Karen Barad "Meeting the Universe Halfway" の第3章をやっと読み終えた。ときどき1935年の Bohr の論文を山本義隆訳で見ていたのだが、その論文の方はもっと一般的な書き方をしていて、Barad の方がむしろ具体的で判りやすいかもしれない。ただ、彼女の言うほどに Bohr の量子力学解釈が流布していないとは思えない。

      実際、僕が学生時代に読んだ朝永振一郎の教科書を物置から取り出して調べると、下線を一杯引いた処に、朝永流の判りやすさで長々と説明してあった。Barad と同じことが書いてある。<「量子的状態」なるものは測定を実施していない状態において因果律(量子力学)に従うのであるが、その間に何らかの物理量が存在していると考えてはならない。測定を実施することでその物理量が得られて、「量子的状態」はその物理量の固有状態(再度測定しても同じ値が得られる)になる。その時にその物理量と共役な物理量(例えば粒子の位置に対する運動量等)を測定すれば不確定となる(再現性が無い)。> ただし、彼の教科書には「相補性」(共役な物理量をお互いに兼務することができない測定装置で別々に測定することで「認識論的」に補い合う)という用語は登場しない! Bohr の名前も前期量子論の原子モデルと対応原理(量子理論は古典理論を含む)の提唱者として登場するだけでお仕舞いである! ところで、改めて気づいた Barad の(当然の)指摘であるが、この「量子的状態」というのは、特殊な領域の(ミクロだったり、極低温だったり、、)の状態ではなく、ただ単に不確定性の程度が実用上問題にならない程小さいだけの話であって、(原理的に)実は世界そのものでもある。
      問題はここからである。量子力学の勉強をして、僕は(多分殆どの人も)「実在」するものとして、この抽象的に数学的に表現された(表現されている以上計算できるし実験と照らし合わすこともできるが)「量子的状態」を信じたのである。しかし、Barad は(Barad が推察した Bohr は)そうではなかった!彼女(彼)にとって、「実在(reality)」は、「量子的状態」ではなくて、「現象」、つまり測定という状況において現れるもの、であるという。この立場は「現象学」に似ている。そこでは意識に表れているもの(現象)を実在とする。しかし、ここでの「現象」は物質的な存在である。いわば「あるがままの物理的現実をそのまま実在として受け入れる。」といった態度に近い。その上で、この「現象」がどのような測定対象と測定装置の区分であるのか?その区分はどのような agency(代行者)によって生み出されたのか?と問う。というところが次の章で語られるらしい。
 
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