第4章 鉱山業・冶金術・試金法
      中世では、鉱脈は地下で生長し、地上に出てくると信じられていた。また全ての鉱物は最終的には金になるべき本性を持つが、さまざまな障害によって途中の段階で生長が止まっていると考えられ、その障害を取り除く秘法が錬金術とされた。冶金や精錬は魔術の一種であり、炉は鉱物を育成するための人工的な子宮と考えられた。勿論具体的な方法は秘伝であった。鋳鉄を得るには大量の木材を必要としたから、山奥がその現場であった。しかし、砕石の動力や高温を得る鞴の動力に水車が使われ始めると、水辺でも営まれるようになった。

      16世紀になると印刷術が普及して、技術が出版され始めると共に、1517年の火薬の発明によって武器としての火砲や砲弾の需要が飛躍的に高まり、精錬業者が急増し、生産形態が大規模になり、資本主義的になる。より高温を得るために炉は高炉化した。これらの技術によってそれまで城壁と騎士によって守られていた封建領主が崩壊して絶対王制へと統一される。(比較するに、日本では徳川家康が鎖国と人口抑制と鉄砲の使用制限により、封建領主の連合の段階に停滞させた。)

      銅や銀の需要も硬貨と軍事目的で増大した。技術の総覧として、1540年ヴェネチアでヴァンノッチョ・ビリングッチョの「デ・ラ・ビロテクニア」が出版された。これは冶金術の全てにわたった書であり、特徴として、経営者の視点で書かれていること、手仕事の重要性を強調していること、定量的な観察を強調していること、が挙げられる。例えば酸化によって重量が増加することを定量的に記述した。経験と実践のみからなる書であり、特に錬金術の嘘八百を暴いている。更に、1556年にはゲオリキウス・アグリコラの「デ・レ・メタリカ」が出版された。これは鉱山業全般に亘る指南書となっている。厳密な定量的記述と共に、292枚に及ぶ精密な挿絵による、大規模な機械装置の記述もあって、冶金・精錬業が資本主義的な産業として一般化していたことが判る。1575年にはザクセンのラザルス・エルカーによって「主要金属鉱石と鉱物の叙述」が出版された。定量化の方法は更に詳細に亘り、天秤秤と分銅の作り方や調整法まで書かれていて、坩堝を始めとして種々の器具と共に後の定量的な近代分析化学の基礎となった。精密な計量は当時流通していた多種の貨幣の分析による評価(試金)にも重要であった。ただ、当時の貨幣の単位は12進や16進などを組み合わせた複雑なものであったから、分銅の作り方が非常に複雑になっていた。試金技術者シュライトマンは私的に10進法を使用していて、1575年に「試金小著」に記述されている。これらの技術者はいずれにしてもアカデミズムとは全く無縁であり、全て俗語で書物を残した。また中世のギルドの閉鎖性を否定し、技術の公開と普及の有用性を主張している。

第5章 商業数学と16世紀数学革命
      古代ギリシャにおいては数学は哲学的であり具体的には幾何学を指し、商人の計算学は学問とは認められていなかった。中世において計算の意義は完全数などの数の神秘性を説明するためにあった。実際の計算は、例えば教会においては、ラテン数字と小石を使った算盤が使われていた。

      10世紀には後に教皇となるジェルベールがインド・アラビア数学を学んで計算に用いていたが、魔術を使っているとして恐れられただけである。12世紀にはアラビアのアル・フワーリズミーという数学者の本「アル・ジャブル(負の数の移項)・ヴァル・ムカバーバラ(両辺での正の数の消去)」が翻訳された。これは商業数学の指南書であった。しかし、同時に再発見されたアリストテレスが商業行為そのものを否定していたので、この書物も無視された。1202年にはフィボナッチが「算数の書」を書いた。これは10進法に基づくインド・アラビア数学であり、後に大きな影響を与えた。ただ、数式は無く、言葉で表現されていた(修辞代数)。また解法は代数的ではなく図形を使った幾何学的なものであった。0は係数や解としては認めていない。10進表記も小数点以下には認めていない。大学では当然無視され、書物が印刷されたのは1857年であった。

      13世紀には北イタリアの商人達が、遠隔地との取引を為替で行い始めた。これにより都市に定住した都市商人が誕生し、都市が栄える。為替取引は文書による取引であり、必然的に算数が必須となる。需要によって、14,15世紀には教会や大学とは全く別に多くの算数教室が開かれた。教師も下層階級であった。教科書としては1290年のものが最初として残されているが、内容はフィボナッチの書に倣ったものである。四則演算と比例計算によって、全ての問題を解くが、解き方は一般化されたものではなくて、個別の例に応じて事細かに手続きが記されている。商業の現場で便覧的にも用いられた。レクリエーションの問題として、代数的な(未知数を使う)問題も記述されている。1328年にフィレンチェのパオロ・ゲラルディーが書いた「諸問題の書」は最初に代数学を論じ、3次方程式も論じられている。その後も代数学を記述した算数の教科書が続き、その集大成として、1494年にルカ・パチョリの「算術大全」が出現した。商業数学から代数学、複式簿記から幾何学までをカバーしている。

      ルカ・パチョリは貧しい家庭の出身でありながら、修道士となり、大学での勉学に励み、大学で講義したり、貴族に雇われたり、レオナルドのような芸術家とも親交があった。ラテン語にも堪能であったが、「算術大全」はイタリア語で書かれている。彼が新たに加えた要素は無いが、代数学においても複式簿記においても、これは最初に印刷された教科書であったという意味で画期的であったし、3次方程式の解法は未知であると明確化して、その後の数学的代数学の発展を促した。

      フランスでは、当時両替、貸借契約、清算業務取引の中心だったリヨンのニコラ・シュケーが、1484年に「数の科学における三部分」を書いた。これは記号代数の始めであり、ベキ記号も登場し、指数法則も初めて記述されている。方程式の係数や解として0、負数も許している。印刷は1880年であったが、1520年にド・ラ・ロッシュがその内容を「新算術集成」として印刷して大きな影響を与えた。

      ドイツでは、ニコラス・クザーヌスが1450年に「無学者考」三部作を発表し、商業数学こそ本当の数学であり、この世の物は数と重さと尺度にしたがって存在し、精神の理解の範疇は数である、として、天文学に限られていた測定を地上の物体に適用した。合金の組成、脈拍数、呼吸数、磁石の作用の強さ、等を測定する方法を記述している。こうして、定性的で受動的な自然哲学から定量的で能動的な自然科学への道を指し示した。この他多くの数学書が誕生し、+や−や√記号が発明された。

      16世紀にはスキピオーネ・デル・フェッロとニッコロ・タルターリアによって、独立に2次項の無い3次方程式が解かれたが、彼らは公表せず、タルターリアとフェッロの弟子は「数学勝負」をして、結局タルターリアが勝った。当時下層階級の数学教師はこうして地位を上げようとしていた。これを聞いた医師のジローラモ・カルダーノはタルターリアに職の斡旋をし、彼より先に解法を公表しないことを条件に解法を聞き出した。しかし、カルダーノはタルターリアよりも先にフェッロが解いていたこと知り、更に解法の証明や一般的な3次方程式に拡張し、4次方程式の解法も見出したため、1545年に「大技法ないし代数学の規則」を出版して、イタリア一の数学者の名声を得た。この本では代数学が商業利用目的を離れて論じられている点で新しいが、一方で幾何学的方法に捉われている。つまり、線分の長さ、面積、体積を超えた概念としての4次の項は遊びの域を出ないとしている。彼は計算の途中で生じる複素数を発見しているが、解としての複素数は認めていない。これを乗り越えたのは、水利技術者ラファエロ・ボンベッリが1572年に出版した書「算術の主要部分に分けられた代数学」であった。彼は虚数が何であるかということには答えていないが虚数の演算規則を与えている。また、3世紀の数学者ディオファントスに影響されていて、幾何学的制約から離れて代数学の立場を確立した。更に、スペインから独立したオランダの水利技師であったシモン・ステヴィンは数学、建築、商業といった多くの分野の実践と理論に精通した技術者であったが、彼が1585年に出版した「十分の一法」は十進の小数点表示を始めて提唱したものとして数学史に残る。算術の全てが、整数を用いて容易に計算できるようになった。当時の単位系は60進法や12進法、2進法、3進法、5進法もあって、極めて複雑であったが、彼はこれらを十進法に統一すべきことを政府に提案している。実現するにはフランス革命におけるメートル法採用まで待たねばならなかった。1を数の仲間に入れること、無理数に解としての市民権を与えたこと等、ここにおいてルネッサンスの数学が頂点に達した。

      以上のような商人と算数教師、あるいは実用技術者達が自らの必要に迫られて開発した数学から代数学の基本が出来上がっていった。17世紀のデカルト、ニュートン、ライプニッツの代数学、解析幾何学、微積分学はこれらに多くを負っている。

      日本では、丁度この頃の江戸時代、同様に商業上の必要性から和算が発展した。それは中国由来の算法を日本独特の方法で発展させたものであり、実用性のレベルからいって見劣りするものではなく、更に一種の「道」として実用性から離陸しつつあった。明治期に西洋の数学が輸入されなければどうなっていたであろうか?興味深い。

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