ハンナ・アーレント「全体主義の起原1.反ユダヤ主義」は第2章までで諦めて返却することにした。今は晦渋な文章を読む根気が無い。とりあえず纏めておく。

      ユダヤ人がその故郷を追われてヨーロッパに移住してきて、その特異な民族至上主義の宗教を固守してきた、という背景があって、ヨーロッパにおけるユダヤ人はどの階級にも属さない孤立した民族集団となった。その中で彼らは必死に生存しようとして、一部の成功者達は時の政権の財政担当となり、権力に密着してその保護を受けてきた。だから、反国家的、反権力的な社会運動が必然的に反ユダヤ主義とならざるを得なかった。それは、大衆一般が抱いていた付き合おうとしないユダヤ人一般への反感とはまた別の思潮である。とりわけ、ヨーロッパ各国が国民国家として歩み始め、それによって肥大した国家財政をユダヤ人銀行家が支えるようになり、国民国家を構成する各民族や各階級がそれぞれに国家に異議を唱えるとき、具体的な標的として想定されるたのがユダヤ人であった、ということである。国民的一体性のなかったオーストラリア(ハップスブルグ家の領土)でその意識はもっとも高かったし、それは領内のドイツ人に民族意識を高揚させた。早くから市民革命を経験したフランスにおいてはセリーヌのようにユダヤ人殲滅を唱える者もいたのだが、影響はなかった。

      ヨーロッパ国内の資本主義経済が海外に展開していく中でそれまで国家機構に関与しようとしなかった資本家達(ユダヤ人は実業に従事する資本家にはなっていない)が海外での権益保護の必要性から国家に関与するようになった時代(帝国主義時代)に至って、国家財政にとってのユダヤ人の重要性は薄れたのだが、それでも国家間の戦争の調停はユダヤ人の全ヨーロッパ的なネットワーク無しにはありえなかったのである。

      読んでいない処を一言でいうと、反ユダヤ主義はその内容において各階級、各民族毎に異なっていたが故に、一つの大衆運動として纏まる事はなかったのだが、その機会が訪れる。それがフランスにおけるドレフュス事件であった。これがドイツにおけるナチスの予行演習という意味を帯びている、という感じ。
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