2022.05.12
『民主主義が科学を必要とする理由』ハリー・コリンズ+ロバート・エヴァンス(みすず書房)

第1章 道徳的選択としての科学

・・・この章は導入部で、以って回った言い方が判りにくい。
(第1の波:モダニズム)20世紀前半は科学が真理性と有用性によって万能とされた。
(第2の波:構成主義的批判)20世紀後半になって、科学の成果は必ずしも有用とは限らす不幸ももたらし、しかも科学の真理性については社会的偏向が避けられないことが常識となった。
しかし、
(第3の波:選択的モダニズム)科学は再び擁護されるべきである。
それは科学の真理性や有用性によってではない。そのようなものを信じるから過ちを犯すのである。
科学はむしろその「道徳性」に意味がある。客観的世界に対して科学的アプローチをすることは常に「善」である。それが真理性や有用性を保証されなくてもよい。政策者は常に科学の専門家の意見に耳を傾けるべきである。しかしそれに従う必要は無い。従わない場合も、民主主義の原則に従って、その理由を公開すべきである。ということではないか、と思うが、第2章以下に付き合ってみないとまだ判らない。

第2章 科学を選ぶ

・・・科学的に行為するとはどういうことなのか?定義は難しい。境界設定も類似性概念もあまり役に立たない。ヴィトゲンシュタインの「生活形式」という概念は、ある社会グループにおける典型的な生活の在り方である。科学というのは、メンバーの持つ典型的な行為や意図によって特徴づけられる社会グループ化の一つである。他にも諸々の社会グループがあるが、個人個人で言えば重層的に社会グループに属している。グループの形成的意図があり、それに基づいた形成的行為がある。個人がその所属グループの形成的行為から外れたからといってグループが無意味になるわけではなく、単にその個人がグループの一員から外れたということだけである。
・・・哲学者も社会学者も、科学が特別なものであるためには、科学が理想的な規範に従っていなければならないと考えた点で間違っていた。生活形式は規範ではない。例外の宝庫である。重要なのはグループの形成的意志である。科学の価値は、厳然たる真実に到達したいという意志に基づく。真理に近づいている必要は無い。
・・・ポパーの反証主義に含まれる非対称性は弟子のラカトシュによって崩された。真理を証明するためであれ反証するためであれ、無限回数の観察が必要である。しかし、帰納や確証の問題は科学哲学上の問題にすぎない。生活形式としての科学とは無関係である。観察可能なものは観察して確認する、というのは科学の形成的意志の一つであり、観察可能であるにもかかわらず観察しなければ、その人は科学者として思考することを諦めたのである。ポパーが解決すべき問題は存在しなかったのである。科学は科学者というグループの典型的行為とその意志で定義される。数学のように厳密な定義で科学を捉えることは間違いである。科学を論理的に正当化することはできないが、それでも我々は科学を選択すべきである。

    「伝統的な科学哲学から引き継がれる科学の形成的意志」
・理論のようなアプリオリの予言よりも観察が優先される。
・実験で再現された事は再現されなかった事よりも優先される。
反証に応じる方が優先される。

    「マートンの科学社会学における形成的意志」
・適切で信頼のおける経験的エビデンス
論理的無矛盾性
マートンはこれらが技術的規範であると同時に道徳的規範でもあると言ったが、Collins は道徳的規範であるという。
マートンの科学規範
共有主義(成果は共有される)
普遍主義(誰でも科学に貢献できる)
利害無関係性(個人の思想や信念を反映させて結果を提示してはならない)
・組織化された懐疑主義(批判的吟味が不可欠である)
マンハッタン計画はこのような規範を満たしていないにもかかわらず成功したといえるだろう。しかし、選択的モダニズム(Collins)においては、事実として規範を満たしていなくても、規範そのものは有効と考える。なぜなら誰もこの規範が好ましい(善である)と思うからである。何故そう思うかと言えば、それが民主主義の原則だからである。
事実から当為を導くべきではない。

    「その他の形成的意志」
誠実さと高潔さ:勝つことだけが目的ではない。
・解釈の場所(評価は研究者に近い場所で):芸術とは違う。
明晰さ:芸術家とは違う。
・個人主義(観察に適した人はより自信を持つ)
・連続性(新しい発見であっても既存の研究と連続性を保つ):革命家とは違う。
目的開放性:科学の結果は将来的な転覆の可能性がある。
・一般性:適用範囲の広さを追求する。
専門知の重視

第3章 選択的モダニズム、民主主義、科学

    「選択的モダニズムの射程」
観察可能なものの領域においては科学を推奨するが、科学原理主義ではない。
  観察可能でない限りにおいて、美学や行動や判断や宗教については語らない。
・実証主義においては観察可能でないものを無意味なものとみなすが、
  選択的モダニズムでは観察可能でないものも(科学の対象ではないが)容認する。
・政治的義務は即断が要求され、しかも修正ができない(目的開放性を持たない)。
社会科学はその方法論によって科学である訳ではない。形成的意志だけがその条件である。
  観察された事実が再現可能で反証可能であればよい。
  主観的な方法は社会科学が自然科学と異なる方法である。
  読まれるべきデータが人間の集団的脳や集団的身体に刻まれる以上、主観性を無視できないが、
  それでも再現可能で反証可能でありうる。
  科学ではない方法(人文学的方法)を採用する事も許される。
・生活形式というのは社会を考える時の基本構成要素であって、それ以上分析することはできない。
  生活形式の基本単位としての個人は考えられない。逆に個人は生活形式によって形成されている
・人間の行為や行動のすべてが進化論や生物学や神経科学で説明可能であるという考えは採らない。
  何事であれ、アプリオリに科学で説明できるという考えは科学原理主義である。
  しかし、説明しようとする努力は科学である。
・論理実証主義は生きているが、生きている部分は実証主義の部分だけである。
  検証不可能な命題は無意味な命題であるという教義は否定される。

    「選択的モダニズムと政治的局面」
・・・テクノクラシーのアイデアは20世紀初頭の社会運動に由来するが、実現しなかった。
世紀後半になって「専門家の助言と政治家の決断」という形態で一般的となった。
「第2の波」の観点からいうと、専門家が選択肢を限定してしまう危険性が指摘される。
選択的モダニズムは専門家による選択肢だけを評価するのではなく、
科学の道徳的価値を認め、それと、政治の民主主義的価値を結びつける。
政治家は専門家の提示する選択肢の中から選択するだけでなく、その全てを拒絶することもできる。
重要な事は、その政治家の選択の在り方を明確に公示しなくてはならないことである。
あたかも専門家の推奨であるかのような偽装が一番大きな問題(政治的意思決定の責任回避)を残す。

    「新しい科学の理解:フクロウ委員会」
・・・科学者が社会構成主義を信じていては、善い科学を遂行することはできない。
社会科学者は2つの立場を使い分けなくてはならない。科学を遂行することと科学を分析することである。
自然科学者は科学を遂行するだけで良いし、その方が良い仕事ができる。彼らを「ワシ(鷲)」と呼ぼう。
例外的にクーンのように科学を分析する者もいる。それを「フクロウ」と呼ぼう。
(更に、科学哲学者の事を「ハゲタカ」と呼んでいるが、以下では無視される。)
社会科学は科学に対して大衆迎合的に展開されやすい。
ワクチン接種の危険性についての情報の扱い方にしばしばそれが現れる。(MMRワクチン論争)。
逆に自然科学の専門家が社会的な問題に提言をするときには、専門家集団の内部だけで結論を出す傾向がある。
社会的問題の最前線で目撃している人たち(農薬における現場作業員等)の意見を取り入れるのは、
社会科学者の役目である。
・・・科学の専門家の範囲は想像上の範囲よりもかなり狭い。
見識あるグループは専門誌や学会の中でも少数のお互いに直接交流している人たちである場合が多い。
科学は(哲学者達が想定したような)形式的手続きの集まりではなく、社会的行為の集まりである。
人間の評価や人間の権限が重要な要素であり、フクロウ達の活躍の場でもある。

    「政策的助言のための新制度」
・・・科学者コミュニティの意見が割れているときに社会科学者が役に立つ。
技術的な判断はできないのだが、科学者がどれくらい科学の形成的意志を持っているかの判断はできる。
科学コミュニティー内でのコンセンサスの等級判断ができる。
フクロウ的な自然科学者とフクロウ的な社会科学者の混成チームが、
科学コミュニティーの中で何がコンセンサスであるかを決める。
何が真実か、ではない。
(実例)南アフリカ共和国の大統領タボ・ムベキは抗レトロウイルス薬AZTに副作用があるという文献が多数ある、として認可しなかった。科学における論争は公的な雑誌上で行われ、一気に決着が付くものではない。最初は主流派であった学説が次第に反論されても、その説にこだわって論文を公表することは出来るし、科学者であればそうすべきであろう。しかし、そのような論文は主要な雑誌には掲載されなくなり、周辺的な雑誌にいつまでも残る。大統領が多数発見した論文はそのようなものであった。このような時、フクロウ委員会は、その説の正誤について判断できないとしても、「異端」であることを報告できる筈である。誰にでも論文を書く自由があるのだから、論文には、最先端の論文、査読可能な一般論文、査読対象外の一般論文の区別があり、これらにはそれぞれ受け持つ雑誌がある。
・・・英国政府の科学顧問も同じような仕事をしているが、彼らはワシ(鷲)的科学者であり、社会科学の知見を活用せず、コンセンサスの等級判断基準を明確にしていない、という点でフクロウ委員会とは言えない。


第6章 選択的モダニズムと民主主義
・・・科学であることそれ自体によって、そして科学の生活形式を実践していることによって、科学は民主主義の存在の仕方に内実を与えている。科学の形成的価値は民主主義の形成的価値でもあるからだ:普遍主義・利害無関係性・組織化された懐疑主義・目的開放性・個人的意見と大衆的意見との緊張関係・専門知と経験を高く評価して育成すること。これらの基本的価値は必ずしも実行されていないが、それでも選択的モダニズムは民主主義を脇役として支える科学の可能性に賭ける。

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