仲正昌樹「今こそアーレントを読み直す」(講談社現代新書)。

      図書館に行って、「全体主義の起原1」を返してから、ぶらぶらした。結局仲正昌樹の「今こそアーレントを読み直す」(講談社現代新書)を半分読んで借りた。随分判りやすく纏めてある。もっともアーレントはこういう判りやすさこそもっとも危険であると言っているのであるが。それによると「全体主義の起原2」の方は帝国主義時代を扱っていて、そこでは本国で国民意識の充分でない逸れ者が植民地に派遣され、現地人との対比を通じて国民意識を高揚させる。このようにして、自他の区別がますます強調された。自国民、自民族への優越意識と他国民他民族の軽蔑、荒唐無稽な物語、これらによって大衆化された国民全体が洗脳されていく。ここで大衆化というのは、自覚して自らの政治的権利を獲得していった「市民」と対比していて、既にある程度の政治的権利が得られた結果、政治に無関心となった国民を指している。国全体が衰退あるいは危機に見舞われて、不安が広がると、大衆は頼りになる「判りやすい」政治プロパガンダを自ら求めるようになるのである。このとき、思考の多様性が失われていると全体主義に飲み込まれていく。

      さて、アーレントが西洋の人間像の原点と想定したポリス世界においては、労働から解放された市民(家長)が、あたかも日本の学校のホームルーム活動のように、利害関係から自由になって議論しあうことが出来た。この自由に議論しあう場が「公的世界」であり、対比されるのが古代においては家の内部「私的世界」ということになる。しかし、近代においてはかって私的世界に閉じ込められていた経済活動が社会全体に行き渡っていて、労働のネットワークを抜きにしては成り立たなくなっている。(その結果として女性の解放が進んだし、西欧文明の世界制覇が進んだのだが。)そこでの政治の役割も、ポリス世界におけるような私的利害を超えた理想を追求するものではなく、個々の階層や個人の私的利害の調整装置になっている。彼女はこのような私的・公的の区別が曖昧となった関係を「社会的領域」と呼んでいる。

      ハーバーマスはこういった社会的領域においても個人の私的利害を共有するネットワークが出来て世論となっていく、という「市民的公共圏」の運動を評価しているが、アーレントはそれもまた固有の論理と目的(共通の私的利害)に束縛された活動にならざるを得ない、と否定的に評価している。経済的利益を追求することによって個人がその必然性の罠に絡め取られ、思考パターンが固定化されていく、そのことはルカーチやマルクスによって、「物象化」とか「疎外」とかいう言葉で指摘されてきた。そういう意味でアーレントも同じ指摘をしている。彼らがその克服のために「労働プロセス全体を労働者階級の支配下に置く」という目標を掲げたのに対して、アーレントはそれでは逆に画一化が進んでしまう、と否定した。

      アーレントが疎外を克服する方法として提出しているのは言語的な「活動」=「行為」、多様性の中での議論、である。勿論、「疎外」に対して自覚的となった人々は親密な友人や家族、(最近では匿名のソーシャルメディア)というネットワークの中で言語的な活動を行って「癒し」を得ている。ただし、アーレントはそれもまた否定する。確かにナチスやスターリンの体制の中ではそういう活動に意味があったのだが、現代においては、そのような活動はむしろ「利害を伴わない」ながらも「私的領域」を形成しているに過ぎない。何らかの形でそれを「公的な場」に広げなくては本当の意味での「多様性」(抵抗)が得られない。ただ、現実的には全市民が私的利害から離れて自由に議論しあう「公共領域」は存在しないから「抵抗」もまた私的利害に起因するだろう。

      我々に出来るのは、だから古代の理想に帰ることではなく、むしろ、あるがままの「人間性賛美」への幻想を捨てて、すくなくとも全体主義に絡め取られない様に多様性を尊重する、ということだけである。自らの主張を明確にしつつ、なおその主張に疑いを抱き続けること、異なる見解について真摯に理解すること。人間はあるがままで素晴らしいのではなく、公的活動によって初めて「人間となる」のである。その公的世界が多様であればあるほど人間性が磨かれる。子供であれば友達と遊びまわること、大学ではどうだろう、PBL(Project Based Learning:問題解決型学習)や国際的な奉仕活動などはそうかもしれない。

      人は生まれながらにして人間である、というルソーの思想とその結末としてのフランス革命に対してアーレントは否定的である。人間の自然な感情と考えられた「不幸な人々:Les miserables」への共感を主要なモチーフとした革命はその共感を持たない人々を抹殺することになった。国家を国家として成立させるための「一般意思」(法)の原理として、この「共感」を持ち込んだからである。その背景には王侯・貴族の偽善的な振る舞いに対する強い反感があった。フランス社会を覆っているその偽善という「仮面」を取り払い、理想的な「自然状態」を取り戻そうとしたのである。アーレントはその発想そのものが間違いであったという。そもそも生れ落ちた人間がそのままで人間性を持つというのが間違いであり、人間は公的世界の中で活動することによって人間という「仮面」を身につけることで人間性を持つことになる。その仮面の裏側には何があるか判らない。だから秘匿されるべきである。政治や社会において意味があるのは私的世界や私的感情ではなく、あくまでも公的に多様な立場から論じられる「たてまえ」である。「本音」を忖度すべきではない。無差別殺人といった事件に対して犯人の心情や背景を忖度して、「同じ条件であれば私も事件を犯したかもしれない。」などと考えて個人的に悩む事は無意味である。そういった「心の闇」は誰にでもあり、それ自身を問題にするのではなく、それを表に出さないようにすることが重要なことである。

      アメリカ独立革命についてはアーレントが高く評価している。フランス革命とは対照的に最初から憲法による「たてまえ」の支配が理念となっていた。これはイギリスの植民地時代から各地に自治組織が発達していたからである。公民権運動の中で起きたリトル・ロック事件に対するアーレントの見解は左派から攻撃された。黒人の生徒を入学させない、という学校に対して中央政府が連邦軍を派遣したのだが、これが私的領域への公的権力の介入である、と非難したのである。差別は許されるべきではないとしても、それを改善する方法としては学校や州政府を直接制御すべきであって、責任能力のない当の子供自身を矢面に立たせるような手段は控えるべきであるということである。公的権力の行使によって入学した黒人の子供達は学校の中で具体的な差別を受けることになるのである。子供達にその「闘争」を担わせるべきだろうか?それに対して、彼女は、ベトナム反戦などの「市民的不服従」に対してはアメリカ建国の精神である「自発的結社」による政治運動として高く評価している。そこには自由人による「複数性」に基づく運動があるということである。

      もともとソクラテス学派以来、哲学では「活動」=「行為」から身を引いて「観想」に閉じこもる傾向があったのだが、アーレントは全体主義の脅威に対抗する戦略として「活動」=「行為」の必要性を強調したのであった。その後のアーレントは「観想」について考察を続けている。『精神の生活』という最後の著作において、それが纏められる予定であった。それはカントの「純粋理性批判」に相当する「思考」の部、同じく「実践理性批判」に相当する「意思」の部と纏めていって、同じく「判断力批判」に相当する「判断」の部を書き始めた処でこの世を去った。ただ、「判断」の部の内容は『カント政治哲学講義』で推定できるという。

      「思考」の部はハイデッガーの時間論とカフカのアフォリズムを参照しながら、思考が現在と結びついていることを示唆して終わる。デカルト的な意味ではそうならざるを得ない。つまり私の思考は「現在の思考」としてしか確実でない。

      これに対して「意志」は明らかに未来志向ということになる。自由意志とは自然界を支配する法則から自由である、ということである。(勿論、勝手気ままという事は自らの身体的欲求という自然法則に従うことであるから自由ではなく束縛された状態という事になる。)それでは、法則から自由であるということはありえないのではないか?しかし自由意志がないとすれば「責任」という観念に意味がなくなる。無理にでも自由意志があるとすればそれは「偶然」によって生じているということになる。そうだとすると何の価値があるのか?

      仲正氏の推測したアーレントの「自由」というのは個人の内面だけの問題ではない。アーレントは「判断」の部でそのことを示そうとしたという。さて、「判断」は過去を志向している。既に起こったことに対する判断は(アーレントの言う意味で)政治的でありうる。つまり、判断には共同体に所属する他者たちの視点を取り込むことが容易である。過去に対する政治的な判断、つまり共同体において議論された判断が、自分の取るべき立場についての「思考」を導いて、自らの「意志」を形成する。これが(他者との出会いによって齎される)「自由意志」の価値である。何故「判断」が政治的であり得るのか?それは判断の対象が「過去」だからである。時間をかけて様々な見解を述べて討論することが可能である。現在進行中のことを論じるには時間が無く、未来のことを論じるのは不確実性が大きすぎて纏まらない。

      カントの論じた「判断力」は政治的な判断力ではなく、美的な判断力に限定されている。それを一言で言えば、美的な判断は欲求の充足に関係している、ということになるらしいが、それはともかく、仲正氏の推測では、アーレントはカントの美的判断力における議論の組み立て方を政治的な判断力に敷衍してみようと考えた。そこで抜き出したカントの概念が「一般的伝達可能性」、「共通感覚」、「拡大された思考」である。我々は美的判断を行うときにはそれが他者に伝達可能なものと考えている。他者のまなざしが入り込んでいる。このような潜在的な他者のまなざしを想定して自らの感情を制御する働きを「共通感覚」という。感情だけでなく、自らの思考に他者の思考(勿論、これは想定した他者の思考)を取り入れることをカントは「拡大された思考」と言っているが、これら2つを纏めてアーレントは「拡大された心性」と定義した。

      この「拡大された心性」を鍛え、過去の出来事に対する「判断」を積み重ねる事によって、本来の意味での「自由意志」となるのであるが、その「判断」のプロセスこそが「政治」=公的世界における自由な討論、である。この討論の中では必ずしも「活動」している人達が優位とはならない。むしろ「傍観者」として距離を置いて現場に立ち会った人達の方が正鵠を得た判断に近いであろう。つまり、「歴史認識」の議論こそアーレントのいう「政治」の最も重要な課題である。何故ならそれによって我々の政治的意志が左右されているからである。

      なお、吉田民人の壮大な「科学論」にも相当する議論があるが、断片的である。そこでは「自由」は「シンボル性プログラムの多義的解釈や逸脱」、あるいは「プログラムの意図的改変」として語られているにすぎない。また「拡大された心性」は言語に介在された他者や社会の自己への取り込みとして語られている。(仲正の解釈における)アーレントの議論の新しい処は「自由」という概念が実は人間の他者性に根拠を持つというところだろう。他者に出会うことによって、我々は自らの内部に持つ「プログラム」を改変し、それを自らの意識によって自己として認識し、その実行が「必然的」であるにも拘わらず、それを「自由」と認識するのである。自由の意味は自己そのものの実現ではなく、自己の改変の自由度にある。そしてその自由度とは他者性との出会いでしか齎されない。
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