ボリス・ド・シュレゼール「バッハの美学」もリズム、ハーモニー、メロディまで読んだ。バッハというのは結局、ヨーロッパ固有の民族音楽から’西洋音楽’への自覚的発展の最初の集大成だったのではないかと思う。これは世界中のあらゆる民族音楽にある意味で対立する人工的な音楽体系である。自然発生的な音楽が持つ自然で豊かなリズムの要素は整理され、自然に楽器や人声が持っているハーモニーよりは、人工的に構成された和声を体系化し、自然な単音の連なりであったメロディーは人工的な和声によって機能が与えられた。自然な音楽の持つ背景としての音階は人工的な和声によって自由に変形されたり、転調したり、果ては一見調性すら失った様にすら聞こえるまでになった。ともあれ、音楽が頭の中で作曲され、音楽の本質が使われる楽器に依存しないという特徴はあらゆる民族音楽に対して’西洋音楽’を特徴付ける。

    そういう西洋音楽の中でのバッハの個性はメロディーがポリフォニーとしての構造を持つという処ではないかと思う。単線的なメロディや特定の声部であっても、バッハの場合は、複数の声部が背後に存在して、それぞれの一部が交代で表に出てくるという風に解釈される場合が多いし、初めて聴くとなじみがなくても、繰り返し聴いていると、一種の奥深さを感じるのはそのためであると思う。和声というのは単線的なメロディに対してその背後にある、音階構造を顕在化し、その中でメロディの中の構成要素たる音の一つ一つの機能を明確化する。しかしバッハの場合は時間的に隔たった処に繰り返し顕在化される、背後のメロディラインによって、曼荼羅の様な世界が暗示されることになる。バッハの様式感というのはそういう曲の構造から来ているし、同じリズム形(それも結構複雑な)が調を変え音の上下を反転され、要するに手を変え品を変えながら、反復されることによって具体的には実現される。これはフーガの技法そのものである。とはいえ音楽は音楽であって、演奏によって生きる以上、楽譜を超越した表現が必要であり、その意味で民族音楽の豊かさが演奏者に求められる。これはいわば作曲家の思いを聴衆に伝える巫女のような機能であるが、演奏者の勝手な思いをぶつけてみても上手くいかないので、どうしてもある程度の解析や指導が必要になるのである。グレン・グールドが鍵盤楽器の為の曲で行ったような事をフルートで行えたら良いと思う。

    言葉がそれ自身とは別の物事を指し示す”超越的意味”あるいは合理的意味を持つのに対して、音楽はそれ自身が意味である、”内在的意味”を持つと言う事で、こう言うのが美的意味、あるいは精神的意味である、というのが彼の主張である。具体的に音楽の美を支えているのは楽曲の構造であり、音響空間の中で閉じた世界がある以上、それは言葉で語りうるものではないということある。技術としてはいろいろな音楽家の素養があるわけだが。しかし、このような音楽論は西洋音楽の枠組みの中でしか通用しないような気がする。確かにバッハの音楽はそれ自身で意味を持つわけだが、人が音楽を演奏し、聴くのは音楽のためではない。生活や感情や社会問題や風景や、そういったもろもろのことがあって、始めて音楽が成立する。その関わりの中で音楽の技術を考えなければ音楽論の意味は無いような気がする。純粋音楽という考え方はロマン派以降の西洋音楽に大きな方向性を与えて、現代音楽という行き詰まりに到達した訳で、それ以前の西洋音楽(バロック音楽)はコミュニケーションの手段であった、というのがアーノンクールの考えである。しかしまあ学者以外は皆そう思っているのではないだろうか?

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