第6章 軍事革命と機械学・力学の勃興
      16世紀は戦争のあり方が大きく変わった世紀であった。英仏戦争でのイングランドの城壁破壊もグラナダのイスラム教徒殲滅もフランスのイタリアへの電撃的侵攻も大砲無しには無かった。ヨーロッパ全体が城壁と騎兵の時代から砲撃隊へと急速に変化した。それに伴って、弾道学が必要になった。その最初でもっとも後世に影響を与えたのがタルターリアが1537年に著した「新科学」である。彼の弾道についての考え方はアルキメデスに基づいていた。つまり、運動には自然運動と強制運動があり、直線運動と円運動がある、という考えから、弾道をこれらの組み合わせと考えた。しかし、彼の優れていたところは、理論というものが実験によって確認されなければならない、と考えた点である。弾道の記述は間違っていたが、着弾距離は正確だったのである。彼はまた、ユークリッドの「原論」、アルキメデスの「水中の物体について」「平面板の平衡について」などをイタリア語に翻訳している。弟子のジョヴァンニ・バティスタ・ベネデッティは、媒質による浮力だけでなく、抵抗についても考察している。更に、簡単な思考実験(同じ重さの錘を4つ一緒に落とす)によって、重いものほど速く落下する、というアルキメデスの理論を覆している。オランダの技師シモン・ステヴィンはこれを知り、実際に実験によって、落下速度が重さに拠らないことを証明している。これらは後に、ガリレオのピサの斜塔の実験によるとされているが、その記録はない。

      機械を扱うのは職人であったから、中世においては学問の対象ではなかったが、運動や変化は学問の対象であった。一方で職人世界では斜面や梃子の原理を考察する「重さの科学」があり、これらの統合によって「機械学」を提唱したのが、タルターリアであった。1546年「さまざまな問題と発見」である。アリストテレスの書とされた「機械学」には、自然に起こらないことを、自然に反して人間が起こさせるための学問として機械学が定義されている。具体的には、梃子、滑車、楔、螺子である。重さの科学の方は13,14世紀からあり、ヨルダヌス・ネモナリウスの「重さの書」が印刷されたのは1533年であった。タルターリアはこの中世の知恵を採用して斜面の問題に解答を与えている。やり方は今日では微小釣り合いの原理に基づく。他方、中世の貴族の仕事は戦争であり、戦争のあり方が大砲によって大きく変化してきたために、貴族の中から大砲や都市の城壁の設計にたずさわるものが出てきて、ヴィドヴァルド・デル・モンテは「機械の書」を1577に書いた。もっとも、彼は幾何学に拘っていたために、近似に基づく議論を誤りとして認めていない。例えば、落下は地球の中心に向かうものであるから、位置が違えば厳密には平行でない、として、近似的に平行とする議論の出発点を拒絶し、ヨルダヌスの書もタルターリアの書も職人仕事にすぎないとして認めなかった。

      機械学を今日の静力学の問題として経験的に論じたのは1586年に出版されたシモン・ステヴィンの「重量技術の原理」であった。斜面の問題は小さな錘を数珠状に繋いで、もしも有効重さが辺の長さに反比例しないならば自発的に数珠が回転し始めるという不条理が生じる、として証明している。つまりエネルギー保存則である。ガリレオは更に進めて、1600年に書いたノート「機械学」において、機械を使用しても、距離と力の積(仕事)は変わらないのであり、力が強くなる場合にはそれだけ距離が短くなる、と述べて、機械が自然に逆らっているのではない、ということを明確にした。つまり、ガリレオに至って初めてアリストテレスが「思想的に」乗り越えられた。

      なお、タルターリアは「新科学」の中で、その出版が遅くなった理由として、自らの技術が砲撃によって多くのキリスト教徒を傷つける事は罪ではないか、と考えて、数年の間研究を止めていたが、オスマントルコの侵攻からキリスト教徒を守るためにやむをえず再開した、と告白している。軍事技術研究への史上最初の科学者からの反省ではないだろうか?

第7章 天文学・地理学と研究の組織化
      この分野は2世紀のプトレマイオスの仕事がイスラム世界を経由して齎されたことに始まる。「地理学」は1409年にラテン語に翻訳された。単なる標識と化していた中世の世界地図に比べると、世界全体の位置関係の正確さと緯度・経度を用いた表現など、画期的であった。天文学の方は「アルマゲスト」であるが、これはやや難解であったために、13世紀には抄訳が教科書として使われた。サクロボスコの「天球論」とカンパヌスの「惑星の理論」である。原書が翻訳される15世紀までに多数の解説書が出回った。本格的な天文学の復活の主役はドイツのヨハンネス・ミューラー(レギオモンタヌス)であった。彼の死後1496年出版となった「プトレマイオスのアルマゲスト要綱」には、自らの天体観測による修正も含まれており、その後長く読まれた。彼は職人の町ニュルンベルクに天文台の建築を計画し、地図や地球儀の製作に携わる数理技術者を育てた。また自ら科学書を出すために印刷所も作った。学問的には死後1533年出版の「三角法」が有名である。これによって、三角法が天文学ではなく、広く測量手法として一般化されるようになった。彼を財政的に支援したのが弟子のベルナルド・ウォルターであった。彼はレギオモンタヌスの遺志を引き継いで、長期に亘って正確な天文観測を行い、後の天文学を新しい理論に導くことになる。

      イベリア半島のイスラム追放は1492年であったが、ポルトガルではそれよりも240年早かったから、1411年にはスペインから独立した。その戦闘の中心は貴族ではなく、商人や職人層であったから、一種の市民革命となり、開明的な絶対王政となった。1415年にはアフリカ北岸に侵略し、戦利品を得ると共にアフリカ内部の情報収集を始めて1418年に大西洋を南下する探検航海を始めた。造船技術だけでなく航海技術が必要となった。地中海のように目視と経験による航海は危険すぎたから、天文航法が必要になった。緯度が高い内は北極星が使われたが、赤道に近づくにつれて別の方法が必要となり、太陽高度による緯度の決定法が開発された。赤道面からの太陽高度(赤緯:暦表から得る)と水平線からの太陽高度の差から計算される。アフリカ探検は国家事業であったから、天文学・数学・地理学の学者を集め、商人や旅行者からの情報を集め、外洋航海のための船舶や航法が研究され、優れた船員を教育して船団を組織する、という一連のプロジェクトが組織的に進められた。中世の大学とは隔世の感があった。書物としても、イタリアやドイツでの地理学・天文学が輸入され、ポルトガル語やスペイン語でも多数出版されている。ペドロ・ヌーネスの1537年「地球についての論考」には、等角航法(子午線に対して同じ角度を保つ)ではその航跡(航程線)が直線にはならず、極に向かうスパイラルになることを示し、これが直線になるような地図が有用であるとした。メルカトール図法の端緒となった。ペドロ・デ・メディーナの1544年「航海術」、マルティン・コルテスの1551年「地球および航海術の概要」などがスペイン語で印刷された。後者はイングランドの海運と海軍の形成に大きな影響を与えた。算術書も多く出版された。ガスパール・ニコラス「実用算術論」(1519)、ロドリーゴ・メンデスの「実用数学」(1540)、ペドロ・ヌーネスの「代数学の書」(1567)などが大きな影響を与えた。

      ニュルンベルグはレギオモンタヌスとウォルター以来、多数の数理技術者を輩出した。天体観測の測定道具であった、十字棹、四分儀、アストラーベ等を地上や航海上に応用した。現存する最古の地球儀(ただしアメリカ大陸が無い)、木版による地図、天球図等が作成された。これらにはデューラーも関わっている。ドイツからローマに至る道が航海と同じような考えで描かれた。そこでは磁針付きの携帯用日時計によって方角が判るようになっている。ヨハネス・ヴェルナーは月の観測から経度を決定する方法も1514年に発明した。また彼は1522年に「円錐曲線の原理」を出版した。南ドイツではルターに協力したメラヒントンによってプロテスタントの教育改革が行われ、天文学と数学が重視されて、17世紀のヨハネス・ケプラーを生み出すことになった。ケプラーにコペルニクス理論を説いたのがミカエル・メステリンである。その弟子のゲオルク・ヨアキム・レティクスはポーランドに赴いてコペルニクスの理論を出版させた。コロンブスのアメリカ大陸発見を世界地図に反映させたのはマルティン・ヴァルトゼーミュラーによる1507年の世界地図であった。

      ネーデルランドでは、ヘマ・フリシウスがアピアヌスの地理学書による「宇宙地誌」を著した。かれは天体観測用のリングを考案し、弟子のチコ・ブラーエが赤道アーミラリーを作り、天体観測に革命を齎した。地図製作のための三角測量技術を確立し、当時領土の正確な把握を必要としていた国家の要求に応えた。16世紀後半にはフランドルで最初の実用的な地図帳が作られた。メルカトールはヘマ・フリシウスの指導で数学を学び、哲学から生活のために地図製作者への道を選び、1538年に世界図を出版した。彼がメルカトール図法(航程線を一定の角度で子午線と交わらせるような描き方)に基づく「航海での使用に正しく適合させられた新しく拡大した地球の記述」を出版したのは1569年であった。当時フランドルは海洋国家スペインの支配化にあり、こうした地図の必要性が迫っていたのである。また、当時スペインとポルトガルがその領海範囲を取り決めたのだが、海上で経度を測定する実用的な方法がなかった。そこに登場したのが、既に携帯用日時計に採用されていた考え、磁針の指す方向と北との角度のズレ(偏角)である。コロンブスによって偏角が経度によって変わることが見出され、フランシスコ・ファレーロによって、経度測定の方法として提案された。メルカトールは磁石の指す極を磁極として地図上に示し、磁極子午線と子午線の角度が経度によって変わることを地図上に表現した。

      デンマークの貴族チコ・ブラーエは35年に亘って天体観測を行い、特に後半の21年間には改良された装置によって正確な恒星と惑星の位置データを集積した。その弟子であったケプラーはその仕事を引き継いでデータを増やし、1627年に「ルドルフ表」として出版した。のみならずそのデータからケプラーは惑星運動の3法則を見出し、後にニュートンによる万有引力の法則に繋がる。チコは1572年の新星(チコ・ブラーエ新星)の観測で有名になった。当時の世界像では天界において新しい星が生成するということはありえなかったからである。コペルニクスの地動説以上の衝撃を与えた。国王は彼の貴族としての公務を取り除き、フヴェーン島を与えて、そこに天文台を作らせた。測定器の改良と共に腕の立つ職人を集め、更に学生を雇って手伝わせた。こうして測定精度を一桁向上させたのである。

      ヨーロッパの絶対王制によるこのような科学重視の姿勢により、それまで商人や職人によって蓄積されてきた経験科学の成果は、国家に主導された知的エリート層に収奪されていくことになったのである。

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