Karen Barad: Meeting the Universe Halfway の第1章は本と同じ題名で、「自分から働きかけないと何も判らない。」と言った感じの意味である。 

      この章は representationalism の批判である。これは「表象主義」と訳されている。西洋の哲学に避けがたく染みついた傾向ということである。半分読んだ処で疲れて余計な事を考えてみた。representation というのは心理学用語で「表象」と訳される。僕がこの言葉を知ったのは大学の教養部で心理学の単位を取った時で、随分と違和感を覚えた。自然科学は歴史的には(大雑把には19世紀まで)五感で知覚できる物の世界を扱っていたから、そこで鍛えられた方法を心の分野に使おうということになると、どうしても意識されるものを個別の物のように考えなくてはならないし、そのものは意識があろうがなかろうが存在するとしなくてはならない。そこで表象という概念が無理やり作られたという感じがした。言ってみれば心の中に浮かんでは消えるイメージやら言葉やら(感情に至るまでかどうかは判らないが)、あらゆるものを指す。果たして表象は誰にとっても同じ表象なのか、というと明確ではない。だからクォリアというような言い回しが必要になる。けれども同じ人間同士であれば、、と、一応同じ表象を誰もが心に抱いていると仮定してしまうのである。具体的には、つまり実験に際しては、何等かの言語表現によって記述することになるし、表象を抱かせるために、いろいろな束縛条件において被験者の五感を表象の内容に合うように刺激する。そうしておいて、心理的なプロセスというのは表象を生じさせたりそれを操作したりすることだ、と仮定してしまう。

      だから計算機が発達してきて初めて人工知能を設計しようとしたときに、表象をデータとして供給してその操作をさせればよい、と考えたのも無理はない。しかし、このアプローチは見事な失敗に終わったとされている。人間の脳や知性というのは表象によって(さも判ったように)記述されるとしても、表象を頼りにして動いてはいないのである。表象というのは脳や知性の働きを他人に理解してもらうための方便に過ぎない。人工知能に同じような働きをさせようと思えば、表象という概念を捨てて、神経回路に環境に合うような刺激応答をさせて学習させるほうが早いのである。そうなると結局のところ学習に使われた環境そのものが知性を作っている、とするしかない。何しろ、環境との繋がりを知らない限り、頭の中で起きていることを解析してもそれが具体的に何なのかは判らないのだから。勿論学習能力というものは必要だろうが、知性の働きそのものは環境(の来歴)から理解した方が手っ取り早いのである。これが環境心理学(アフォーダンスの心理学)の立場である。そうなると、人間は単に学習能力の高い動物に過ぎないことになる。更に言えば動物も植物もその学習の方法が若干違うだけだ、ということになる。身体的(生物的)制約と環境的制約と来歴がそれぞれの知性を作りあげるだけだ、ということであるから、表象という概念が無用となる。しかし、Karen Barad はそういう方向には議論を持っていかない。表象主義の根底にある信念は世界を個別な存在達の集合と考えてしまう事である、として、それを真っ向からひっくり返そうとしている。うまくいくのだろうか?禅問答になってしまいそうな気がする。

      せっかくだから、僕の勉強した知識をまとめてみよう。 Karen Barad と全く関係ない訳でもなさそうだから。

      生物は環境から物質をより分けて吸収し利用して排出する。その実践そのものが、生物という局所のエントロピーを減少させる。秩序の生成、環境の「差異化」ということになる。生物システムの内部においては秩序生成であり、外部に対しては記号化(差異化)である。記号の意味は生物がより分けて取り入れる物質の用途ということになる。環境からより分けて取り入れるものは物質だけではない。光のエネルギーや音のパターン。それらもより分けて取り入れる限りにおいて記号である。なぜならばその目的意味が与えられているからである。こういった生物活動はそれ自身が環境を変えていくし、生物体そのものも他の生物にとっての環境となる。環境と生物の相互的な作用の循環の範囲は少なくとも地球規模である。

      何を以って記号となし、何を以って意味となすかはその生物固有の遺伝的制約と来歴に依存するから、完全に知ることはできないにせよ、大雑把な筋道は生物学によって解明されている。移動のできる生物同士の生存競争に促されて、一部の種の生物体内に神経組織が発達して、脳として集約されるようになった。脳神経とて機能するためにはエネルギー代謝も必要だし、神経伝達物質も必要だし、自ら触手を伸ばすことも必要だし、場合によっては自死も必要となる。しかしまずもって、脳神経組織は記号と意味の関連を探索し、保存し、関係付ける。そのやり方は大まかな機能分担とネットワークによる自生的な秩序である。機能分担としての側面は、遺伝と幼生時の環境に支配される個体発生の時にその神経が伸びた先の感覚器官や運動器官の機能に引きずられて決まり、結果として、脳の内部には大雑把な機能部位が出来上がる。ネットワーク的な秩序については生後の経験によって出来上がるから、個体差が大きいし、その繋がり方を明らかにするのは困難である。とりわけ類人猿やヒトにおける大脳新皮質のネットワーク構造が注目される。生後に社会性を獲得することを想定されていると思われるからである。社会性の刻印(他者認識能力)はすでに生まれ落ちたときから押されている。それを足掛かりにして、生まれ落ちた社会の成員として適応していくときに重要なのが大脳新皮質における学習である。処理すべき記号は莫大な量である。社会成員が判別している記号全てを判別するのは不可能である。

      ヒトは、どんないきさつかはよく判っていないにせよ、言語という記号体系を編み出した。言語の特徴は何といっても単語の組み合わせの多様性にある。しかし、言語発生上の身体的制約(音声)から時間順序に従うことを強制されたために、本来多次元的に関係しているべき単語同士の関係性を単語の意味とは別に約束しなくてはならない。主語と述語と目的語の順序とか、活用とか、助詞とか、あるいは発声上のアクセントの付け方とか抑揚とか、数限りない規則と慣習はその社会の成員であれば脳神経のネットワークの中に無意識の内に学習されてしまう。他方、文字の起源は言語ではない。むしろ共同体の連合として国家レベルの統治機構が生まれたときに、統治のための記録手段として生まれ、それが語りとしての言語表現を記録するように変形されていった。こうして、言語が目に見える形として、保存される形として目の前に存在するようになって、逆に言語をより複雑なシステムとして進化させた。今までは何となく感じられ、単に遂行されるだけであった様々な事柄を社会の上層階級の人々が言語によって表現するようになった。書き言葉を持たない社会においては音楽や踊りや儀式がその役割を果たしている。いずれにしても、これらの「表現」は単なる記号ではない。文法規則や音楽的、身振り的約束事によって、組合せの自由度を獲得していて複雑な事象の表現ができるのであるが、その自由度のせいで、虚構の可能性も獲得していると言える。

      さて、言語が社会性に果たす役割が増大するにつれて、人はその「思考」や「感情」といった心の中身の細かい相違について言語で表現するようになる。身体的物質的対象だけでなく、それらに対応して心の中に浮かんでいるように意識される何かを言語的に表現する。近代科学が心を対象にした為にそれらを総称して「表象」という概念が生まれた。表象の存在は、知覚対象という形式で差異化された外界の事物が頭の中にその対応物を持つ筈である、という仮定に基づいている。最近の脳科学実験において、表象は脳細胞の特定の興奮パターンとして物質的に測定され、感覚刺激がなくても、当人が思い浮かべるだけで同じ興奮パターンが生じるという事実から、ある程度の実在性を保証されている。そのデータベースを作り上げてしまえば、心の中に浮かぶ表象を外的対象物の映像や音声として他人が知ることすら可能になるだろう。しかし、この「表象」は事項の全てではない。なぜならば、その興奮パターンがあるということは、その外的対象物以外のもろもろの環境要因や個人の来歴やその時の応答にも同時に関わるからである。表象(興奮パターン)の意味は客観的な存在としての対応する外的対象物だけではない。それはそれなりに生物的に評価され、生物的な行動を起こすかもしれない。その時には脳の他の部分が興奮するだろう。そのプロセスがどうなるかは、(言語によって)切り取られた(社会的に共有された)表象の中には含まれていない。表象の形式で共有されるのは、あくまでも静的な記述にすぎない。動的な意味は広くネットワークの中に分散されていて、捉えどころがないのである。だから、ロボットの為に表象を活用して動くプログラムを作って、環境を表象で再現してそのプログラムに渡してやっても、環境に適応できないのである。環境が変化していくからだろうか?その変化を表象によって捉えて次々と渡してやればよいのか?とても処理が追いつかないが、そうすると、今度はプログラムが適応できなくなる。現実の生物は身体を持っていて、身体が環境に合わせて適応している。それでは身体をうまく組み込めばよいのか?結局のところ人間の与えたプログラムではどうにもならない。自らプログラムを変えていく仕組みが必要になる。そうすると、一体表象というのは何だろうか?そんなものが確定的な意味を持つのだろうか?プログラムとデータ(表象)という概念の区別が必要なのだろうか?という具合にして初期の人工知能は破綻したと思われる。脳は機能を果たすためには表象を必要としていないのである。これはチンパンジーがその社会生活を営むために人間のかってに付けた名前を必要としないのと同様で、実に当たり前の事であった。
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