午後から出かけた。行きがけに下仁田ネギを3本掘りあげてこの間大根を貰ったご近所の家まで持っていったが居なかったので玄関先に置いといた。

      まずはひろしま美術館に行って、安野光雅「不思議絵展」を観た。彼の最初の絵本はエッシャーの真似事であった。その姿勢はずっと続いていて、最後のが「地動説」の絵本である。これは天動説が当たり前だった頃から、その時代時代の人々の考えに沿いながら、地動説に至るまでの物語である。子供の頃、鏡を床においてあたかも地下室があるように見えることで楽しんだそうであるが、そんな感覚。けれども、彼の言いたいことは、物事は一つの見方では判らないということである。騙し絵はそのことを端的に示しているし、地動説の物語はものの見方というものが如何に変えにくいものか、ということである。

      そこからSOGOの地下の食品売り場で親子丼を食べてから、歩いてエリザベト音大まで行った。チャリティ・クリスマス・コンサートである。前半は合唱。広いホールで響かせるとなかなか良い。ルネッサンス期から現代まで、最後は「浄しこの夜」だった。

      後半が今回の目玉である。細川俊夫の「星のない夜」。もともとは第二次大戦末期の連合軍によるドレスデン無差別爆撃に関連して「天地創造」に触発された作曲を始めたのだが、彼はそれを四季の循環の中で見られる生命の誕生と死滅として捉えなおし、ゲオルク・トラークルの詩を使うことにした。最初は「冬」で、例に拠ってシューシューという寒い音から始まる。合唱も何だかシューシューという発音である。ひとしきり盛り上がると、次はアルト・フルート独奏による「間奏曲I」。これは息の音やら震える音やらでなかなか面白かったが、要するに「不安」を表現している。次はドレスデン空襲を記録した手記の朗読を背景にした空襲とその後の悲惨な状況の音楽的描写。これはまあ聴いていて背筋が寒くなってきた。これだけの「叫び」を音楽として表現できるとは思わなかった。次の「春」はソプラノとメゾソプラノが奇妙な音声で詩を歌う。「夏」はメゾソプラノ。このあたり、こういう歌を歌わされる歌手もたまったものではないだろうなあ、と同情したのだが。

      打楽器による「間奏曲II」の後、広島の原爆のときの小学生の体験記の朗読を背景にした静かな鎮魂曲。次の「天使の歌」はソプラノで、クレーの「天使」という絵についての詩である。これにはトランペット2本の鋭いオブリガートが付いていてなかなか刺激的であった。最後は合唱とオーケストラで「浄められた夜」。

      ここで描かれた「四季」はもはや自然の恵みとしての四季ではない。人間の自然支配の貫徹によって壊され、人間に復讐さえしてくる四季である。人間が知の主体として合理性を追求することで、人間の内なる自然を抑圧し、何故と問うことなく、機械的に人々を抹殺する歯車としての人間を作るに至った、というアドルノの考察。その音楽化。
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