池上彰の「日本の選択 あなたはどちらを選びますか?」(角川Oneテーマ21新書)は衆議院選挙の直前に出版された、謂わば選挙の争点を理解するための判りやすい解説である。消費税の増税、社会保障、日本のもの作り、領土問題、日本維新の会、大学の秋入学、教育委員会、原発、選挙制度改革、放射能廃棄物の処理、といった現在の社会問題である。

      現在の日本は高齢者に厚い手当てが為されていて、若い人が冷遇されているから、多少の痛みを伴っても所得の再分配が必要である、というのが基本的な主張である。モノ作りでは、良いものを作るというよりもニーズに合った物を作るということが大事だという。領土問題は国際的な場ではっきりと訴えるということ。尖閣の対応は時期的には拙かったが悪かった訳ではない。遅すぎただけである。ロシアに対しては今がチャンスということ。日本維新の会は大阪では圧倒的であるが、全国的には知られていない。橋本氏は現実的な落としどころを知っている。政権に対して過度な期待は禁物であり、国民自らが考えるということが大事。大学の秋入学は日本の大学の競争力を高める。教育委員会は占領軍によって作られた当初は地域の人達から選抜されていたが、政治的な対立が表に出るようになって、地方自治体が任命するようになったために、形骸化してしまった。元に戻すべきである。原発は新規は論外であるが、燃料の輸入は確かに大きな経済的負担となっているから、バランスを考える。選挙制度については小選挙区の衆議院において容易に政権交代が起きてしまうが、このやり方がまだ成熟していない。一票の格差を無くすのは利害の絡む国会議員では無理なのではないか?放射性廃棄物の処理については感情論を避けて冷静に理性的に考えなければ解決できない。といった内容である。

      池上彰の本の裏表紙の広告で見つけて、藻谷浩介の「デフレの正体」(角川Oneテーマ21新書)を読んでいる。著者は政府関係の公職を経て、日本政策投資銀行地域企画部地域振興グループ参事ということで全国で地域振興の講演などを行っている人である。経済現象における因果関係というのは捉え方がまちまちで僕にはさっぱり判らないのだが、この本を読むと何だやっぱりそうか、という感じがする。経済学の理屈というのは、基本的に単純化した仮定があるのだが、その結論だけを使うと現実を説明できないばかりか、誤った政策を作り出してしまう。戦後の日本においては、一般的に通用する景気循環の比重が低くて、出生率の大きな変動に由来する生産年齢人口と老齢者人口の経緯が景気を左右する最も大きな原因であるから、それを無視して政策を立てても逆効果になる、ということを説いている。GDPの数字だけを見たり、失業率だけを見たりしても、何も実態は判らない。公表されている統計数値から読み取れる事はいくらでもあり、それによっておおよその因果関係が推定できるのに、デフレ脱却のために頭ごなしに金融緩和と公共投資をすればよい、というのはとんでもない間違いである、というのが前半の趣旨であろう。

      第1講では、好景気の愛知県の駅前を採りあげて、どうして100年間も駅前の開発が進んでいないのか?と問う。それは正に駅前の土地の地権者が土地を売る必要性を感じていないからである。これ以上儲ける必要がないということである。好景気であれば開発が進む、という考えこそが間違いなのである。先入見を捨てて虚心に実態を見る必要がある。

      第2講は貿易黒字の話。日本は加工貿易であるから、輸出が減れば原材料の輸入も減ってしまう。だから黒字はなかなか減らない構造になっている。(この本は2010年発行なので、東北の大震災や原発停止の影響はまた別)。日本の資産は海外への投資に使われていて、今や所得黒字(金利配当収支)が大きな比重を占めている。大量の赤字国債は大部分が国内で吸収されているので利払いはここにはあまり影響していない。日本の黒字は中国台湾韓国が発展すればするほど大きくなる構造になっている。その中での先進国、台湾と韓国に売っているものはもはやハイテク商品や部品ではない。それは食材やお菓子、その他のブランド価値の高い商品である。日本は既に大量生産を得意とする工業国ではない。日本が赤字になっている貿易相手国はフランス、イタリア、スイスであって、ここでも高級ブランド品がその内容である。つまり、これからの日本は文化的価値を涵養してブランド力を高める、という生き方しか残されていない。これらの事は単に総理府発表の統計数値を見れば判る事であるが、先入観に捉われた多くの経済学者や政治家は未だに納得していない。

      第3講は内需の話。国内で車が売れないのは何故か?車の販売は景気に連動していないし、ガソリン代にも連動していない。車はもはや嗜好品ではなくて生活必需品だから車を利用する人口が減れば販売量が減る、というだけの話である。デザインをどうしようが、燃費を下げようが、全体としては影響がない。小売業の販売量も同じである。統計数値をみれば、2001年からの消費の減少が人口動態によるものであることは一目瞭然であるにも関わらず、景気とか生産の海外移転とかの様々な副次的要因ばかりが注目されてきた。どうしてそうなのか?これは統計数値の見方が極めて短期的、つまり前年同期比だからである。大きなトレンドを見るには絶対値の年次変化を見なければならない。何故短期的な見方しかしないのか?それは経済への関心を持つ人々が米国流のファイナンスに浸されているからである。ファイナンスの基本は、「物事の価値はその帳簿上の価値(投下した金額)ではなくて、将来期待される収益の割引現在価値、つまり時価である」ということである。アメリカのファイナンスでの時価に対する仮定は、「投資先の商品や会社が生む利益は、ばらつきはあるにしても、平均すれば長期的に一定の成長率で増加していく」、ということであるが、これは間違いである。商品にも会社にもライフサイクルがあり、その変換に失敗すればどこかで潰れてしまうから、投資家はどこかで損切をする必要がある。この間違った原理が通用するように見えるのは、短期的にしか適用されていないからである。事実よりも思惑で動くから前年同期比が傾向として注目されてしまう。

      第4講は地域間格差の話。「都会ばかりが発展して恩恵が地方に及ばない、だから内需も拡大しない」、というのがよく言われることであるが、実態をみるとこれは間違いである。典型的な景気の悪い地方である青森県を見てみると、小売販売額や所得は1998年をピークにして下がっている。何故バブル崩壊1990年の後の失われた10年の不況の間に伸びて1998年から下降したのか?そこで、1990〜2006年の変化を首都圏を見てみると殆ど変わらない。むしろ青森県の方がマシである。だだ2003〜2006年では首都圏において所得が伸びている。もっともその間小売販売額はあまり伸びていない。その中には全国から集まる通販が含まれているので実際は下がっている。愛知県でも同様。関西はもっと厳しい。いずれの地域も小売販売額の減少傾向の時期に店舗面積が拡大しており、経営状態の悪化要因となっている。10年もの間こういう単純な事に気付かなかったのだろうか?これらの傾向に反しているのが沖縄である。沖縄の経済成長が最大なのである。その理由は単純で、就業者数が単調に増加し続けているからである。首都圏での所得の増加は高齢者の不労所得であって、消費には廻らないから小売販売にも寄与しない。

      景気を解析するのに失業率や有効求人倍率といった指標に頼っているのは日本だけである。一番重要な雇用の増減を見ていないから判らなくなる。(率を見るというのは分母の影響を無視するためであるが、分母の影響が無視できない時に使うから判らなくなる。)p.87の図13はなかなか面白い。各県について、1990-96年、1998-2003年、2003-06年で、横軸に個人所得、縦軸に小売販売額を1990年基準でプロットしている。90-96は不況とされているが、全国的に成長経済である。特に地方において所得と消費の伸びが著しい。98-03は逆に、沖縄を除いて、全国的に縮小経済である。99年小渕内閣のバラマキ的公共投資も関係なかった。03-06は輸出景気で、所得はやや増加するものの、消費は増減が県によって分かれる。中では沖縄の好調が目立つ。輸出景気と言われるが、輸出産業の多い県が良いと言う事はない。地域間格差も景気も関係ないが、何故地域間格差と言われるのか?それは90-96と98-03の間の落差についていえば、確かに地方の方が大きいからである。つまり、経済成長時期に成長著しかったのに縮小時期には縮小も著しいということであり、そこだけを短期的に見るから、地域格差という短絡に到るのである。

      第5講は日本全体に見られる経済動向の主要な原因として、就業者数があることを示す。1994年は就職氷河期と言われ失業率も有効求人倍率も高いが、就業者数は増加している。それは単に現役世代の数、生産年齢人口(定義として15-64歳)の増加による。首都圏では、03-05の間に人口出入りの差が67万人、生死の差が39万人で、合計106万人増えている。常識的には若者が流入するとか、幼児が増えるとか、が考えられるから、多くの人はそう考えるが、実際に統計を見ると、むしろ65歳以上が115万人増えている。つまり、首都圏は少し前の過疎地と同じ状況になっている。三越と伊勢丹の統合や車やスーツの売り上げや病院の混雑、個人所得の増加が消費に向わないこと、これら全てがこの年齢構成の急変で説明できる。就業者数は増えないから企業の利益は上るが、それは給与には反映されず、高齢者が多い株主への配当となる。高齢者は何故消費しないのか?それは将来の医療への不安があるからである。それは貯蓄とは言っても使われる目的が決まっているからデリバティブと同じである。現役世代がもっとも減っているのは大阪であり、もっとも増えているのは沖縄である。現役世代が増えれば確かに失業率が上るが、就業者数も増える。経済成長に寄与するのは後者である。沖縄で何故そうなるのか?それは沖縄戦の惨禍で人口の1/3が失われたからである。それでは首都圏で高齢者が増えるのは何故か?高度成長期に首都圏に流入した人達が停年を迎えているからである。この傾向は今後も続き、75歳以上で急増してくるのはこれからである。首都圏での高齢者福祉は既に需給逼迫しているが、更に酷くなるだろう。

      第6講では過去から未来に亘って人口の波の動向を語る。団塊世代が就業者人口の増加を齎したのは1965-70年で、これが「いざなぎ景気」の主たる原因である。好景気が就業者数を増やす(失業率低下)よりはそもそもの生産年齢増加の方が圧倒的に大きい。団塊の世代が40歳台になる頃には住宅需要がピークとなる。戦後出生率は4程度であったから、団塊の世代は親から譲り受けることが出来ない。こういう世代が都会に集まったのである。人口動態によるこの需要(実需)は当然ながら短期的であったが、何故か住宅業界や不動産業界は景気が良いから住宅が売れると考えたので、過剰投資となって、首都圏と大阪圏で住宅バブルになってしまった。スキーやテニス、電子ゲーム、など全て同じ動きである。90年代にはバブルの崩壊が明らかとなり、不況と言われているが、実際には経済成長が続いている。これは団塊ジュニアが就職し始めたからである。就職氷河期とも言われたが、就業者数は増えている。90年代前半で246万人増加しており、これはバブル最盛期85-90年間の332万人増加に匹敵する。その次の2000-05年では逆に147万人の減少である。生産年齢人口と就業者数はほぼ比例していて、例外は70-75年の石油ショックの時だけである。05-10では、生産年齢人口は250万人の減少、2010-15では448万人の減少である。今後しばらくは「好景気下の内需縮小」が延々と続くだろう。農林漁業、流通関係、福祉関係では人で不足が続くが、低賃金、臨時雇用である。内需型産業は供給過剰となり、賃金も上らない。他方で輸出競争力のある産業は収益を上げる。設備投資、企業収益、個人所得に寄与する。これらの収益は株主である高齢者の手に渡る。

      第7講は生産性についてである。生産性というのは付加価値額を労働者数で割った値であるが、付加価値額というのは利益に人件費や利子などを加えたものである。それを国内で足し合わせるとGDPになる。何故こういう定義になっているかと言えば、企業活動によって原材料に追加する価値の総体であって、その付加価値分は資金を提供してくれた人に利子で返したり、働いてくれた人に払ったりして、残りが利益として留保されるか投資されるか、ということだからである。ともかくも社会全体に還元される価値だからである。勿論この定義は売れなければ成立しないし、家庭内労働なども含まれない。就業者数が減っても生産性を上げれば付加価値額が上りGDPが増加する、ということがマクロ経済学では言われていて、生産性の向上を目指すことになる。

      付加価値を売り上げで割った値が付加価値率であるが、これは経済活動が単位売り上げあたりでどれくらい社会的貢献をしているか、という指標である。多くの人は自動車やエレクトロニクス分野の付加価値率が一番高いと思っているが、実は一番低く、サービス業が一番高い。人件費が大きいからである。価格競争に曝されて設備投資をして人件費を削れば付加価値率が下がるのは当然であろう。逆にいうと、顧客側が高い評価を与える手作りのブランド品の付加価値率が大きい。株主資本主義が貫徹すると、付加価値の向上よりは利益が重視されるから、しばしば、人件費が削られて付加価値額は下がり、その比率である生産性はそれほど上らない。利益は株主に還元されるが、高齢者はそれを留保するだけであるから消費に繋がらない。付加価値額が下がるということは社会全体で見ると需要の低下となり、価格競争の激化に繋がる。結局はGDPの伸び悩みとなる。長期的な観点から言えば、人件費を削減するよりも、新たな需要と製品の顧客価値を上げることによって、利益と付加価値を両方高める、というのが本来の姿である。日本では、生産性向上には人件費の削減しかない、という思い込みが非常に強いが、それは経済を袋小路に追い込む。しかし、そうなったのには理由があって、いくら努力しても購買者が減っていく現状では売り上げを伸ばすことができないからである。ただ、人口に依存しない売り上げ、つまりブランド物や高級品はその例外となる。

      本来的には、価格競争に巻き込まれた企業は設備を廃棄して商品分野の転換を図るべきなのだが、多くの企業はそれが景気のせいだと思い込んでいるから、一時しのぎに利益と人件費を削るのである。株主が同族や機関投資家であるから甘やかされている。それにしても価格が低下すればお金は余り、とこかに使われると考えられるが、そうはいかない。高齢者がお金を保持するからである。それでも死亡すれば遺産として若い人に引き継がれる筈である。しかし、長寿命となって、高齢者に渡ってしまう。こうして何10年もの間資産が塩漬けになり、その間に投資に回される部分から損失によって目減りしていく。投資は何処になされるか?国内ならGDPに寄与するが、国内では生産年齢人口=消費が旺盛な人口が減っているので、設備投資しても利益が得られない。つまり投資が腐る。勿論海外への投資によって、特にアジア地区への投資によってその国の経済発展に寄与したのである。 近代経済学もマルクス主義経済学も、労働と貨幣と生産物を基軸に構築されてきた。しかし、現代の先進国において、絶対的に足りないもの、お金で買うこともできないものは、個人個人が消費活動するために時間である。この国民総時間が減っていることが今までの議論で無視されてきた。等価交換が即時に成立することを前提とした無時間モデルの世界を脱却することが求められている。

      以上が大体現状分析というところである。随分荒っぽい議論ではある。経済学を知らない僕としては、人口動態から見て、細かいところを均してしまえばこういう風にも見える、といった程度と思っておいたほうが良いだろう。付加価値の総額(GDP)は確かに国内で生産された金額ベースの価値ではあるし、経済成長がそれで語られるのは当然である。しかし、国民の実感としては、失業者数が多くなればそれだけ不幸せだと思うし、貧富の差が拡がってもそうだろう。ここから先は、人口動態というどうしようもない要因があることを認めた上で、不幸感をいくらかでも減らしていこうという方策である。

      第8講は安易な政策の批判である。まずは経済成長(GDPの増大)こそが重要という考え方の落とし穴を指摘する。それは結果であって原因ではないから、目指すべきものではない。目標とすべきは景気循環の一環としてのデフレ、ではなく、人口動態という構造要因によるデフレ、の克服であり、具体的には、

1.生産年齢人口減少を少しでも緩和する、
2.生産年齢人口世代の個人所得を増やす、
3.生産年齢人口+高齢者の消費を増やす、

でなくてはならない。その策無しに財政や金融によってデフレを人為的に解消しても意味が無い。公共工事が悪い訳ではないが、人口減少という条件下で不要な投資をすることは、増税に跳ね返るだけで内需を縮小し、逆効果にしかならない。アメリカは日本は内需を拡大すべきだという。これは輸入して欲しいということである。そのために構造改革=規制緩和を要請する。しかし一番重要な人口動態という構造を忘れている。企業は規制緩和によって非正規労働者の比率を増やすから内需を縮小させる。しかも中高年の正規雇用は守る。結果的には生産性が上ってGDPが下がる。インフレ誘導の為に日銀が金融緩和をしても、高齢者の貯金は消費に廻らないだろう。個人所得が大幅に伸びた02-07年においてすら、インフレは起きなかった。08年に110兆円、7%もの目減りがしたのに全く実物消費は起きなかった。将来を考えると多少目減りしても残しておこうという意志が固いのである。耐久消費財は構造的に供給能力過剰となっている。資源と食料についてはインフレの可能性があるが、操作できるものでもないし、不足となれば技術や投資によって緩和されるであろう。そもそもデフレへの圧力は周辺の工業国での低価格に由来しているから、国内対策だけで制御できるとは思えない。

      モノつくり技術の革新はどうであろうか?多くの人がそれこそ重要であると信じている。重要である事は論を俟たない。しかし、それによる輸出の振興は上記の3つの目標には直接は貢献しない。日本の問題は外貨を獲得することではなくて、獲得した外貨を国内で廻すことだからである。

      出生率を上げる、という目標も、大事ではあるが、それだけでは出産適齢年齢人口の急激な減少には抗しえない。また、それだけを実現しても、育てる環境がなければ貧困を助長するだけである。仮に一気に出生率が4になったとしても、生産年齢人口に影響するのは16年後である。出生率を直接問題にするのは女性への責任転嫁に他ならない。

      外国人労働者の受け入れはどうか?シンガポールのような小国では効果があるが、日本においては、毎年60万人もの生産年齢人口が減少していて、外国人労働者の流入は6万人であるから、10倍にでも増やさなければ効果が無い。しかも、外国人労働者の受け入れには自治体が負担するさまざまな費用がかかる。中国からは大勢来るだろうと考えるかもしれないが、中国でも一人っ子政策の影響で生産年齢人口には2030-40年頃には減少傾向になる。インドはもう少し遅れるだろうが、老齢化というのはアジア全体の将来の姿なのである。

      第9講は提言その1として、「高齢富裕層から若手への所得移転」である。10年間で生産年齢人口が3割減るのであれば所得を1.4倍にすればよい。効果があることは明白であるが、問題はどうやってやるか、である。世界同時不況前の調査であるが、金融資産を1億円以上持っている個人は世界で950万人居て、その内150万人は日本人である。日本人の85人に1人ということになる。その合計額は400兆円である。なお、日本人全体での金融資産は1,400兆円である。これらは、先端企業における高所得者の賃金が貯金や株に蓄積されたものである。実際04-07年の好況時に申告された所得は14兆円増えたのに消費は全く増えなかった。これらを強制的に採りあげる事には無理がある。しかし、現在進行中の団塊世代の退職に伴う人件費の余剰を若い子育て世代の人件費や福利厚生費に分配して内需を維持することが企業としての将来への布石となる。不況にも関わらず利益をあげて高齢者株主に配当金を渡す必要はない。企業としてのそのような行為は無理な事だろうか?過去に似たような例がある。それは環境保全である。企業として環境保全の費用を削ってまで利益をあげるということは少なくとも表立っては言えない。内需縮小は環境よりも切実な筈である。

      高齢者に消費させる工夫ももっと促進されてもよい。環境保全とか健康とか人生へのご褒美だとか、高齢者の購買意欲をそそる商品やサービスはまだ足りない。Wii、ヒートテック、東京ディズニーシー、ハイブリッドカー、液晶テレビ、フェラーリ、ハーレーダヴィッドソン、といったものである。ただ、高齢者向けにはカスタマイズが必要で、必然的に生産ロットが小さくなるから、開発、生産側での工夫が必要になる。地方の中小企業こそそういった能力に長けている筈である。

      高齢者の遺産相続先の平均年齢は既に67歳であり、このままでは永遠に若い人達に還元されないままに腐ってしまう。そこで政府がやるべきことは生前贈与の促進である。お金持ちの子供にだけお金が入るというのは問題という考え方もあるが、若い人の方が有効に内需を拡大できるのであるから、やらないよりはマシである。

      第10講は提言その2で、「女性の就労と経営参加の促進」である。女性の活用は、団塊世代、団塊ジュニアに次ぐ3段目の生産年齢人口増加手段である。一週間に1時間以上有償労働をしている女性は45%しかいない。生産年齢人口の専業主婦は1,200万人である。今後仕事を辞めていく団塊世代500万人を補うには彼女達に少しでも働いて貰うのがもっとも効果的である。オランダでは、3割程度だった女性就労率が人口の高齢化と共に7割位にまで上ってきた。外国人労働者は受け入れコストがかかるし、高齢者は雇用しても消費には結びつかないが、日本人女性は勤労意欲も能力も高く消費意欲が旺盛である。また市場が「文化的」になるほど女性の企画力が生きるから、経営層への参画も有効となる。反対意見として、女性が働くと子供が更に減る、というものがあるが、これは逆である。頭ではそういう理屈も考えられるが、実際のデータは逆相関を示している。都道府県別の統計でも明確に実証されている。勿論因果関係までは判らないが、おそらくダブルインカムでないと3人以上の子供を育てることが出来ない、という経済的な事情があると思われるし、共働きという環境は必然的に保育所の利用や父親の協力を必要とし、却って女性の子育て負担を軽減する側面もある。そもそも、女性が家事に専念するようになったのは高度成長期、生産年齢人口が急上昇して、男性の雇用維持で手一杯になったためである。そういった経済的要請は今や逆になっていることに気付かねばならない。それでも、現実的には働く女性の家事労働をどうするのか?身近に暇な人、つまり高齢者が居る。彼等の家事への参加に期待すべきではないだろうか?

      第11講は提言その3として「外国人観光客の誘致」である。観光収入というのは内需拡大付加価値増大にもっとも有効である。観光収入は殆どが人件費になるからである。観光売り上げ1兆円からは、直接的にGDPが500億円、雇用が9万人、税収が850億円であるが、間接効果を含めると、GDPは2.3兆円、雇用が19万人、税収が2,200億円と言われる。にも関わらず、日本政府の努力は外国に比べてあまりにも足りない。先日来のビジット・ジャパン・キャンペーンが驚くべき効果(10年間で2倍以上)を挙げていることを見ても、もっと努力すれば効果が期待できる。

      補講として、高齢者激増対策である。これは難しいのであくまでもヴィジョンに留まる。現役世代が減少している以上、福祉関連予算はとれないことを考えると、全員に行き渡る施策は教育・医療に限定して、セーフティーネットとしての生活保護に絞ったらどうか?という事である。要するに、使わずに溜め込む人には元々必要が無いのであるから、必ず使う人に支援金を渡すべきである。生活の困窮の度合いに応じた給付が必要となる。このような施策によって、高額納税者が日本から逃げ出すだろうか?しかし、日本語で暮らせる人達にとって日本ほど居心地の良い国は無いから大丈夫である。

      年金は高齢者が貧しい少数者であった頃の制度のままで、現役世代が支える仕組みになっているが、今や高齢者には裕福な人が大勢含まれているから、そういう人達に給付する必要はなくなっている。つまり、年金は生年別共済とすべきである。同じ年齢の人達が払い込んだお金をプールして困った人に給付する。1940年代以降に生まれた人達の間では可能と思われる。こういう提案は実は1970年代に既にあったのだが、当時の年金官僚によって闇に葬られてしまった。

      現行の医療福祉は利用者の払う額が低く抑えられていて、代わりに税金で補っている。供給側も価格が低く抑えられているので賃金も低くて重労働のために人が集まらず、供給不足に陥っている。こういうときこそ市場原理を働かせるべきである。つまり、最低限の医療福祉は保証した上で、規制を設けない部分を認めるべきである。こういう2面作戦は戦後の住宅供給において採られて成功している。急激な生産年齢人口増大に対応するために、公共住宅が安く供給されていて、とりあえず住宅の必要な人はそこに入り、住居環境に満足出来ない人は自分で稼いで持ち家を建てたのである。この時に重要なのは公共住宅のレベルであって、最低限の生活を維持するレベルでなくてはならないが、過度にレベルを上げると却って住宅市場を損なうのである。日本が発展途上援助で公的住宅を建てる時にはこの失敗が繰り返されている。公的住宅が快適すぎるとその国の政府関係にコネを持っている富裕層が入居してしまうから、一般庶民はスラムのままに捨て置かれ、他方で富裕層による住宅市場が消滅する。日本の医療福祉では捨て置かれる代わりに税金が使われている、という違いがあるだけで、同じ失敗をしている。

      この本はベストセラーになっているらしい。前半の分析についてはいろいろと論理の飛躍やこじ付けがあって、批判も浴びているようであるが、僕には良く判らない。しかし、後半の提言については賛成意見が多いようである。団塊世代の僕としても、身の回りを見る限り実感と一致する部分が多い。
  <ひとつ前へ>  <目次へ>  <次へ>