Karen Barad の本に出てくるので、バトラーの「ジェンダー・トラブル」(青土社)を読んだ。フェミニズムの系譜学とでも言えばよいだろうか。なかなか興味深かったし、結構含蓄のある言葉が多い。その既存のフェミニスト批判の内容についてはともかく、彼女の見方は基本的にはフーコーに倣ったもののようである。曰く::明確に区分された二つのセックスのカテゴリーをセクシュアリティの言説の全ての基盤や原因とみなして、セックスにまつわる経験を規制していくことこそ、既存のセクシュアリティの体制(「異性愛のマトリックス」と命名される、場合によっては「家父長制」でもある)が行っている<産出>作業である。つまり原因とみられるものは実は結果である。ジェンダーは常に<行う事>(performative)である。しかし、その行為は行為の前にあると考えられる主体によって行われるものではない。「行う事」、「もたらす事」、「為る事」の背後に「在る事」は無い。ジェンダーとは、身体を繰り返し様式化していくことであり、行為であって、それが長い年月の間に凝固して、実体とか自然な存在という見せかけを生み出していくにすぎない。「行為する人」は行為の中で、行為を通じて構築される。他者の中で、他者を通じて、各人が言説によって自己を構築していく。

      ここで、精神分析(フロイトとラカン)の枠組みが登場して、「異性愛のマトリックス」の可能な解釈が語られる。(これは多分社会進化論的に説明されるのだろうが、)同性愛のタブーが先行していて、近親姦のタブーが生まれる。それが母と子の一体化した状態からの子の分離というプロセスで、子を男性性や女性性に誘導する。遺伝子の因子が大きいとは言え、誰にとっても確定的な発生と成長の経路はないから、生物学的な男と女の区別もまた本質的には曖昧にならざるを得ないのであるが、そこに人為的な基準を持ち込んで切り分けるのはその子が所属する社会の規約である。(現在の医学においては、男性性の身体的特徴に従って区分けする。つまり女は男でない存在として定義されている。)当然ながら、異性愛という社会規制を守ることができない者は例外者として扱われるから、その人達が社会と関わる戦略(生きていく戦略)が課題となる。バトラーの戦略は現実的なものである。異性愛を超越したり、それとは別の世界を築くのではなくて、異性愛を同性愛の中でパロディ化することによって、異性愛の作為性という本質を暴くことである。表題の「ジェンダー・トラブル」というのは、どうやら、トラブルを起こしなさい、という意味のようである。なお、内容については訳者の竹村和子さんの解説が素晴らしい。
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