矢野久美子「ハンナ・アーレント」(中公新書)はなかなか良い。後半。

・・・1949年に彼女はドイツを訪問して、ヤスパースにもハイデッガーにも会っている。ナチスに協力したハイデッガーは講義を禁じられていた。思想界としては、ナチス時代を否定するあまりに、ゲーテにまで先祖返りをしていて、ハイデッガーの思索の軌跡までが捨てられようとしていた。全体主義と向き合うことが出来なかったのである。ハンナ・アレントはアメリカに戻って、1953年に「イデオロギーとテロル」を書き、「全体主義の起原」のドイツ語版に追加した。ここに簡明に彼女の全体主義理解が表明されている。著者の説明をそのまま引用する。

・・・「イデオロギー的思考は、過去・現在・未来について全体的に世界を説明することを約束する。そして一切の経験を無視して、予測不可能で偶然性に満ちている人々の行為の特質と無関係な説明体系を作りだす。確実なものとしてみなされる前提から出発し、完全な論理的一貫性に即して、事実を処理するのである。全体主義的な威嚇の手段であるテロルは、複数の人間達が紡ぎだす一切の人間関係を破壊し、人々の自発的な行為を不可能にして人々の間にある世界を消滅させる。そうした中で、自由な行為の空間を喪失した人間たちは孤立し原子化する。そしてイデオロギーが、そのような孤立した人間を必然的な論理体系の中に組み込む。孤立した寄る辺のない人間にとって、全てをその論理の中で説明するイデオロギーが魅力を発するのである。」

・・・1958年の「人間の条件」(英語版)と1960年の「活動的生」(ドイツ語補充版)によって、彼女は人間のあるべき生き方を語っている。とりわけ、科学技術に対する態度が議論されている。「労働」(生命維持の為の行為、プロセス的思考をもたらす)、「仕事/制作」(形あり持続する人工物を残す行為、目的と手段の区別が生じる)、「活動」(言論や共同行為)という区分は、彼女にとって直観的で日常的な感覚であった。「活動」は言葉と行為による人間関係への介入であり、その中で人は誰であるかを知らしめ、予測不可能な何かを始める。政治は活動を保証すべきものであり、労働を強いたり、仕事として、つまり目的意識の元に設計されたりするべきではない。活動の場は公的なものであり、私的なものは秘匿され保護されるべきである。公的世界のリアリティは複数の見方が並立することによって保証される。しかし、近代社会において、私的なものが肥大することで一つの利害に順応することを強いるようになると、この公的世界が弱体化し、人々を孤立した大衆の一員にしてしまう。世代を超えて共有すべき世界への配慮よりも富の増大が優先される。ソ連の宇宙開発を追い抜くために取られたアメリカの科学技術優先政策もこれを推し進めた。科学者が実験場で手にする科学技術は複数の人々が生きる現実とは疎遠であり、容易に世界を破滅させ得る。

・・・1957年のリトルロック事件(白人だけの学校に9人の黒人生徒を入学させるのに、連邦軍を派遣して、現地での妨害を排除した。)に対するハンナ・アーレントの評論はリベラル派の猛反発を呼んだ。彼女は、地方での人種差別の現実は私的な事項であり、そこに公的権力が直接介入すべきではない、と言ったのである。黒人生徒達は差別から保護されるべきであって、最前線で差別と闘う戦闘員とすべきではない。実際、入学後、9人は激しい虐めに会い、一人は暴力行為で退学、8人には卒業後も癒し難い心理的障害が残った。この学校は閉鎖された。

・・・「アーレントは、複数の人々が距離をもって共有する世界を媒介とせずに、人々が直接に結びつく同胞愛や親交の暖かさの中では、人々は論争を避け、可能な限り対立を避けると語る。彼女やこれらが不要だと言っているのではないが、それが政治的領域を支配してしまうとき、複数の視点から見るという世界の特徴が失われ、奇妙な非現実性が生まれると言うのである。複数の視点が存在する領域の外部にある真理は、善いものであろうと悪いものであろうと、非人間的なものだ、と彼女は言い切る。なぜなら、それは突如として人間を一枚岩の単一の意見にまとめ、単数の人間、一つの種族だけが地上に住むかのような事態を生じさせるおそれがあるからである。」

・・・1959年、ハンナ・アーレントはドイツでレッシング賞を得て記念講演をした。ドイツ啓蒙主義時代のレッシングについて、彼女はドイツの文化的伝統を讃えるのではなく、彼が一貫して世界観というものを信用していなかったことを讃えている。「アーレントが強調する世界とは、行為する人々の間にあり、世代を超えて続くものである。ヨーロッパの知的伝統においては、世界に受け入れられないとき、自己の内面へと退去したり、予測不可能な出来事に満ちた世界とは関係のない理想郷を打ち立てたり、特定の世界観に固執したり、科学的客観性を掲げたりという姿勢があった。アーレントにとって、こうした姿勢は全体主義と相容れないものではなく、またそれに対抗できるものでもなかった。」「思考の動きの為には、予期せざる事態や他の人々の思考の存在が不可欠となる。そこで対話や論争を想定できるからこそ、あるいは一つの立脚点に固執しない柔軟性があって初めて、思考の自由な運動は可能になる。」

・・・1960年にアイヒマンが捕縛されて、エルサレムで裁判が始まった。アーレントは直接ナチスと接触した経験が無かった(うまく逃げた)ので、これが唯一の機会であると考えて、仕事を全てキャンセルして裁判を傍聴した。1963年から順次公開された「エルサレムのアイヒマン」は、アイヒマンの伝記を中心としてナチスとユダヤ人社会の関係、ユダヤ人抹殺計画の経緯、裁判の模様と評価をまとめたものであるが、リベラル派やユダヤ人社会から轟轟たる非難を浴びて、彼女は親しい友人の殆どを失った。理由は、彼女がドイツのユダヤ人組織がナチスに協力して収容されるべきユダヤ人を選別していた、ということを公にしたこと、ドイツ人のヒトラー暗殺計画がユダヤ人への関心からではなく、戦争反対のためだったという分析、アイヒマンを怪物的な悪人ではなく、ただの凡庸な官僚的人間として描いたこと、であった。彼女にとってナチズムはユダヤ人に対する迫害であるに留まらず、人類に対する犯罪であり、しかもその犯罪には被害者も加害者として巻き込まれていることが重要であった。アイヒマンを極悪人として排除(死刑)すれば済む問題ではなく、逆にそのことに固執すれば、ユダヤ国家そのものが(全体主義という)同じ犯罪を犯すことになる、ということである。

・・・1963年にケネディ大統領が暗殺され、その経緯は闇に葬られた。「真理と政治」の中でアーレントは語っている。政治的な領域をかたちづくり人々が生きるリアリティを保証すべきものであるはずの歴史的出来事や「事実の真理」は、数学や科学や哲学の真理といった「理性の真理」よりもはるかに傷つきやすいものである。「事実の真理」は集団や国家に歓迎されないとき、タブー視されたり、それを公言するものが攻撃されたり、事実ではなく意見だということにされる。それは人々に関連し、出来事や環境に関わり、それについて語られる限りでのみ存在する。それは共通世界の持続性を保証するリアリティであり、それを変更できるのは「あからさまな嘘」だけである。現代の政治的な事実操作や組織的な嘘は、否定したいものを破壊するという暴力的な要素を含んでいて、ナチズムやスターリニズムの時代にイデオロギーが果たした役割を代行して、エリートから大衆にいたるまでの無思考性や判断欠如を促している。1964年のトンキン湾事件(アメリカの駆逐艦が北ベトナム軍に攻撃されたと報道された)は南ベトナムとアメリカの謀略であった。現実、すなわちリアリティを欠いたまま歴史が進行していくことは、人間が自らの尊厳を手放すことである。「問題解決家」と称するエリート達によって、彼らの「理論」を優先する「イメージ作り」が熱狂的に行われ、アメリカの北ベトナム空爆が開始された。

・・・権力は暴力とは異なり、人々が集まり言葉と行為によって活動することで生まれる潜在力である。思考し、自由を求め、判断を行使する人々が生み出す力こそが、世界の存続を支える。この潜在力は集団としての人間でなく、ひとりひとりの人間の「はじまり」にかかっている。それによって、自動的あるいは必然的に進んでいるかのような歴史のプロセスは中断することができる。

・・・さて、このハンナ・アーレントのような深さで、日本の昭和史を総括することが出来るだろうか?
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