第2章 外科医の台頭と外科学の発展
      中世には土着の呪術めいた医療とギリシャ時代の医学がわずかに残っていた。キリスト教は血を嫌う。医療行為は神の奇跡としてしか許されないのである。12世紀にイスラム文化受容の一環として医学も輸入された。しかしそれは古代ギリシャ医学(medicus)にあった経験主義的な要素が抜き取られた自然哲学としての医学(physicus)であった。疾病の原因を思弁的に探求したのである。現実の患者の治療や手術は外科医=理髪師に任された。13世紀イタリアの大学の医学部では臨床も重視されていて、化膿にワインによる消毒が使われたし、骨折・脱臼の治療も教えられた。しかし、ラテン語の教科書ではそれらの侮蔑すべき技芸には触れられず、ギリシャ哲学に準拠した演繹的な医学が語られているのみであった。パリ大学では医学部入学には臨床に一切関わらないこと、という誓約書が必須とされた。外科医や薬種商は医療行為に口を出してはならず、大学で「医学」を学んだ医師の指示に従うべし、ということになっていた。しかし、そのような「医師」は少数であって上層階級の専属だったから、実際の医療行為は民間の理髪外科医、薬種商、助産婦、浴場主、古老、薬草師、呪術師に担われていた。助産婦や女性祈祷師は民衆に影響力を持っていたから教会から魔女として迫害されたことは良く知られている。外科医や理髪外科医は大学とは分かれてギルドを結成し、その順序のヒエラルキーで「医師」の下働きも果たしていた。身体表面に出ている疾病に関しては理髪外科医が独断で治療することが出来るが、内部を切り開く手術は外科医の指導が必要であった。外科医は「医師」を目指して文献学に向かったため、次世代の医学を切り開いたのは結局理髪外科医であった。

      14世紀後半のペストの流行に対して医師は全く無力であった。唯一有効性を示したのは理髪外科医による患者の化膿した腫れ物の切除であったから、ドイツ語にはペスト理髪師という言葉が残されている。15世紀からの戦争の変化(武器の進化)と16世紀の梅毒流行によって、理髪外科医と外科医の台頭が更に促進された。

      1497年にシュトラスブルグで出版されたヒエロニムス・ブルンシュヴィヒの「外科学書」は当時の理髪外科医の実用知識ドイツ語でまとめた本として成功した。1517年のハンス・フォン・ゲンスドルフの「戦場外科書」もまた戦場での治療体験をまとめた本であった。1536年にはアウグスブルグでパラケルススの「大外科学」が出版された。彼も流れ者の外科医であったが、署名人を治療したことが特別に認められてバーゼルの大学での講義を許された。彼は大学での医学を徹底的に攻撃し、研究と教育の基本に臨床経験と患者の現実を捉えること、民間に伝承される医療から謙虚に学ぶこと、を主張した。勿論、講義はラテン語ではなくドイツ語であった。「大外科学」には民間医療の広範囲な調査結果が盛り込まれている。医学と外科が一体のものであることも宣言されている。

      フランスでは、アンブロワズ・パレ(1510年頃−)の功績が群を抜いている。理髪外科医の資格もないまま従軍して、戦場において、民間治療法を馬鹿にせず実地に試みて、その結果を従来法と比較実験し、反復実験で確認する、という現代でも通用する方法論で、多くの新しい治療法を見出している。例として、銃創に対する熱油での消毒を止めて卵黄とバラ油による消毒に変えたり、火傷に対して塩をふりかけた玉ねぎをあてがう方法を使ったりした。功績が認められて1553年には王の外科医の一員となった。多数の書物を出版したが、パリ大学の医学部から攻撃を受けた。それは四肢切断後の止血に烙鉄を押し付けるという方法の替わりに血管を糸結びする方法を行ったことが、古代の医師たちの見解に逆らっているばかりでなく、残酷である、というものであった。前者はそもそも間違いであり、後者はパリ大学の医学教授達が如何に現実を知らないかということの証拠でもあった。この他、異常分娩時の胎児の救出法や義肢の発明などの功績がある。イングランドにおいても同じ経過を辿った。大学での医学が自然哲学に閉じこもってラテン語の使用によってその権威を保っていたのに対して、民間では医療の実用書が普及していき、ペストの流行と英仏戦争によって、大学の医学が相手にされなくなった。

第3章 解剖学・植物学の図像表現
      大学での「医学」が依拠したのは、解剖学、植物学、天文学であった。解剖学の最初は2世紀にガレノスが残した「解剖手技」であったが、出版されたのは1532年であった。実際に解剖が行われるようになったのはボローニャで、モンディーノが1316年に出版した「解剖学」が長らく実際の指針となっていたが、これは図版が無く、言葉のみで人体構造を語ったものであったし多くの間違いをガレノスの書と共有していた。解剖を実際に行って人体の構造を解明したのは15世紀北イタリアの画家と彫刻家であった。人体を描くためには骨格と筋肉の構造が必要だったためである。アルベルティやラファエロ等であったが、その中ではレオナルド・ダ・ヴィンチの業績が特異的であった。絵画に必要な表面的な構造に留まらず、人体をまるで機械と見なしてそのメカニズムを追求する、という態度に貫かれている。後世に纏められた「解剖手稿」には、毛細血管、動脈硬化による老化と死、脊椎や骨盤の正しいバランス、心臓が4室から成ること、肺の機能、など彼の発見したことが溢れている。彼はその中ではっきりと言語では表現不可能であり、適切な図像が必要であることを述べていて、実際彼の発明になる、多方面からの同時観察図や重なり合った構造を表示するための透明図、さらに、機械図と同じような断面図、などが多用されている。これらの群を抜いた貢献は、しかしながら、彼がおよそ出版を無視したために、近しい者達以外には同時代に影響を与えていない。

      図像の重要性は植物学においては明白である。既に1世紀にはクラデウスの「薬物誌」が知られていたが、その図像は後世には手で写されてきたからどんどん変質していった。中世において自然は写実の対象ではなく、象徴と寓意を読み取るべき対象であったから、図像自身も象徴図のようなものに変わっていって、新たに写生して図像を残すことも無かった。ただ、ルネッサンスの画家達は現実の植物を絵画の中に描きこんでいる。本格的な写生図による本は1530年、ストラスブルグでデューラーの影響を受けたオットー・ブルンフェルスが「本草写生図譜」を出版したのが最初だった。ただ、その図はあまりにも写実的で虫食いや枯れた様子まで描きこまれていた。その点が克服されたのは1542年、バーゼルでレオンハルト・フックスによって出版された「植物誌」であり、そこでは植物の特徴を捉えた500を超える図版が掲載されていて、その後の長い間標準的書物となった。

      大学の解剖学の講義において実際に解剖するのは理髪外科医であり、医師はガレノスの書物を読んで指示するばかりであったが、16世紀に至ってやっとべレンガリオ・ダ・ガルピがモンディーノの注釈という形で実際の人体構造とは異なることを指摘し始めた。著書「イサゴーゲー」には多くの図像が使われていて、それはレオナルドの図像とよく似ているところから、彼の図を見た画家達によって描かれたものと思われる。1541年にはジョヴァンニ・バティスタ・カナーノの「人体筋肉解剖図」も出版され、初めての銅版活版印刷で筋肉の図が掲載されている。こうして、パリ大学にも大学外で解剖経験を積んだ解剖学者アンドレウス・ヴェサリウスが登場する。バーゼルで1543年に「人体の構造について(通称ファブリカ)」を出版したとき、彼は28歳であった。解剖学と生理学の700ページに及ぶ大作であり、図像も200枚以上使われている。図を描いたのは当時の画家達であったが、そこにレオナルドの影響があったと思われる。彼はまた大学での解剖学のあり方を根本的に改革し、学生に実際に解剖させることを重視した。もっとも彼の中には依然としてガレノスの解剖学があって、その個々の200以上もの誤りを指摘するものの、枠組みは継承している。ガレノスが在るとするものは「見当たらない」とは書くが、「存在しない」とは書かない。

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