検出器のヒット記録が「自然」であるとするならば、量子力学はその「自然」の中にある秩序(相関)を探しだすデータ処理方法を与えている。

●文化遺産としての測定という見方が彼の主張である。
    自然に存在するものを写し取ることが測定であるとすると、それが確定できないならば、それは測定によって乱された為だと考えるのだが、これは測定が傍観者的受動態であるという考え方の限界を表している。測定装置を含めた全体が実験であり、それは人間が五感で感じとるという素朴な認識においても実はそうなのである。人類はさまざまな意図と手段で自然と対峙してきた。五感と自然の間に、道具や技術や概念等の文化遺産たる装置を介在させてきたのであり、最終的には何等かの解釈を必要としてきたのであるが、量子力学において解釈に素朴実在論が使えなくなった為に、初めてそれを無視できなくなってきたのである。

●量子力学の解釈問題
    解釈問題は科学を外から位置付ける問題に繋がる。科学のメタ理論。しかし、それは個々の科学者の価値観によるものではなく、実験によって判定されるべきものである。我々は光学技術の進歩のおかげで、アインシュタイン、ボーア、シュレージンガーよりも優位に立っている。

    真理をどう考えるか?自然現象の背後にある真の対象を求めて、原子→素粒子→クォーク・レプトン→ストリング、と直感の世界から遠ざかって来たが、逆に認識主体を真理の原点とする発想では、科学が人類が自然に立ち向かう「対処論」にすぎない、とい矮小化に繋がる。アインシュタインが反発したのはその為である。

    存在の振る舞いを数式で表現する、あるいは数式で表現できるものを対象とする。対象が固有の物理量を背負って時空に存在し、それを数式で表現する。しかしそれだけではない。例えば、古典論でも、密度やエントロピーは対象の性質ではなくて、認識主体による平均の仕方で決まる物理量である。

    「出来事」を数学で表現する『力学』においては時間的な因果律が表に出る。古典力学の因果律である。その後因果律を確率的傾向性に拡張する数理的手法が生まれた。古典統計において、それは認識論的である。存在することは確かなのだが、知らないから統計処理される。しかし、量子論における統計は存在論的である。つまり、統計的性質は対象の本来的性質であり、有無を言わさないし、理由も明かさない。

    状態ベクトル(波動関数)をどう解釈するか?解釈を2×2で分類する。

・存在論的で対象固有実在論
  状態ベクトルは物理的実在である

・認識論的で対象固有実在論
  隠れた変数理論(存在論的実在は別にある筈だが判っていないという立場)
  デコヒーレンス(環境によって対象が固有実在として創発する)

・知識に関する参加者実在論
  コペンハーゲン解釈

・信念に関する参加者実在論
  主観確率(ベイズ確率)QBism(量子ベイズ主義)、量子情報理論(要調査)。

  「波動関数ψが客観的実在を記述しているとみなすから難問が生まれるので、ψを確率と同様、個人によって異なる主観的な関数だとみなせば難問は消失する」

    これらの個々の解釈論についての彼の見解はそれぞれに問題が残るというものであるが、この辺は僕もまだ勉強してみないと判らない。

●社会的背景
    20世紀初頭の社会思潮。文化や規範の多様性が新思潮だった。マッハやフロイト。この思潮には都会派のボーアやハイゼンベルグが居た。これに対して、当時は、物理学は対象そのものに最も肉薄している学問という自負があり、多様性には反発していた。田舎青年のアインシュタインがその代表格である。しかし、1980年代以降の量子技術の発展によって、ミクロがマクロ秩序を創発する状況を傍観する、という視点ではなく、むしろマクロ的にミクロを操る参加者の視点が可能になってきた。神秘な異世界としてのミクロな世界も制御できるようになれば常世界となる。
●読み終わってもなおすっきりしない。これは誰もがそうなのだろう。やはり量子論は素朴な実感とはずれているからであろう。以下頭の中を整理して、Karen Barad の Agential Realism との関係について考察してみた。

    量子論の話を読んでいると、そもそも『存在している』とか、『実在』だとか、という言葉の定義が判らなくなってくる。そこで、存在しているということは、他の存在に対して『影響がある』、という風に定義してみる。そうすると、その、他の存在とは、という問題が生じて、その影響を与える存在とは、となるのだが、その連鎖の終端は結局自らの感覚や直観による、自分そのもの、という処になるだろう。まるでデカルトみたいである。いずれにしても、量子論で問題となっている存在というのは、普通は、僕達人間の感覚や直観からは遠い間接的な処にある。それは、認識の為の基本概念、道具立て(測定器)や制御の為の実験装置や設備が介在する、というだけでなく、量子論的な存在が僕達人間に及ぼす影響(文明の装置や仕組み)、という意味でもそうである。勿論、例えば超電導や超流動といった現象、あるいは日常的には干渉縞のような観測、あるいは、原水爆のような巨大な量子現象、といった直接的なものもある。

    さて、影響がある、というのは、単に存在しているだけでは在りえない。何故ならば、『存在と非存在の差異』によってしか、影響は現れないのだから、そういう差異が無ければそもそも存在を議論する意味もない。例えば、神の存在であれば、神が怒るのか許すのか愛するのか、といった差異を想定しない限り、神の存在自身に意味がなくなる。その、『差異とは何か」、というと、物理学では結局のところ差異を表現するのは『物理量』であるのだが、量子論の場合、作用を離散化するプランク定数 h は紛れもなく、世界の存在を規定する定数としても、『状態ベクトル(波動関数)』という抽象的な概念を存在と見做すかどうか?という問題が残ってしまう。実にこの状態ベクトルという抽象化された概念を物理量と区別して発明した事こそが、量子力学を体系化させたのである。行列力学では状態間の遷移確率行列としての物理量が時間発展し、波動力学では物理量が演算子となって、状態ベクトル(波動関数)が時間発展する。これらは数学的に同等である。僕は量子論の勉強をしてそれを応用してきたわけであるが、ずっと、この『状態ベクトルが存在である』と(安易に)受け取っていた。それは『差異』を示し(量子力学の方程式に従って変化し)、他の存在に『影響』を与える。しかしながら、その影響自身が『本来的に確率的である』という処が微妙な処である。つまり、量子論的な存在の状態は繰り返し何回も同じ条件で実験して、その結果を統計処理しない限り認識できない。勿論、何回も同じ実験を繰り返す代わりに、多数の同等な存在が独立して同等な作用を及ぼす場合(例えば理想気体が壁に衝突するような場合)には、その統計平均と揺らぎが同時に測定できる。ただ、それだけの事である。これに対して、古典論的な存在の記述は、今となっては近似であるに過ぎないのであるが、この何回も同じ条件で実験を繰り返した個々の結果において量子論とは異なった結果が生じる。つまり、古典論的な存在は条件が同じであればいつも確定した同じ結果が生じるのである。ただし、条件を全く同じに揃えることが出来ない場合には、当然結果が確率的にしか予言できない。これは古典的な意味での確率であって、『無知による確率』であるから、古典統計力学で扱うことができる。量子論の場合は全く同じ状態(状態ベクトル)に揃えていても、その測定結果は確率的にしか予測できないというところが異なる。それと、多数の同等な粒子の状態については、フェルミ粒子とボーズ粒子という可換性による区別が必要になるのだが、ここでは一つの粒子の場合を考える。

    この量子論的な存在から古典的な存在への変化を扱うのが『デコヒーレンス理論』である。同じ条件に置かれた(つまり同じ状態ベクトルの)存在が、それだけで確定した物理量を持たない、というのが量子論的な存在であり、その孤立した状態では、そもそも他の存在に影響を与えることができないから、そもそも存在を想定する意味が無い。古典論の場合も勿論同様な事情があるのだが、そこを『素朴実在論という信念』によって補っている、と言える。だから、存在を想定するためには、他の存在に影響を与えさせる必要がある。つまり『測定器という存在との相互作用』である。物理実験における測定器というのは測定対象の特定の種類の物理量に対して敏感であって、測定対象とその敏感な部分が相互作用して、測定対象の状態ベクトルとその敏感な部分の状態ベクトルが一体化し(積では書けない状態になり)、その物理量の取りうる値(固有値)に相当する『一体化した状態ベクトル(新たな固有状態)の重ね合わせ』になる。数式的には、個々の固有値に対応する測定対象の固有状態と測定器の敏感な部分の固有値の積の重ね合わせであり、その重ね合わせの係数は、当初の測定対象における係数と実質的に等しいというのが、理想的な測定器の条件である。この段階では、この一体化した状態ベクトルは一般的にはどれか特定の固有状態ではなくて、それ自身が量子論的な状態(重ね合わせ状態)である。ただ、一般的な測定器には、『人間にその結果を知らせる為』に、この敏感な部分と相互作用する鈍感な部分(環境)があり、その熱運動によって、量子論的な『重ね合わせ状態』から古典的な『混合状態』へと変化するというのがデコヒーレンス理論である。いくつかの例によって、この変化が計算されているのだが、どんな時にでもこれが起こるということは証明されてはいない。その仕組みであるが、そもそも、量子論的な重ね合わせ状態においては、個々の固有状態の位相部分がそれぞれのエネルギー(測定対象、測定対象+測定器の敏感部分、測定対象+測定器+環境、においての、それぞれ全体のエネルギー)に対応した周波数(E/h)で振動しているのであるが、環境まで含まれてしまうと、エネルギー自身が熱的に揺らぐために、その位相が乱れてしまい、異なる固有状態同士の干渉効果が見えなくなってしまうから、『実質的に混合状態として』(古典的な無知が原因となる確率現象として)扱える、ということである。

    それでは、このデコヒーレンス理論で想定した、人間に結果を知らせる為に必要な環境部分というのはどんな測定器においても必要なものだろうか?勿論最終的には必要であるのだが、その前に系を操作することが可能になった。量子力学的な重ね合わせの状態を保ったままで(コヒーレンスを保ったままで)生起する事象を個別に記録する方法が開発されたのである。その場合でも、勿論個々の事象においては結果の記録直前にデコヒーレンスが起きているのであるが、その個々の事象はそれぞれの固有状態である。つまり、一般的な測定器が確率的な選択過程を経て最終的に人間に伝えていた結果を『デコヒーレンスを起こす前に遡って、より細かく分類して採取する』ことが可能になったのである。その原理は、本来一つの系であったものが、二つの系に分離しても、それらが位相的に同期している(コヒーレント性を保っている)という性質(量子もつれ)を利用することである。(アインシュタインが在り得ない事と反発したのだが、Bell の不等式が成立しないことが 1980年に Aspect の実験で確定して、実在性が証明された。)片方の系が測定対象であり、もう一つの系が測定装置の敏感な部分に相当する。つまり、こうして、測定対象と測定装置の敏感な部分の一体化(量子もつれ)を保持したままで、それらを空間的に切り離して、独立に測定する(デコヒーレンスする)ことができる。これはひとえに光学技術と計算機の進歩による。つまり、量子論的な重ね合わせの各項、『それぞれの固有状態の振る舞いを別々に記録できる』ということである。異なる固有状態を取り出して使えば干渉効果が見られるし、同じ固有状態だけを取り出せば干渉効果が見られない。光学的に見れば当たり前のことなのだが、これが量子論の不思議な存在形態を白日の元に晒すことになる。と同時に、干渉とか非干渉とかいう区別が、実は『現象の性質ではなくて、現象内部からどういう風に情報を取り出すかによって決まる』ということを示した、と言える。だから、このような実験はもはや現象を直接扱っているのではなくて、現象を思うがままに分割してその部分を切り取っている、つまり情報を取り出しているということである。

    さて、21世紀になって、ここまで技術が進歩して、量子論的な重ね合わせ状態の中身までも『測定』されるようになってきたとき、改めて問うことができる。量子論的状態ベクトル(波動関数)は存在なのか?それとも、Bohr の言うように、測定対象と測定器が一体化した現象が存在なのか?更に、Bohr の現象というのは、コヒーレントな状態なのかデコヒーレントした状態なのか?前者とすれば、この問の答えは、現象という重ね合わせ状態そのものが存在であるという意味で YES であるが、当初僕が想定した孤立した対象の重ね合わせが存在から除外されているという意味では NO である。後者とすれば、Bohr の人間主義が表に出て、この解釈の差異が鮮明になる。いずれにしても、存在について語ることは人間という限界の中にある。我々に認識できない存在を語る事はできないから、そういう意味では『存在論は認識論的限界を持つ』。ただ、そのような存在の在り方を想定することはできる。例えば、存在それ自身というものに何の意味も無い以上、存在と存在との相互作用という形、つまり『差異の実現という形でしか、存在を語りえない』ということは、観測者としての人間を除外しても、なお言えることではないだろうか?そういう意味で『存在を一般的に語る』とすれば、それは関係性によって生じる、もつれ合ったコヒーレントな状態であり、環境によってコヒーレンスが崩れて確定した状態として『記録』され、その記録が情報として世界の別な部分に(物理的に)伝えられて、そこでまた新たな関係性が生じる、といった無限の繰り返し、という風になるのかもしれない。Karen Barad の頭の中にあるのもおそらくそういったイメージだろう。更に追加すれば、情報は存在に支えられ、その存在の持つ物理的構造を利用して、それ自身が『プログラム』となって、関係性を生み出す、という風にして、この再帰的な繰り返しから、少なくとも地球においては、主体(生命)が生成する、という風に語ることもできるだろう。そうでもしなければ、ここに居る僕という存在も説明できないだろうから。。。

    そのようなプログラムの進化論はまた別の話になるとして、Karen Barad の採った戦略は進化論的積み上げではなくて、類比であった。つまり、量子論で明らかになったこのような存在の在り方との類比によって人間社会における存在(つまり主体)を考える。勿論人間社会においては実質的に量子状態は(最初に述べた例外はあるにしても)直接的には現れない。物理的には既にデコヒーレントされて古典的である。しかし、存在が関係性から生まれ、関係性を生み出す、という構造に変りは無い。人間社会において新たな要素として登場するのは、文化的履歴であり、それは『主体』として現れる。そして、文化的履歴そのものが関係性の履歴であり、その繰り返される言説による主体の形成を露わに解析したのがフーコーである。だから、量子論とフーコーの理論は同型となる。更に、物理学の発展そのものが文化的履歴であるから、その運命もまた人間社会の発展の枠外に出ることはできない。逆に、人間社会もまた物質的に規定されている以上、物理学の発展に支配されていることは言うまでもないだろう。

    ところで、念の為であるが、ここで問題としている存在の定義は、物理学が追求する究極の存在(真理)とは何か、という問いとは区別されるべきである。その場合は、この世に満ちている存在全てを演繹的に可能にする存在の大元という意味である。これには学問の進展度合いが関係する。現在では量子ひも理論だろうか???これは僕の関心外である。

(追記)
    『存在論には認識論的限界がある』という意味は、存在を論ずることだけでは存在を尽くせないだろうという常識である。勿論、存在は認識を超えているのである。差異を示さない(差異が見えない)存在は我々には認識できない。これも常識である。普段の生活で空気の存在は意識されないし、戦後続いた日本における平和もまた、日常生活においては存在が意識されない。しかし、ここで気づくのは、言語的認識の特異性だろう。そのように差異を示さない存在も言語によって暗示することができる。しかし、物理学は、というか近代科学は、実証されない限り、この暗示を認めないというだけの事である。オッカムの剃刀。それによって、いつまでも無意味化することのない体系(たとえ限界が見つかってもその範囲で有効な体系)を作り出したことは確かだろう。

    一方で、言語的暗示は人から人へと伝染する。言語的暗示が情動に訴えるからである。中島みゆきの歌はその一例である。動かされた情動はその言語的表現や行動を求める。そこではもはや客観性も確実性もそれほどの意味を持たない。言語だけではない。実は感覚に訴えるあらゆる手段がそうである。人々は『暗示された存在』に動かされている。人間社会では、物理学的に定義された存在の方が例外なのである。このような暗示された存在にどういう意味があるのか?それは人間を突き動かし、世界を差異化することによって、新たな存在を、実証された存在を見出す可能性を与える。Einstein の素朴実在論への執着は、量子情報という分野を生み出した。要するに、存在論に着地点は無い。

    ところで、Karen Barad が、言語的概念と測定装置の物理的配置の等価性を主張するのは、Bohr における測定対象の物理量という言語的概念が、測定装置という物質的存在によって定義されてしまうからであった。他方、人々に働きかけてその主体を作り出す社会的言説(権力)が具体的な物質的装置によって実現されているという Foucault の分析に彼女は注目した。ここで主体というのは社会的存在そのものである。つまり他者に影響を与えるという人間の性質のことである。産まれてきた人間の心はあたかも量子状態のように未定であり、権力装置によって測定されるまで主体としての性質は定まらない。装置に映された自己の像をなぞるようにして主体が形成される。繰り返し繰り返しなぞることで、神経ネットワークに刻み込まれる。だから、主体を問い直す為には、装置の仕組みや来歴を検証しなくてはならない。言語はその有用な手段でもある。

  <目次へ>  <一つ前へ>    <次へ>