Barad の第3章は Bohr の哲学についてで、まあ判りやすい。僕は量子力学を朝永振一郎の教科書で独学したので、最初が黒体輻射の話で、古典的な輻射場の統計理論が破綻した結果として、エネルギーの離散状態が仮定され、それから、原子と光の相互作用の実験データから原子内にある電子のエネルギー状態がこれまた離散的であることや Bohr の原子モデルの話が出てきて、巨視的な場合には古典的な理論に行きつく筈だという Bohr の対応原理を制限条件として理論が探索され、やがて Heisenberg が決定的な行列力学を完成させる、という話であった。

      相補性の話は書いてなかったし、Bohr が前期量子論を超えてまで主導的であったとは知らなかった。大抵の物理の授業では、多分 Heisenberg の不確定性関係から出発するか、それともSchroedinger の波動方程式から出発する。Copenhagen 解釈というのも、要するに物質世界(特に必要なのは量子的世界)における状態というものが、共役な古典的な変数(位置と運動量とか、、、古典力学で定義される沢山の組がある)に対して、プランク定数の程度以上の精度で同時には確定していないものだ、ということに過ぎない。そういう意味では存在論ではある。ただ、その状態というものは原理的には数学的に表現出来るはずのものであり、その状態の物理変数を決めようと思えば、物理変数に対応する数学的演算子をその状態に施す必要があるというだけである。位置であればその座標において発散するようなデルタ関数であり、運動量であれば、位置に関する微分演算子(の-ih/2πm 倍)である。エネルギーであればハミルトニアン、という風に、その演算子の形は、対応原理によって決められている。演算子を施せばその状態は一般的には別の状態となり、その移った先の状態と元の状態との間の内積操作によって、その物理量の期待値が得られる。つまり、状態というのは物理量を確率的に保持しているような概念である。しかし、その状態に対して、量子力学は完全に因果律を与えるから、力学であるという意味では、古典力学と何ら変わることはない。<状態>は具体的な測定装置によってそれぞれの物理変数が確定するのであるが、その値は決まっているとは限らない(決まっている場合をその物理変数の<固有状態>という)。あくまでも確率的に与えられるから、一般的には<状態>を知るためには再現性のある実験を統計的に充分な回数だけ繰り返さねばならない。

      これ以上哲学に深入りする必要はない、というのが殆どの物理学者の考えである。ただ、Bohr は(かどうかは読んでいないので判らないが、少なくとも Karen Barad は)この Copenhagen 解釈の<状態>というものだけでは Reality を感じないのであろう。むしろ、彼女にとって、 Reality とは<状態>ではなくて、<状態>が測定装置と出会った時に実現するその物理変数の固有状態のこと(これがつまり<現象>)のようである。

      Heisenberg は不確定性原理を提案した論文において、(運動量の知られた)電子の位置を測定する為の γ 線(波長の短い光)顕微鏡の思考実験を例に挙げている。光を電子に当ててその位置を見るのである。顕微鏡の最高分解能は使われる波の波長だから、電子の位置は光の波長より高い精度では知りえない。同時に光が電子に当たればその運動量が変化するが、その変化の程度は波長が短い程(光のエネルギーが大きいので)大きい。つまり、電子の位置を正確に測定しようとすればするほど電子の運動量は乱されて不確定となる。このような議論から、電子の位置精度と運動量精度の間には相容れない関係(不確定性関係)がある。まあ、これは一つの例であって、不確定性原理の証明ではないというのが気味悪いが、ただ、その相容れない関係を数式で原理として認めてしまえば、全てがうまく説明できる、という意味で、正に量子力学の原理なのである。

      このような Heisenberg の議論に対して、Bohr は不充分であるとして異議を唱えた。彼の分析ではあたかも電子にはもともと測定とは無関係に位置や運動量が伴っているように見える。だから、例えば、位置測定に使われた光と電子との相互作用の結果として電子がどれくらいの運動量変化をするのかが判れば、その変化量を差し引くことで電子の元々の運動量も判る筈だ、という議論が成り立つ。そこで、Bohr はその方向に議論を進める。つまり感光板まで帰って来た光の運動量を知れば良い。しかし、ここで Bohr は原理的な不可能性に直面する。そもそも電子の位置を測定するためには、光の感光板上での位置を知らねばならず、その為には感光板は実験系に対して固定されていなければならない。他方、電子に与えた運動量変化を知るために光の運動量を知ろうとすれば、光の感光板が動く必要がある。運動量は粒子の衝突で動くということによってしか測定できないからである。片や動かない感光板、片や動く感光板、というこの2つの実験条件は相容れない。したがって、電子の位置を知ると同時に運動量変化を知ることができないのである。これもまた例であるから、共役物理量についての一般的な証明になっているとは言えないだろうが、少なくともこの場合については正しいように思える。この状況に対しての Bohr の概念的転換が正に Karen Barad の注目するところである。つまり、Bohr は電子にはいつでも位置と運動量が伴っていると考える根拠がどこにもない、という事に気づいた。むしろ位置とか運動量というのは、それぞれの測定に必要な実験装置によって初めて定義され、存在する、という考えに至ったのである。物理変数の値はその対象の属性ではなくて、対象と実験装置との相互作用の結果出現する<現象>である、ということになる。
 
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