Karen Barad "Meeting the Universe Halfway" の第2章は回析的方法についてである。光学における反射と回析の相違が比喩的に扱われる。最初に提案したのはフェミニスト科学史家の Donna Haraway のようである。Barad も冒頭で彼女を引用している。

      反射は光を光線として扱う幾何光学で扱われていて、対象が実像や虚像として別の場所に再現される現象である。ヨーロッパではギリシャ時代以来、光学現象は人間の思考のモデルとして使われてきた。反射もそうであって、実体が表象という反射像として頭の中に存在する、という表象主義がその最たるものである。Haraway が批判したのはこれのもう少し進歩した段階のようで、社会学における研究者の偏見への反省的方法である。つまり研究者の主観的解釈というものも、また鏡に映すようにして認識できるという発想が批判されている。つまり、反射は何回繰り返したところで同じものの繰り返しになってしまい、ついには迷宮入りする。。。

      回析は光が波として重なり合って干渉しあう現象であるから、物理光学で扱う。(それとは別に量子光学というのは光と物質の相互作用を扱う。)反射に対する回析の効用は、それが同じものの反復ではなくて、対象に内在する差異を拡大して見せるところにある。回析現象は量子論の成立に決定的な役割を果たした。粒子と考えられていた電子が回析現象を起こすことで、波でもあることになったからである。光の回析は原子の電子状態を調べる手段でもあり、量子電磁力学の存在論とでもいうべき、「何も無いが全てが潜在的に存在している状態(真空)」における揺らぎを実証したのもまたこの回析現象であった。

      反射的方法がその対象を遠くにおいて眺めるのに対して、回析的方法というのは対象の中に入り込んでその固有の微細な構造を暴き出す。その結果として回析パターンという現象が生じる。つまり、回析を現象を作り出す行為として捉えている。そういう意味では、世界の内部に留まりその生成に関わりあいながら世界を知ることであり、その客観性は我々の現象への物質的な関わりの程度として定義される。つまり遂行的方法。それは一般化されたマニュアルではなくて、あくまでも個別の課題に立ち向かう中で発見されるものではあるが、ここで Barad が示そうとしているのは、それでも、幾つかの分野において方法論を検討してそれらを更に回析的に扱えば、共通する概念(agential realism)が得られる、ということらしい。だから、この本を最後まで読まないと判らないだろう、ということらしい。。。先は長い!。
 
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